エゼキエル書講解14
神の起こす流れに乗る
歴代誌上 14:8-17
8 ペリシテ人は、ダビデが油を注がれて全イスラエルの王となったことを聞いた。すべてのペリシテ人が、ダビデの命をねらって攻め上って来た。ダビデはこれを聞いて彼らに向かって出陣した。9 やって来たペリシテ人はレファイムの谷に侵入した。10 ダビデは神に託宣を求めた。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか。」主はダビデに答えられた。「攻め上れ。あなたの手に渡す。」
11 彼らはバアル・ペラツィムに攻め上り、ダビデは敵を討ち滅ぼして、こう言った。「神は敵をこの手で、水が堤防を破るように打ち破ってくださった。」その場所をバアル・ペラツィム(破れ目の主)と呼ぶのは、このためである。12 ペリシテ人が自分たちの神々をそこに捨てて行ったので、ダビデは命じて、それを火で焼かせた。
13 ペリシテ人は再び谷に侵入した。14 ダビデが再び神に託宣を求めると、神は次のように答えられた。「彼らを追って攻め上らず、彼らを避けて回り込め。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。15 茂み越しに行軍の音を聞いたら、そのとき出て行って戦え。神がペリシテの陣営を討つために、あなたに先んじて出陣されるのだ。」16 ダビデは神の命じられたとおりに行動し、彼らはギブオンからゲゼルに至るまで、ペリシテ人の陣営を討ち滅ぼした。17 こうしてダビデの名声はすべての国々に及んだ。主は諸国の民が皆、彼を恐れるようにされた。
流れに身を委ねる
夏になると水難事故が多くなります。川や海でおぼれて亡くなる事故が毎日のように報道されます。
流れがゆるやかに見えても、部分的に急に流れているところもあります。その流れに逆らって泳ごうとすると体力を消耗します。
もし流されてしまったら、仰向けに浮かぶのがいいです。仰向けに浮かぶことで周りの状況を見て助けを求めたり、安全なところに捕まるチャンスを見つけられるかもしれません。
水に対して人間の体は2%くらいが水面に出ます。
慌てて助けを求めようとして手を上げると、手だけが水面に出て口や鼻が沈みます。危険です。
仰向けに浮かべば顔が水面に出るので呼吸ができます。
ライフジャケットを着ることで、水面に出る部分を10%まで増やせます。ライフジャケットや浮き輪などを使うようにしましょう。
流れに身を委ねることで安心できます。
神の起こす流れに身を委ねる
ダビデは国を治めるために神の助けを求めました。
ダビデは神の箱をエルサレムに運び、祝福を得ようとしました。しかし神を自分の願いの通りに操ろうとしたことが事故を引き起こしてしまいます。ダビデは神の箱をガト人オベド・エドムの家に置きました。
ダビデは3ヶ月後に神の箱を再びエルサレムに運ぶことになりますが、その前にダビデの王権が揺るぎないものにされていく話が挿入されています。
この3ヶ月の間に起きた出来事ではありませんが、神の助けを求めるとはどういうことかを理解する上で重要な話です。
人を通して働く神の助け
イスラエルはペリシテとの戦いが続いていました。
ペリシテとの戦いで神の箱によって勝利を得ようとしましたが、大敗し、神の箱が奪われました。サウル王はペリシテとの戦いで戦死しました。
ダビデが全イスラエルの王になりましたが、ペリシテ人はダビデの支配が確立する前に潰してしまおうと考えました。
ペリシテ軍はベツレヘムを占拠し部隊を置き、その北西にあるレファイムの谷に陣を張りました。このときダビデはアドラムの洞窟にいました。
11章で3人の勇士が命がけで水を汲んできた話は、この戦いの間の出来事です。ダビデはその水を飲むことをせず、主にささげました。
ダビデはこのような仲間たちの助けの中で、神の助けを実感したことでしょう。
ティルスの王ヒラムが王宮建設の支援をしてくれたことからも、ダビデは神の助けを悟りました。
神の計画を聞く
勇士たちの助けで水を得ることはできても、まだ敵を打ち破ってはいません。
ダビデは神の助けを求めました。
ここでダビデは、神に尋ねます。「ペリシテ人に向かって攻め上るべきでしょうか。彼らをこの手にお渡しくださるでしょうか。」
ダビデの願いは単純に「ペリシテ人に勝たせてください」ということでしょう。
ダビデはそのような自分の願いを言うのではなく、神様の計画を聞いています。
すると主は「攻め上れ。あなたの手に渡す。」と答えました。これを聞いてダビデは攻め上り、勝利しました。
激しい流れのような神のわざ
このときダビデはこう告白しています。
「神は敵をこの手で、水が堤防を破るように打ち破ってくださった。」
堤防が決壊したらどうなるのでしょうか。
ちょうど今大雨の季節なのでそういうことが起きてほしくないのですが、堤防が壊れると水の流れですべてが押し流されてしまいます。
もはや人間の力で制御できません。
神の業はこのように力強いものです。
神の業を妨げることは誰にもできません。神の業を自分の願い通りにコントロールすることもできません。
イザヤは神の救いの業をこう表現しています。
西では主の御名を畏れ
イザヤ書59:19
東では主の栄光を畏れる。
主は激しい流れのように臨み
主の霊がその上を吹く。
神が起こす激しい流れに対して人間が取るべき行動は、ただ身を委ねることです。
神の計画に身を委ねるなら平安を得る
舟が沈みそうになるほどの嵐の中で、イエス様は寝ていました。
激しい突風と荒れ狂う波の中で、弟子たちは恐れます。そこで弟子たちはイエス様に助けを求めました。「先生、先生、おぼれそうです」と。
イエス様は起き上がると風と波を叱りました。すると風も波も穏やかになりました。
そしてイエス様は弟子たちに言います。「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」
私たちは目の前に立ちはだかる問題、嵐のような状況の中で神に助けを求めます。
問題を取り除いてください。嵐を静めてください。そのように自分の願いばかりを訴えるかもしれません。
一度静まって、神様の計画を聞いてみるのはどうでしょうか。
神様を自分の願いを叶えるのために操ろうとするのではなく、神様の計画のために自分を用いていただくのです。
神が起こす流れに乗って身を委ねるなら、嵐の中でも平安があります。
神の計画のために用いられる
その後ペリシテ人は再び谷に侵入してきました。ダビデはまた神様に聞きました。
神様はこう答えます。「彼らを追って攻め上らず、彼らを避けて回り込め。バルサムの茂みの反対側から敵に向かえ。茂み越しに行軍の音を聞いたら、そのとき出て行って戦え。神がペリシテの陣営を討つために、あなたに先んじて出陣されるのだ。」
標的は目の前にいます。しかし神様はあえて回り込めと言います。そして行軍の音が聞こえるまで待たせます。
回り込んで待て
神様はあえて私たちに遠回りをさせて、そこで待たせることがあります。
私たちの目の前にはたくさんの問題があります。やらなければならないことが山のようにあります。仕事もある。家庭の生活もある。将来の心配もある。やるべきことが多すぎて忙しいです。目の前の問題を解決するために焦らされることがあります。
しかし神様はあえて回り込めと言います。
それは祈りを意味するかもしれません。一旦脇に退いて、祈りなさい。そして神の答えを聞くまで待ちなさい。神様はそのように言われているのかもしれません。
自分の計画を手放し神の計画に乗る
イエス・キリストにはやるべきことがたくさんありました。助けを求める人がたくさんいる。行かなければならないところがたくさんある。超忙しいです。
その多忙なイエス様は、一旦退き、人里離れた山で一人祈る時間を持ちました。神様と一対一で向き合う時間を持ちました。イエス様の働きは祈りで始まり祈りで終わりました。
私たちは忙しくなると祈りを後回しにしてしまいます。
一度神様の前で静まり、神様の声を聞く時間を持つことは大事です。
あなたの御心は何ですか。私にはやることがたくさんあります。しかしあなたの御心が成し遂げられるためには、どうしたらいいですか。
まず神の国と義を求めよ。必要は満たされる
ダビデが神様の言う通りに回り込み、待っていると、チャンスが来ました。そのチャンスをつかんだダビデは大勝利を得ます。
ギブオンからゲゼルまでは20㎞くらい離れています。目の前の敵を打ち破っただけでなく、20㎞以上敵を後退させることができました。
自分が思い描いたよりも大きな勝利を得ることができました。
私たちは色々なことで思い悩みます。
しかし天のお父さんは、私たちの必要を知っています。何を食べようか、何を着ようかと思い悩まなくてよいのです。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイによる福音書6:33
まず静まって、神様の計画を求めてください。
神の国を求めなさいとあります。
神様が願う国とはどのような国ですか。神様が造ろうとしている神の国とはどのような国ですか。
そのことを尋ね求める必要があります。
神が造ろうとしている世界とは
パンデミックによって世界は大きく変化しました。いつかパンデミックは終息し、ポストコロナの時代が来ます。
そのとき私たちはどのような世界を作るのでしょうか。単純に元に戻せばいいのでしょうか。コロナによってあぶり出された問題や変化を迫られたものを放置しておいていいのでしょうか。
SDGsという言葉をよく聞くと思います。
産業革命以降、人間は世界のあらゆるものを利用し、環境を破壊してきました。
このまま行っていいのでしょうか。将来の地球、次の世代の若者たち、子どもたちにどのような世界を遺すのかが問われています。
同じように、平和をどう実現していくかが問われます。
平和は誰もが求めることでしょう。
しかし現実に、目の前に敵がいる。その敵を打ち破るために、強い武器を持てばいい。核兵器を持つことで相手の動きを封じればいい。そのように武力による平和、核に依存した平和を実現しようとする人たちがいます。
それでいいのだろうか。立ち止まって考える必要があります。
先週8月9日。長崎に原爆が落とされてから76年が経ちました。長崎平和宣言の中で長崎市長はこのように言いました。
「長崎を最後の被爆地に」
この言葉を、長崎から世界中の皆さんに届けます。広島が「最初の被爆地」という事実によって永遠に歴史に記されるとすれば、長崎が「最後の被爆地」として歴史に刻まれ続けるかどうかは、私たちがつくっていく未来によって決まります。
長崎市長 田上富久「令和3年 長崎平和宣言」(2021年8月9日)
私たちがどのような未来を作っていくのか。どのような平和を実現していくのか。それによって長崎が最後の被爆地になるかどうかが係っています。
神の国がこの地に実現するように私たちは願います。神の計画が成し遂げられることを私たちは願います。
神様の計画は激しい流れのように流れていきます。その流れに身を委ねるなら、平安があります。
神様の計画に従い、神の国、神様が願う平和を実現していくために用いられる私たちになることを願います。