神の約束を受け取る者の祈り

歴代誌講解18

神の約束を受け取る者の祈り

歴代誌上 17:16-27

16 ダビデ王は主の御前に出て座し、次のように言った。「神なる主よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。17 神よ、御目には、それも小さな事にすぎません。あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。神なる主よ、あなたはわたしをとりわけ優れた人間と見なされたのでしょうか。18 あなたは僕を重んじてくださいました。ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。あなたは僕を認めてくださいました。19 主よ、あなたは僕のために、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、その大きな御業をことごとく知らせてくださいました。20 主よ、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。21 また、この地上に一つでも、あなたの民イスラエルのような民がありましょうか。神は進んでこれを贖って御自分の民とし、御名を上げるために、大いなる恐るべき御業によって、エジプトから贖ったあなたの民の前から異邦の民を追い払われました。22 主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民とし、あなた御自身がその神となられました。23 主よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに確かなものとし、御言葉のとおりになさってください。24 それが確かなものとされ、『万軍の主、イスラエルの神はまことにイスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。僕ダビデの家が御前に堅く据えられますように。25 わたしの神よ、あなたは僕の耳を開き、僕のために家を建てる、と告げてくださいました。それゆえ、僕はあえて御前に出て祈っているのです。26 主よ、あなたは神です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。27 どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主よ、あなたが祝福してくださいましたから、それはとこしえに祝福されます。」

賛美によって心が変えられる

 昨日9月11日でアメリカ同時多発テロから20年が経ちました。
 国際テロ組織アルカイダのテロリスト19名によって4機の旅客機がハイジャックされました。その内2機はニューヨークの世界貿易センタービルの北棟と南棟にそれぞれ突入。世界貿易センターは崩壊しました。3機目はアメリカ国防総省ペンタゴンに墜落。庁舎の一部が崩壊しました。4機目はワシントンD.C.に向かっていましたが、乗客の抵抗にあい野原に墜落しました。一連の攻撃で2977名が亡くなり、25000人以上が負傷しました。
 高校生だった私も実家のテレビで世界貿易センタービルの北棟からどす黒い煙が上がる様子を見ていました。
 最初は事故だと思いました。リポーターが、ハイジャックされた旅客機が突入したと言っても信じられませんでした。機体のトラブルか操縦ミスではないか。ハイジャック犯も人間。生身の人間にそんなおぞましいことができるはずがない。少年だった私はそう信じたかったです。
 しかし中継の映像にもう1機の旅客機が映りました。そして狙いすませたように南棟に突入しました。
 これは事故ではない。偶然ではない。明確な攻撃だ。人間にこんな恐ろしいことができるのかと、衝撃を受けました。

 アメリカのゴスペルシンガー、マット・レッドマンさんはこのような悲しみに取り組むのに十分な言葉がないことに気づきました。言葉を失うような悲劇の中で、果たして賛美などできるのか。心の中の痛みや嘆きを声に出すための歌が明らかに足りていませんでした。

 そこでマットは1つのワーシップソングの詩を書きました。それが “Blessed Be Your Name(主の御名をたたえ)”です。

 このワーシップソングはただ嘆きに焦点を当てているのではなく、礼拝者たちを巡礼の旅に導きます。
 豊かさがあふれる時も、荒野の中を通されるときも主の御名をたたえようと呼びかけています。
 苦難の中で「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と告白したヨブのように、自らの心が主を賛美することを選び取るように導きます。
 いくら賛美しても壊れたものは直りません。失ったものは戻ってきません。しかし賛美によって私たちの心は変わります。
 礼拝において大事なのは、自分が変えられることです。

神の約束によって人生観が変わる

 ダビデは神の箱のためにレバノン杉の家、神殿を建てようと思いました。この素晴らしい計画に対し預言者ナタンも「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。」と後押ししました。しかし神は「神殿を建てるのはダビデではない。神がダビデのために家を建てる」と約束しました。
 これを聞いたダビデは祈りをささげました。

ダビデが神を信頼したのではなく、まず神がダビデを信頼している

 ダビデは祈りの中で「何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか」と問いかけ、自分のことを僕と表現しています。その小さな者を神が認め、重んじ、大きな御業を知らせてくれたことに驚きを口にしています。
 神の約束を受け取り、ダビデの世界観は変わりました。
 それまでもダビデは神を信頼してきました。万軍の主を信頼し、ゴリアテのような巨人にも立ち向かいました。そして石を投げ、一撃でゴリアテを倒しました。
 それはダビデが神を信頼したから与えられた勝利のように見えます。
 しかしダビデが神を信頼したのではなく、先に神の方がダビデを信頼していることを発見しました。
 神の御心など全く理解していなかったこの小さな者を神が認め、重んじ、大きな御業を知らせてくれる。

 他に比べられるものがない唯一の神があなたを信頼しています。あなたを用いようと呼んでいます。そしてあなたに賜物を与え、それを用いるように願っています。

父の信頼

レンブラント・ファン・レイン「放蕩息子の帰還」

 ルカによる福音書15章に放蕩息子のたとえが記録されています。
 二人の息子がいる父親が、弟の方から遺産を先に分けてくれと求められます。父はその要求に応え、財産を2人に分けました。
 大勢の雇人がいて有り余るほどパンがある裕福な家です。財産の分け前はかなりの量になったはずです。弟はその財産を金に換え、遠い国で遊んで暮らしました。
 しかしお金が無くなるとみじめな生活に転落しました。そこで彼は思い直し、父の家の雇人の一人にしてもらおうと思いました。
 家に帰る途中、まだ遠く離れていたのに父は彼を見つけ、走り寄って抱きしめました。そして無条件に息子として受け入れ、パーティーを開きました。
 弟の人生観に問題があることは明らかです。そして自分はもう息子と呼ばれる資格はないと思っていました。
 しかしそれは勘違いです。
 父親がこの弟の問題ある人生観を見抜いていなかったと思いますか。父親は弟の弱さを知りつつ、財産を分けたのではないでしょうか。そして必ず帰ってくると信じていたからこそ、弟の帰りを待ち続けたのではないでしょうか。
 父は弟の弱さを知りつつ彼を信頼しています。

あなたは神に信頼されている

 これが父なる神の姿です。私たちが神を信じたのではなく、神が先に私たちを信じています。私たちが神を信じられない時でも、神は私たちを信頼しています。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

ヨハネによる福音書15:16

 神はあなたによって実を結ぶことを願い、あなたを任命しました。そのために必要なものはイエスの名によって祈ることで何でも与えられます。
 この神の約束はあなたの人生観をどう変えますか。

祈りの中で自分が変えられていく

 ダビデの祈りは、神への賛美の後に求める祈りに変わっています。
 主の祈りもそのような流れになっています。まず神を賛美し、求める。これが祈りの模範的な流れと言えます。
 ダビデはその中で「主よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに確かなものとし、御言葉のとおりになさってください。」と祈っています。
 ダビデが願っているのは神の約束が実現することです。自分の思い通りになることではありません。
 ダビデの考え自体はよいものでした。神は神殿というアイデア自体は拒否していません。ナタンも「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。」と言いました。
 しかしダビデは自分の心ではなく神の御心が行われることを選び取りました。

祈りの目的は神の御心に自分を一致させること

アルブレヒト・デューラー「祈る手」

 祈りとは何でしょう。誰かから「祈りって何?」と聞かれたらどう答えますか。
 「神様とお話することです」などとよく言われますね。
 ウエストミンスター小教理問答の第98問は「祈祷とは何ですか」という問いです。
 それに対する答えは、「祈祷とは神の御意志に一致する事のために、キリストの御名によって、私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。」とあります。
 祈りの目的は神の御心に自分を一致させることです。
 自分の願い通りに神に働いてもらうことではありません。神に変わってもらうのではなく、自分が変わるのです。神を動かそうとするのではなく、神からの信頼を受け取って自分が歩み出すのです。

自分の心を無視することではない

 神の御心に一致するというのは、自分の心や考えを無視することではありません。自分の正直な考えや気持ちを押し殺してはいけません。
 イエス・キリストはこう祈りました。

こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

マルコによる福音書14:36

 イエス様も御心が成し遂げられることを祈っています。しかしその前に「この杯をわたしから取りのけてください」と自分の正直な願いも告白しています。

愛のあるコミュニケーションのために自分の心を大切に

 神様は神のかたちである人間に考える力を与えました。感情があり、自由意思があります。そして神様は人間を信頼しています。だから自分の考えを持つことは大事です。
 あれがしたい、これはしたくない、あれは好き、これは嫌い。そのような自分の心を正直に伝えるのは、愛のあるコミュニケーションに欠かせません。
 祈りは神様との対話。神様は祈りにおいても私たちと愛のあるコミュニケーションを願っています。
 それなのに自分の正直な心を隠して、神様の御心を一方的に聞き出そうとするなら、どうして神様の心に自分を合わせることができるでしょうか。
 あなたを信頼している神様に対する裏切りにもなります。
 自分の正直な思いを告白するとき、私たちは神様の思いを受け取ることができます。

 神様の御心を受け取って私たちは歩み出していきます。
 そのとき私たちは自分に与えられている知識、考え、感情、あらゆるものを活かして神様に用いていただくことができます。
 私は神様に信頼されている。神様から愛されている。そのことを覚えて正直な思いを告白するとき、私たちは神様の御心に合わせて日々変えられていくのです。

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