歴代誌講解15
神の言葉に従う喜び
歴代誌上 15:1-3,11-15, 25-29
1 ダビデは、ダビデの町に宮殿を造り、神の箱のために場所を整え、天幕を張った。2 ダビデは言った。「神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である。」3 ダビデはイスラエルのすべての人々をエルサレムに召集し、主の箱を運び上げて、そのために整えた場所に納めようとした。
11 ダビデは祭司ツァドクとアビアタル、レビ人のウリエル、アサヤ、ヨエル、シェマヤ、エリエル、アミナダブを呼んで、12 言った。
「レビ族の家系の長であるあなたたちは、兄弟たちと共に自らを聖別し、イスラエルの神、主の箱を、わたしが整えた場所に運び上げよ。13 最初のときにはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。」
14 祭司とレビ人は、イスラエルの神、主の箱を運び上げるため自らを聖別した。15 主の言葉に従ってモーセが命じたように、レビ人たちが竿を肩に当てて神の箱を担いだ。
25 ダビデは、イスラエルの長老と千人隊の長たちと共に行き、喜び祝って主の契約の箱をオベド・エドムの家から運び上げようとした。26 主の契約の箱を担ぐレビ人を神が助けてくださったので、彼らは雄牛七頭と雄羊七匹をいけにえとしてささげた。27 ダビデは亜麻布の上着をまとっていた。箱を担ぐすべてのレビ人も、詠唱者も、運搬長ケナンヤも同様であった。ダビデは麻のエフォドも着けていた。28 イスラエルの人々はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛とラッパを吹き、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を奏でて、主の契約の箱を運び上げた。29 主の契約の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、喜び踊るダビデを見て、心のうちにさげすんだ。
従うことは損ではない
先週20日から静岡県も緊急事態宣言の対象になりました。外出を必要最小限にすること、県外への移動や密になる場面を避けること、ワクチンを打ってもマスクを着けること、友人などとの飲食の機会を避けることなどが要請されています。
強制ではないし、不要不急かは個人の判断に任されています。だから県からのお願いに従って我慢するのも自由だし、県外に遊びに行って楽しむのも自由です。新潟でフェスに参加するのも自由。銀座の街をぶらぶら歩くのも自由です。
そうすると従う方が損をしている気にもなります。従うことは不自由で損なことだと思う人もいます。
しかしルールを守ることは誰かを守ることにつながります。自分の安全を守るだけでなく、周りの人を守ることになります。
自分が従うことで誰かが守られていると思えば、従うことも喜びになるのではないでしょうか。
もちろん理不尽な命令に対しては従わない方がいいこともあります。
しかしその要請やルールが愛から出ているものなら、従った方がいいです。
愛の神様の言葉に従うなら、喜びを得ます。
神の言葉に従う礼拝者
神の箱がガト人オベド・エドムの家に置かれてから、その家が祝福されていることをダビデは聞きました。そこでダビデは神の箱をエルサレムに移すことを決意しました。
まず神の箱を置くための天幕を準備しました。そして祭司とレビ人たちを呼び集めました。
レビ人の代表者の中でアサヤはメラリの氏族。ヨエルはゲルショムの氏族。ウリエル、シェマヤ、エリエル、アミナダブの4人はケハトの氏族です。明らかにケハトの氏族が多く招集されています。
それは律法の中で、ケハトの氏族が神の箱を肩に担ぐように定められていたからです。
前回はペリシテ人が行ったように車に乗せ、牛に引かせました。今回は神の言葉に従い、ケハトの氏族が肩に担いで運ぶことにしました。
ふさわしい礼拝の仕方がある
ダビデは祭司とレビ人の代表者たちに対して「わたしたちが法に従って主を求めなかった」と前回の反省点を振り返っています。
神を求めることは大事です。しかし自分なりに神を求め、神を自分の願い通りに操ろうとしてしまいました。
神を求めるには、ふさわしい求め方があるのです。
「わたしはある」とご自分の名を知らせた神は、「わたしを呼べ」と言います。しかし十戒の第三戒では「主の名をみだりに唱えるな」と言います。ふさわしい呼び方があるのです。
今日の本文の「求める」と訳されている言葉には、「礼拝する」という意味もあります。ですから、ふさわしい礼拝の仕方があるとも言えます。
ふさわしい礼拝とはどういう礼拝でしょうか。
イエス・キリストは言いました。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
ヨハネによる福音書4:23
まことの礼拝者は霊と真理で父なる神様を礼拝します。
真理で礼拝するとは、神の言葉に従って礼拝するということです。それは聖霊の助けによって可能になります。
礼拝はエルサレムの神殿ような特定の場所でないとささげられないものではありません。この教会でもささげられるし、あなたの家や職場も礼拝の場所になります。
緊急事態宣言で集まることが難しい今、礼拝もオンラインになりました。教会で集まれない分、交わりができないという欠点はあります。
それでも神様が注がれる恵みは、教会での対面だろうが自宅でのオンラインだろうが変わりません。
パウロはこう勧めています。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
ローマの信徒への手紙12:1
あなたの体は神に喜ばれる聖なる生けるいけにえです。あなたの体、あなたの存在で神様の素晴らしさを現すことができます。それこそ礼拝する生き方です。
日曜日だけではなく、普段の生活が礼拝になります。皆さんが働いているとき、勉強しているとき、家で過ごすときも礼拝になります。
神様を大事にするまことの礼拝者
エリック・リデルはまことの礼拝者でした。
彼は1924年のパリオリンピックに、イギリス代表として出場しました。100m走の世界記録を持っていた彼は、100mで金メダルを取ることを期待されていました。
しかし競技の日程が日曜日に入っていました。彼は日曜日を礼拝の日として大切にしてきました。
金メダルという勝利の栄誉も、国の代表としての期待に応えることも大事です。しかしエリックは神様を大事にすることを選び、100mへの出場を辞退しました。
代わりに、200mと400mに出場することにしました。急に種目を変えたエリックが、その種目に特化した訓練を積んだ選手に勝つことは不可能に思われました。
オリンピックが始まり、100mではエリックの代わりに出場したイギリスの選手が金メダルを取りました。
200mでエリックは3位でした。
そして400m。エリックは100m走のペースで走りました。最初から飛ばし過ぎです。最後まで持たないと思われました。
しかしエリックはさらにスピードを上げ、ゴールしました。2位の選手とは5mも差をつけていました。
走るとき、エリックの顔には喜びがあふれていました。
彼はインタビューで、「神が私を速くしてくださった。走るとき、神が喜んでおられるのを感じる」と語りました。
神様を大事にし、その存在を通して神様を現す。これこそまことの礼拝です。
神と共に歩む一歩一歩を喜ぶ
ダビデと長老、千人隊の長たちは喜び祝いながら神の箱を運びました。ラッパ、シンバル、竪琴などで賛美しながら運びました。
サムエル記では、ダビデは6歩進むごとにいけにえをささげたとあります。全然進まないですね。
なぜ6歩だったのでしょうか。
聖書で6という数字は象徴的に使われます。神が天地万物を6日で創造し、7日目に休みました。民は6日働いて、7日目に安息日を守りました。
6日間の歩みを神が守り祝福してくださった。だから7日目は神を喜ぼう。
そのようにダビデは、神が一歩一歩を守り祝福してくださった。だから7歩目はいけにえをささげて神を喜ぼうと考えたのかもしれません。
喜ぶ人を見て嘲笑する
しかしそこまでやりますか。どんだけ喜ぶんですか。
サムエル記ではダビデが力のかぎり跳ね踊ったと記録されています。そんなダビデの様子を、妻のミカルは王宮から見下ろしていました。ミカルはサウルの娘です。
ミカルが見ていると、ダビデが余りに激しく飛び跳ねるので、服がめくれてしまっていました。ダビデの男らしい体が露出してしまっています。上からでも見えたなら、下にいた民衆からは丸見えだったでしょう。
そしてミカルは帰って来たダビデに言いました。「王様、立派でした。空っぽの男のように裸になっていましたから」
明らかに侮辱した言い方です。王らしくない。まるで愚か者のようだったとバカにしています。
私たちが神様を喜び祝う姿を見て、人々はおかしく思うかもしれません。
そこまでやるか。どんだけ喜ぶの。なぜ日曜日に教会なんか行くの。なぜ礼拝するの。
世の中には他にも大事なことがあるでしょう。日曜日も働かないと成功しないよ。
もっと面白いことがあるでしょう。遊びに行こうよ。
今は礼拝している場合じゃない。日曜日も塾に行かなきゃ志望校に受からないよ。日曜日も練習しないとメンバーに選ばれないよ。
そのように思わされます。
貴重な日曜日に礼拝する私たちを嘲笑う人がいるかもしれません。
教会の中でも、喜んで礼拝する姿を冷めた目で見る人がいるかもしれません。
あんな大声で賛美して、恥ずかしい。
あの人「主よー!」って叫んでるけど、そんな大声で祈らなくたって神様は聞いてるよ。
そのように熱心に礼拝する姿を嘲笑う人が教会の中にもいるかもしれません。まるで上から見下ろすかのように。
神の救いの恵みで喜び踊る
神様はそんな姿を見て、どう思うでしょうか。
神を喜ぶ私たちを人々が嘲っても、神は一緒に喜びます。むしろ神はそのような喜びの礼拝をささげたいと願い、私たちを招いています。
17 いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。18 しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。19 わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし/聖なる高台を歩ませられる。
ハバクク書3:17-19a
収穫がない。家畜もいない。食べるものがない。最悪の状況です。それでもハバククは主によって喜び、救いの神のゆえに踊ることができます。
神の救いの恵みを受け取れば、現実の環境や状況を越えて喜び踊ることができます。
周りの人から見たら変に思われるでしょう。こんなときに喜び踊るなんて、おかしいんじゃないの。
緊急事態宣言が出て、困難な状況に置かれている人もいるでしょう。色々な楽しみや喜びが奪われてしまった子どもたちがいます。悲しみの中に置かれている人もいます。
そのような現実を越えて、救いはキリストによって成し遂げられています。私たちは復活のキリストと共に新しい命に生きることができます。
この生活の一歩一歩、一日一日を神様が共に歩んでくださっています。だから私たちは喜び祝うことができます。
神様の言葉に従って一歩一歩を歩み、神様を喜ぶ私たちでありたいと願います。