歴代誌講解74
神の言葉を聞く姿勢
歴代誌下 34:14-31
14 主の神殿に寄せられた献金が取り出されている間に、祭司ヒルキヤがモーセによる主の律法の書を見つけ、15 書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と言った。ヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、16 シャファンはそれを王のもとに届け、また王に報告をした。「あなたの僕たちにゆだねられた工事はすべて進行しています。17 彼らは主の神殿にあった献金を取り出して、監督と工事担当者の手に渡しました。」18 更に書記官シャファンは王に、「祭司ヒルキヤがわたしに一つの書を渡しました」と告げ、王の前でその書を読み上げた。19 王はその律法の言葉を聞くと、衣を裂いた。20 王はヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカの子アブドン、書記官シャファン、王の家臣アサヤにこう命じた。21 「この見つかった書の言葉について、わたしのため、イスラエルとユダに残っている者のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖が、主の言葉を守らず、この書物に記されているとおりにすべての事を行わなかったために、我々の上に注がれた主の怒りは激しいからだ。」22 ヒルキヤと王が指名した者たちは、女預言者フルダのもとに行った。彼女はハスラの孫でトクハトの子である衣装係シャルムの妻で、エルサレムのミシュネ地区に住んでいた。彼らがその話を彼女に聞かせると、23 彼女は答えた。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたたちをわたしのもとに遣わした者に言いなさい。24 主はこう言われる。見よ、わたしはこの所とその住民に災いをくだし、ユダの王の前で読み上げられた書に記されているすべての呪いを実現する。25 彼らがわたしを捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で作ったすべてのものによってわたしを怒らせたために、わたしの怒りはこの所に向かって注がれ、消えることはない。26 主の心を尋ねるためにあなたたちを遣わしたユダの王にこう言いなさい。あなたが聞いた言葉について、イスラエルの神、主はこう言われる。27 あなたはこの所とその住民についての主の言葉を聞いて心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。28 見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られ、わたしがこの所とその住民にくだす災いのどれも、その目で見ることはない。』」彼らはこれを王に報告した。29 そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を集めた。30 王は、ユダのすべての人々、エルサレムの住民、祭司とレビ人、老いた者から若い者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。31 それから、王は自分の場所に立って主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている契約の言葉を実行することを誓った。
関心度によって受ける感動が変わる
今日からアドベントです。クリスマスの準備期間です。
何も準備しなくても12月25日は来ます。
しかし何の準備もせずに迎えるクリスマスと、御言葉を思い巡らし祈りながら迎えるクリスマスでは、受ける恵みが全く違います。
先週水曜日はサッカーのワールドカップで日本とドイツの試合があり、日本が勝ちました。
特に関心がない人にとっては「はい、そうですか」で済みます。
しかしサッカーに詳しい人にとってはお祭り騒ぎです。
同じニュースを聞いても関心度によって受ける驚きが変わります。
どうやら日本政府はことの重大さに気づいていないようです。
アルゼンチンに勝ったサウジアラビアは、サッカー好きの皇太子の提案で祝日にしましたから。
昨日はクリスマスの装飾をしました。ご協力ありがとうございます。
私たち一人一人もクリスマスの意味を考えながら、クリスマスを備えていってほしいと願います。
そうするとクリスマスの喜びがもっとよくわかります。
神の言葉を聞いて心を痛める
今日の本文は南ユダ王国16代目ヨシヤ王の話その2、律法の書の発見です。
若い時に神を求め始めたヨシヤは、エルサレムをはじめ南ユダ王国全体から偶像を捨て去っていきます。
ベン・ヒノムの谷で子どもをささげた祭壇を壊し、ソロモンが1000人の妻たちのために造った聖なる高台も壊しました。さらに北イスラエルにも出向き、偶像を打ち砕きます。
ベテルにはヤロブアム1世が作らせた祭壇がありました。ヨシヤはこれも破壊します。
こうして神の人がこの祭壇に向けて語った預言が成し遂げられました。
その人は主の言葉に従って祭壇に向かって呼びかけた。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。彼は、お前の上で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上でいけにえとしてささげ、人の骨をお前の上で焼く。』」
列王記上13:2
ダビデ王朝のヨシヤ王によってこの預言が成就しました。名前まで合っています。
預言が与えられてほぼ300年後に神の言葉は現実のものになりました。
律法の書の発見
ヨシヤはその治世の第8年、25~26歳の時に神殿の再建に取りかかります。
礼拝の場所を建て直すというのは、イスラエルの良い王に見られる特徴です。
神の箱を移し神殿を建てようとしたダビデ、神殿を建てたソロモン、そしてヨアシュは神殿を建て直すための建築献金を集めさせました。
今回もその建築献金を元に神殿の修復を行っていきます。
大祭司ヒルキヤがささげられた建築献金を取り出しているとき、1つの巻物を見つけました。開けてみるとそれは律法の書の一部でした。
どうやらモーセの律法のうち、一部がなくなっていたようです。おそらく申命記の一部だったと考えられています。
御言葉の一部がなくなるというのは一大事です。ワンピースの単行本のどれか1巻が足りないというのとはワケが違います。欠けてはならないものが欠けてしまっているのです。
黙示録には、聖書に付け加えることも一部を取り除くことも禁じられています。
イエス様は天地が消え失せても聖書の言葉は一点一画も変わらないと言いました。
事の重大さに気づいたヒルキヤは書記官シャファンに伝え、王に報告します。
そしてその御言葉を聞いたヨシヤは衣を裂きました。
衣を裂くというのはヘブライ人の嘆きの表現です。
ヨセフの死を聞かされたヤコブや子どもたちの死を聞かされたヨブも衣を裂きました。
新約聖書ではイエス様がメシアだと証言した時に大祭司カイアファが衣を裂きました。神を冒涜していると思ったのです。
衣を裂くことで、ヨシヤがこれを重大な事件と見ていることが伝わります。
背く者への呪いとへりくだる者への救い
ヨシヤは律法の言葉を聞くだけで終わりません。
この神の言葉が今、私たちに語られたのはどのような意味があるのかを探ろうとしました。
そこで神の言葉を語る専門家である預言者に尋ねます。女預言者フルダのもとに大祭司ヒルキヤ、書記官シャファン、シャファンの息子アヒカム、ミカの子アブドン、家臣のアサヤの5人を遣わします。
彼らが事情を話すと、フルダはこう答えました。
「主はこう言われる。見よ、わたしはこの所とその住民に災いをくだし、ユダの王の前で読み上げられた書に記されているすべての呪いを実現する。」
呪いの宣告です。
この地の住民が神を捨てたからです。
神の言葉は変わりません。神を捨てる者への呪いは律法の通り実現します。
しかしフルダは続けて言います。
「あなたはこの所とその住民についての主の言葉を聞いて心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られ、わたしがこの所とその住民にくだす災いのどれも、その目で見ることはない。」
ヨシヤが生きている間は、この災いが臨まないと言います。
それはヨシヤが神の言葉を聞いて心を痛め、へりくだったからです。
ヨシヤのこの神の言葉を聞く態度を見習う必要があります。
神の言葉をゴミのように焼き捨てたヨヤキム
ヨシヤの息子たちの時代にも神の言葉は繰り返し語られます。
エレミヤという預言者が、神に立ち帰るよう繰り返し語ります。しかしエルサレムの住民はまるで顔が鉄板になってしまったかのように無視し続けます。
エレミヤ書36章にも、神の言葉が記された巻物が王の前で読まれる場面があります。
エレミヤは預言の言葉をバルクに記録させます。それで1つの巻物にエレミヤを通して語られた神の言葉が記されます。
まずバルクは神殿でこれを読みます。そこにシャファンの孫でゲマルヤの子であるミカヤという人がいました。ヨシヤの時代に書記官だったシャファンの孫です。
彼は聞いた言葉を王の役人たちに伝えます。役人たちは恐れを抱き、巻物をバルクから預かって王の前で読みました。
ところが、
ユディが三、四欄読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった。
エレミヤ書36:23
ヨシヤの子ヨヤキム王の時代です。
エレミヤを通して語られた神の言葉を、まるでゴミのように燃やしてしまいました。
同じように神の言葉が語られても、ヨシヤは衣を引き裂きましたが、ヨヤキムは巻物を引き裂いて焼き捨てました。
聞く態度が全く違います。
ヨヤキムはバビロンに捕囚になります。
どのような態度で神の言葉に向き合うか
私たちはどのような態度で神の言葉を聞いているでしょうか。どのような態度で聖書の言葉に向き合っているでしょうか。
ある人は聖書を置物のように扱います。聖書はインテリアとしてホコリをかぶらせるのではなく、開いて読むためのものです。
ギデオン協会の人たちが聖書を配ります。それをゴミのように捨ててしまう人もいます。しかしある人は捨てられていた聖書を拾って読み、イエス様に出会います。
「日々のみことば」のテキストを定期購読している方は、しみやしわのないきれいな状態で本棚に飾っていませんか。あるいはたくさん書き込みがあってしわがついている人もいるでしょう。
メッセージを子守歌のように聞く人もいるかもしれません。同じメッセージを聞いても、を衣を引き裂かないまでも、心を痛めて神に立ち帰る人もいます。
私たちはどのような態度で神の言葉に向き合っているでしょうか。
救い主が来たという良い知らせ
イエス様がご自身をメシアだと証ししたときに、大祭司カイアファは衣を割き死刑にすべきだと決議します。そして十字架につけて殺します。
私たちはイエスが主であると聞いたとき、どう反応するでしょうか。
「ああ、そうですか」と無関心な人もいます。「なんだと!」と拒絶する人もいます。またある人は感動し人生が180度変わる出会いを体験します。
さあ、ベツレヘムへ行こう
ルカによる福音書2章で羊飼いたちは天使の言葉を聞きます。ダビデの町ベツレヘムで救い主が生まれたというのです。
羊飼いたちはどう反応したでしょうか。
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
ルカによる福音書2:15
そして早速探しに行き、布にくるまれ飼葉桶に寝かされた赤ちゃんを見つけます。
彼らはイエス様に出会ったのです。
良い知らせに無関心な人、拒絶する人
メシア誕生の知らせはこの羊飼いたちだけが聞いたのではありません。
時間は前後するかもしれませんが、遠い東の国の博士たちも星を見てユダヤ人の王が生まれたと理解しました。そしてエルサレムに行きヘロデ王たちに伝えます。
ヘロデ王や王に仕える律法学者たちは聖書にあるメシア誕生の預言が成就したとわかりました。
しかし律法学者たちは、メシアがベツレヘムで生まれると知っていながら、そこに行こうとはしません。博士たちは遠い国から旅をしてイエス様に出会いますが、律法学者たちはわずか8㎞先の町にも行きません。メシア誕生を知っても、関心がないのです。
メシア誕生を聞いたヘロデ王は怒り、殺そうとします。
神の言葉に心を痛める人が良い知らせに喜べる
救い主が来られたと聞いてもある人は無関心、ある人は怒り、またある人は「さあ行こう」と仲間を引き連れて出会いに行く。
この違いは御言葉にどれほど心を痛めるかによって生じます。
今、私たちに語られるこの言葉はどのような意味があるのだろうか。それを思い巡らし、自分には神の言葉が必要だと認識する。
自分の罪深さを知り、まるで闇の中で光を探し求めるように、御言葉の光に飢え渇く。
そのような人が、神の言葉に応答できます。
長く闇路をたどる羊飼いたち
羊飼いたちは光に飢え渇いていました。
彼らは町の中に住むことができず、社会的に低く扱われていました。暗く冷たい闇夜の中で、羊と共に暮らしています。苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放の中にあって逃れることができません。
22 地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。23 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
イザヤ書8:22-23
そんな彼らが光を見ました。暗闇の中に輝く光、闇に打ち勝つ光を見ました。
飢え渇いていたものを見出したので、羊飼いたちは仲間にも呼びかけてイエス様に会いに行きます。
神の言葉を共に聞く
今日の本文でヨシヤ王も、聞いた神の言葉を自分だけのものにしません。
まず大祭司ヒルキヤが律法の書を発見した時、すぐ王に報告しました。
王は仲間と共に神の言葉の意味を求めます。
そしてすべての民を集め、神の言葉を告げます。
神はこの地とその住民に災いを下そうとしている。差し迫った災いという暗闇の中で、神の言葉に聞き従ってへりくだる者には救いが約束されている。さあ、一緒に神に立ち帰ろうと招きます。
クリスマスを共に祝おう
イエス様は暗闇の中に輝く光です。
この世界は今も暗闇の中にいます。
イルミネーションで町の大通りはキレイに飾られています。その陰で貧しく暮らす人たち、病に苦しむ人たちがいます。
世界を見渡すと飢餓や戦争の問題があります。2022年に起こった問題が未解決のまま、年を越そうとしています。
相変わらず暗闇が続いています。
この現実がどんなに暗闇であったとしても、私たちの救い主イエス・キリストが既に来ています。クリスマスの喜びが既に来ています。
この喜びを知った時にどう反応しますか。
飢え渇いている人はこの良い知らせを受け取り、周りの人と一緒に喜びます。
「さあ、行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と友だちや家族を誘い、クリスマスを祝います。
この喜びは変わらない
ヨシヤについて語られていた預言は300年後に成し遂げられました。
メシアが来るという預言も数百年かかって成し遂げられました。神様の約束は時間を超えて成し遂げられました。
イエス様が来られてもう2000年になります。
しかしこの喜びはいつまでも変わることがありません。
過去の話ではないのです。
飢え渇く心をもって御言葉を思い巡らしながらクリスマスを備えていきましょう。
そうすると私たちの心に喜びがあふれます。