使徒言行録講解52
神の言葉の聞き方
使徒言行録17:10-15
10 兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。11 ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。12 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。14 それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。15 パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。
和尚の言葉を疑う生意気な小僧
昔々、京都の安国寺という寺で小僧たちが修行をしていました。
小僧たちは、和尚さんがこっそり壺の中の何かを食べているのを見つけました。水あめに違いありません。
ところが和尚さんは、これは毒だと言います。大人なら大丈夫だが、子供が食べると死んでしまうと言うのです。
小僧たちは和尚さんが言うことだからと素直に信じました。
ある日、和尚さんの外出中に小僧たちが掃除をしていたとき、和尚さんの大事な硯を落として壊してしまいました。大変です。
小僧の中に、一休という名の少年がいました。
一休は「慌てない慌てない、一休み一休み」と言い、座禅を組んで瞑想を始めました。
ポクポクポクポク、チーン!
「こうなったら死んで償うしかありません…。」
一休は和尚さんが大事にしていた壺を持ってくると、子供が食べると死ぬというその中身をなめ始めました。
その後、和尚さんが帰ってくると、硯が壊れ、壺の中身も空っぽです。
何事かと小僧たちを探すと、小僧たちが倒れています。
そして一休が目を覚まして言いました。
「和尚さん、すみません。大事な硯を壊してしまいました。死んで償おうと毒をなめたのですが、死に切れませんでした。」
和尚さんは小僧たちを赦し、嘘をついていたことを謝りました。
小僧たちは和尚さんの言うことだからと素直に信じたわけですが、それは嘘だったんですね。一休さんはそれが嘘だと見抜いていました。
和尚さんの言うことを素直に聞かないなんて、生意気な小僧です。
しかし一休さんは、和尚さんの言うことでも疑ったので、本当のことを見抜くことができました。
人の言葉によって神の言葉を無にしてしまう
どのような態度で教師の話を聞くのがよい学生でしょうか。
先生が言ったことをそのまま受け入れる人?本当だろうかと疑う人?
例えば、円周率は約3.14です。小学校でそう習います。
これを丸暗記する子と、本当だろうかといくつかの円で確かめてみる子と、どちらが算数ができる子でしょうか。
国の言うことを深く考えずにそのまま受け入れる国民と、本当だろうかと疑う国民ではどうでしょうか。
国として扱いやすいのは前者でしょう。利用しやすいからです。
私たちは国に利用される道具ではなく、この国の主権者です。
自分の頭で考えて行動する、責任ある国民にならなければなりません。
かつて日本では、天皇は神として崇められていました。ただ神のような権威があるということではなく、本当に神として崇拝されていました。
天皇を直接見てしまったら目がつぶれるとか、天皇は神だからトイレに行かないと信じられていました。
そんなバカなと思うでしょう。
しかし戦前は、そんな疑いをはさむ余地などありませんでした。
教会でもそういうことが起こりえます。
教会や牧師の言うことだからと素直に信じて従うのが成熟したクリスチャンの態度でしょうか。
もし教会や牧師が間違ったことを教えていたらどうですか。
牧師の言葉は神の言葉だから絶対に従順しなければならない!教会の教えに疑いを持つのはサタンの誘惑だ。このパンデミックや大雨は終末のしるしだ。悔い改めの実を結びなさい。特別定額給付金を全額献金するのです!アーメンでしょうか!
とか牧師が言ったらどうですか?
牧師先生が言うなら神の言葉だ、と信じて10万円をささげますか?
その信仰は、ヤバいです。
救われるために献金が必要だと、聖書のどこに書いてありますか?
本当だろうかと疑うのは悪いことですか?
気を付けなければ、私たちは神の言葉より人の言葉を優先してしまいます。
イエス様の時代、ユダヤ人たちは神様にささげるものをコルバンと呼んでいました。コルバンは他の目的のために使うことが禁じられていました。
なので、財産をコルバンとしてささげたという口実で、年老いた両親の世話をしない人々がいました。
イエス様はこれを厳しく非難しました。
聖書に何と書いてありますか。十戒に、あなたの父母を敬いなさいとあるではありませんか。
こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
マルコによる福音書7:13
私たちの信仰と行いの唯一の基準は聖書です。
聖書から離れて、人の言葉によって神の言葉を無にするようなことがあってはいけません。
べレア、そしてアテネへ
パウロとシラスは、世界中を騒がせる者としてテサロニケで訴えられそうになりました。
たまたま外出していたので無事でしたが、もうヤソンの家に滞在することはできません。その日のうちにべレアに送り出されました。テモテも一緒です。
彼らはべレアに到着すると、またユダヤ人の会堂に入りました。
またユダヤ人のところに行けば、テサロニケや他の町のように反発する人が出てきそうです。
それでもパウロはイエス・キリストの十字架の死と復活を証ししました。
するとべレアの人たちは素直で、非常に熱心にみことばを受け入れました。
素直だというのは、何でもかんでもアーメンと言うということではありません。
彼らも旧約聖書は知っているわけです。70人訳というギリシア語の旧約聖書がありました。
そこにキリストに関する預言があります。
しかし一般的に理解されていた栄光のキリスト像と、パウロの言う十字架で死んでしまうイエス・キリストでは大きなギャップがあります。
しかも復活したと。
今までの聖書理解とは大きく違います。
それでも拒絶せず、こういう理解もあるのかと受け入れました。
そしてパウロたちの言うことは本当だろうかと、毎日聖書を調べたのです。
そしてそのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも信仰に入りました。
こうしてべレアでも神の言葉が伝えられたわけですが、それを聞いたテサロニケのユダヤ人たちはべレアでも群衆を扇動し、騒動を起こさせました。
それでパウロだけを急いでアテネに送り出したのです。
本当かどうか聖書を調べる
このべレアの人たちから、神の言葉の聞き方の模範を見ることができます。
べレアの人たちはパウロの言うことを何でもかんでもアーメンと受け入れたのではなく、自分たちで聖書を調べました。
使徒信条にあるように、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ…死んで葬られ復活した。アーメン。」と何も悩まずに言えたら楽でしょう。
しかし本当かどうか疑い、悩むことは大事です。
トマスのように、疑い、悩む中で、私の主、私の神に出会います。
ダニエルはエレミヤ書を研究し、エルサレムが再建されるまで70年かかるということを理解しました。しかし素直に受け入れられる年数ではありません。そこで断食し、神に嘆願します。その祈りの中で天使ガブリエルから、メシア到来の啓示を受けました。
東の国の博士たちは、星の研究をしながら、ユダヤ人の王が生まれたことを突き止めました。そして遠い旅の果てに幼子イエスに出会い、黄金、乳香、没薬をささげて礼拝しました。
私たちはすでに、自分なりの神観を持っています。聖書はもう理解したと思っているかもしれません。
しかし神は私たちの理解をはるかに超えており、今日も一人一人に語りかけています。
だから毎日、聖書を開き、神の言葉を求めてほしいのです。生きていて力ある神の言葉に出会ってほしいのです。
日曜日のメッセージを聞くときも、聞き流してはいけません。
神の言葉を聞かせてくださいと祈って礼拝に臨んでください。
神の言葉を聞く準備も必要です。日曜日を迎えるまでの6日間にも聖書を読んだり祈ったりして、神の言葉に慣れ親しんでおくのです。
そして神の言葉を心に蓄え、一週間を始めます。この神の言葉から、新しい一週間が始まるんですよ。
そして神の言葉を実践するのです。
真理の霊によって真理に出会う
神の言葉を聞くのはテクニックによるものではありません。頭の良しあしも関係ありません。高学歴なパウロも、福音は理解できていませんでした。
神の言葉を聞くのは、あくまで聖霊の働きです。
真理の霊である聖霊が、真理をことごとく悟らせてくれます。
神の言葉を慕い求めて聖書を開いてみてください。
御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。
詩編119:130
この約束の言葉のように、御言葉の光によって目が開かれるでしょう。
すぐに理解できないこともたくさんあります。それでも御言葉を心に留めておくなら、エマオ村に向かっていた弟子たちのように、イエス様は私たちと共に歩み、ご自分について書かれていることを説明してくださるでしょう。
心が燃えるように、イエス様に出会うときが来ます。
焦らなくていいです。
慌てない慌てない、一休み一休み。
静かに、神の言葉に耳を傾けていきましょう。