神の民にとっての出世

新年感謝礼拝

神の民にとっての出世

マルコによる福音書 10:42-45

42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

どのようなリーダーを目指すのか

 明けましておめでとうございます。
 皆さんは年末年始、どのように過ごしましたか。
 私は昨日、子どもたちと映画を見に行きました。子ども向けの映画を安く見れるチケットを学校や保育園でもらい、秋から楽しみにしていました。
 見たのはクレヨンしんちゃんの映画。
 東京に恐竜のテーマパークができたという設定です。

 テーマパークを手掛けたのは世界的なイベントプロデューサー、バブル・オドロキー。
 アンビリーバブルなイベントを次々と実現してきた彼は、なんと恐竜を現代によみがえらせたと言います。
 そんな驚くべきアイデアを実現させるために、彼はあらゆる手を使います。事実を隠し、秘密がバレそうになれば暴力的な手段を使います。自分の願い通りにならなければ、実の娘であっても役立たずと言って切り捨てます。
 彼はこうして世界的な名声を得たわけですが、そのようなリーダーシップはいつか問題を起こします。

 昨年末、神の子としての成長の話をしました。覚えていますか。先週の話です。
 そこで浜松は出世の街なので、皆さんも世界で活躍する人になってほしいと言いました。
 しかしどのようなリーダーになるか、方向性に気をつけなければいけません。

この世的なリーダーを目指してはならない

誰が偉いか

 イエス・キリストとその弟子たちがエルサレムに向かっていました。
 ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と信仰告白したことをきっかけに上洛が始まります。
 ついにイエス様がメシアとしてエルサレムに入城する。きっとローマ帝国の支配を打ち破り、イスラエル王国が再興するのだ。その時にはダビデの子イエスが王座につくだろう。
 途中、イエス・キリストは死と復活を3回にわたって予告していました。しかし弟子たちは気にしていません。
 そんな意味の分からない話より、重大なことがあります。
 それは誰がナンバー2、3になるかということです。
 ヤコブとヨハネ兄弟がこっそりイエス様にお願いすると、他の弟子たちは腹を立てました。彼らも偉くなりたかったのです。向上心があっていいではないですか。

人を支配するリーダー

 そんな弟子たちにイエス様が話したのが、今日の本文です。
 まずは「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言います。
 この世の人々の間ではどういう人がリーダーと呼ばれているかという、常識の話です。
 それは偉い人が権力を振るい人々を支配するというリーダーシップです。日本でも一般的に見られるリーダーシップです。
 親の言う通りにしなさい。先生の言うことを聞きなさい。政府の言うことには従います。
 このような組織ではリーダーの下にひとつにまとまる団結力があります。
 リーダーの指示にない勝手な行動は団結を乱すので許されません。
 人々はリーダーの指示通りに動く駒のようです。
 リーダーの野心を叶えるために利用されます。

自分を養うために羊を利用する羊飼い

 羊の群れにとって、羊飼いは従うべきリーダーです。
 そして羊飼いには羊を自由に扱う権利があります。
 羊のミルクをしぼって飲んだりチーズを作ったり、毛を刈ってセーターやマフラーを作ったり、屠ってその肉を食べたりすることもできます。売ってお金にすることもあります。常識ですよね。

 しかし聖書はそのような羊飼いを不正な羊飼いとして断罪します。
 エゼキエル書34:2-6を見てください。
 先ほど話したような常識的な羊飼いは、自分自身を養う羊飼いです。
 彼らにとって羊は、自分の利益のために利用される存在に過ぎません。
 病気になったりケガをしたりすれば、価値が下がります。役に立たないもののために治療費など出しません。
 もし一匹の羊がいなくなっても、その一匹のために他の羊を危険にさらすわけにはいきません。ついてこない羊が悪いのです。
 言うことを聞かせるためにムチも振るいます。
 落ちこぼれた羊たちは飼い主のいない羊となってさまよいます。

この世のリーダーシップは聖書の価値観と異なる

 そして聖書は、このような羊飼いの姿が、イスラエルのリーダーの姿だと言います。

2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。

エゼキエル書34:2-3

 つまり、この世で常識だと思われているリーダーシップは神が喜ぶものではありません。
 人を支配するリーダーシップは、聖書の価値観ではないのです。

仕える人になることを目指す

 イエス様は常識の話に続けてこう言いました。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
 あなたがたとはキリストの弟子たちのこと。
 彼らはイエスをメシアだと信じる人たちです。
 イエス・キリストが立てる王国の民です。
 そこではこの世の常識とは違う価値観が流れます。
 それは、皆に仕える者になり、すべての人のしもべになるというリーダーシップです。

人を生かすリーダーを神は求めている

 エゼキエル書34章の続きの部分では、神ご自身が失われた羊を探して救い出すと約束されています。
 神にとって、一匹の羊の命が大事です。
 羊が勝手にいなくなっても、その一匹を決して見捨てず諦めない。
 まことの羊飼いは羊たちを養い、命を豊かに与えるのです。

 これはイスラエルの民について語られています。
 神は、羊を養う羊飼いのように、人々を生かすリーダーを求めています。
 イエス様が語った仕えるリーダーシップと共通するリーダーの姿です。
 だから神が喜ぶリーダーシップ、聖書が語るリーダーの姿は仕える者です。

私たちも誰かにとってのリーダー

 これは一部のリーダーに向けて語られている話ではありません。私は教会のリーダーではないから関係ないと思わないでください。
 これはイエスを主と信じるすべての人に語られています。イエス・キリストが立てる王国、神の国の民すべてに求められることです。

 リーダーという称号がついていなくても、私たちは皆、誰かに影響を与える存在です。
 親として、先輩として、私たちは誰かの前に立っています。
 そこでどう振る舞うのか。
 常識的に振る舞うことももちろん大事です。
 しかしこの世の価値観と聖書の価値観が対立するときがあります。
 その時は神の民として生きることを選び取ってください。
 私たちも家庭で、学校で、職場で、教会ではもちろん、皆に仕える者、すべての人のしもべになることが求められています。

私たちを生かすために命をささげたイエス

 仕えるリーダーの模範はイエス・キリストです。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
 イエス様はメシアとしてエルサレムに入ろうとしています。それはイスラエルの王座にのけぞって人を支配するためではありません。仕えるために来ました。
 失われた羊を探して救い出すために、神ご自身が来たのです。

キリストの血によって自由になった

 私たちも不正な牧者に支配される羊でした。
 誰かに支配されてきたという感覚はないかもしれません。しかしこの世には支配者がいます。それは悪魔です。
 また私たちは罪の奴隷状態にありました。生まれながらに罪人の状態だったので、罪の奴隷であったことに気付きません。
 この支配、奴隷状態から解放するためにイエス様が来ました。

 ある奴隷を解放するためには、その奴隷の命の代価、身代金が必要です。
 私たちを救い出すために、イエス様が身代金を払ってくださいました。それはイエス様ご自身の命です。
 イエス様はまさにそのために、エルサレムに向かっています。
 悪魔の頭を砕き人々を罪から救うために、イエス様は血を流し死なれる。十字架への道を歩んでいます。
 イエス様の十字架の死と復活によって私たちは救われ、新しい命に生きる者とされました。
 キリストの血の代価によって私たちは救われ、自由になったのです。
 私たちは神に買い取られ、神のものになりました。

神の御心に従う

 もうこの世に支配されません。神の民として生きます。
 この世の価値観に流されるのではなく、神の御心に従います。
 イエス・キリストが私たちを生かしてくださったように、私たちも誰かを生かすために仕えるのです。

3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

フィリピの信徒への手紙2:3-5

 自分を養うこと、自分をよく見せることをやめて、周りの人々のために何ができるかを考える。
 イエス様がそうしてくださいました。
 神ご自身でありながら人となって私たちの間に住み、自分のしたいことではなく神様の御心に従った。十字架の死に至るまで。

愚かだと笑われても神が喜ぶことを選ぶ

 神の御心に従って生きることは愚かなことに思えることもあるでしょう。損をしているように思える。
 ナルドの香油をささげたマリアの行いは、愚かに見えます。
 300万円もする香油を無駄遣いした。それを売ったらたくさんの貧しい人たちに食料を提供できる。そっちの方がいいでしょう。
 そのように常識的に考えたイスカリオテのユダには、神の御心がわかりませんでした。
 他の人に仕えること、誰かを愛するために惜しまずささげることは愚かだと笑われるかもしれません。
 いいじゃないですか。人々に笑われても、神に喜ばれることを選び取っていきましょう。

 今年、出世の街浜松に生きる皆さんがますます活躍することを願っています。
 私たちはこの街の市民ですが、それと同時に神の国の民です。だから神の民として生きていきましょう。
 誰かを生かすために仕え、惜しまず豊かにささげる者になることを願います。

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