歴代誌講解64
神を愛し隣人を愛す
歴代誌下27:6-28:15
27:6 ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。7 ヨタムの他の事績は、そのすべての戦いも、行動も、『イスラエルとユダの列王の書』に記されている。8 彼は二十五歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。9 ヨタムは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた。その子アハズがヨタムに代わって王となった。
28:1 アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。彼は父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった。2 彼はイスラエルの王たちの道を歩み、その上バアルの神々のために像を鋳て造った。3 主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、ベン・ヒノムの谷で香をたき、自分の子らに火の中を通らせた。4 また聖なる高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたいた。5 それゆえ、その神、主はアハズをアラムの王の手に渡された。アラム軍は彼を打ち、多くの者を捕虜にしてダマスコに連れ去った。アハズはイスラエルの王の手にも渡され、大きな損害を被った。6 レマルヤの子ペカは、ユダで一日のうちに十二万人を打ち殺した。すべて勇士であった。彼らが先祖の神、主を捨てたからである。7 エフライムの勇者ジクリは、王子マアセヤ、侍従長アズリカムと王の代行エルカナを殺した。8 イスラエルの人々はその兄弟の国から婦女子二十万人を捕虜とし、大量の戦利品を奪って、サマリアに運び去った。9 ところが、その名をオデドという主の預言者がいて、サマリアに凱旋した軍隊の前に進み出て言った。「見よ、あなたたちの先祖の神、主はユダに対して怒りに燃え、彼らをあなたたちの手に渡された。あなたたちも、天に届くほどの憤りをもって彼らを殺した。10 しかし今、あなたたちはユダとエルサレムの人々を服従させ、自分たちの男女の奴隷にしようと思っている。しかし、あなたたち自身はあなたたちの神、主によって罪に問われずに済むだろうか。11 今、わたしの言うことを聞き、兄弟の国から連れて来た捕虜を帰しなさい。主はあなたたちに対して激しく怒っておられる。」12 直ちにエフライム人の頭たちヨハナンの子アザルヤ、メシレモトの子ベレクヤ、シャルムの子エヒズキヤ、ハドライの子アマサは、戦いから帰って来た兵に向かって、13 言った。「捕虜をここに連れて来てはならない。我々は主に対して咎を負っている。あなたたちは我々の罪と咎をいっそう重くしようとしている。我々の咎は既に重く、主はイスラエルに対して激しく怒っておられる。」14 そこで兵士たちは、将軍たちとすべての会衆の前で、捕虜と戦利品を放棄した。15 そこで前に名を挙げられた人々が立って捕虜を引き取り、裸の者があれば戦利品の中から衣服を取って着せた。彼らは捕虜に衣服を着せ、履物を与え、飲食させ、油を注ぎ、弱った者がいればろばに乗せ、彼らをしゅろの町エリコにいるその兄弟たちのもとに送り届けて、サマリアへ帰った。
周りの人を助けられる人
先週は防災訓練をし、水害について学びました。水害は身近な災害の1つです。今日も台風が近づいています。
いつ起きてもおかしくない災害に備え、自分の身を守ると共に周りの人も助けられるようにしたいです。
水は恐ろしいです。今年の夏には阿多古川で男の子が溺れて亡くなる事故もありました。
同じ阿多古川で、2人の女の子が流されたサンダルを追いかけ、深みにはまって溺れてしまいました。
たまたま近くに大学生が遊びに来ていました。
最初、女の子たちはただ遊んでいるだけのようにも見えました。
大学生の1人Aさんが、彼女たちが溺れていることに気づき、とっさに助けに向かいました。
しかしAさんは泳げません。Aさん自身も溺れかけました。
そこにAさんの友人が浮き輪を持ってかけつけ、全員無事に救助できました。
大学生には後日、感謝状が贈られました。
溺れた人を助けようとして自分も溺れて亡くなってしまうという事故も起きているので、注意が必要です。
しかしもしAさんが勇気をもって行動を起こさなかったなら、女の子たちは助からなかったかもしれません。
自分の危険を顧みず助けに向かう勇気は素晴らしいです。
神を愛する
今日の本文は南ユダ王国10代目ヨタム王と11代目アハズ王の話です。
ウジヤ王は神に従って祝福されましたが、勢力が増すと思い上がって神に背きました。
祭司とレビ人しか入れない神殿の中で香を焚こうとした時、重い皮膚病を発症し隔離生活になりました。ウジヤ王が王の働きができなくなってしまったので、息子のヨタムが代わりに国を治めました。
神に従い続けたヨタム王
ウジヤ王の死後、王位に就いたヨタムは主の目にかなう正しいことを行いました。
27章6節に「ヨタムは主なる神の御前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。」とあります。
ウジヤは勢力が増すと思い上がり神を捨てましたが、ヨタムは勢力が増してもなお神に従い続けました。それはヨタムが「主は私の力」だと認めていたからです。
ヨタムの治世に南ユダ王国は繁栄を続けました。
エルサレムを地獄に変えたアハズ王
ヨタムの跡を継いだのはその息子アハズです。
ヨタムとは対称的に、主の目にかなう正しいことを行いませんでした。むしろ北イスラエルの王たちの道を歩みます。ヤロブアムのようにエルサレムの神殿をないがしろにし、アハブのようにバアルを崇拝しました。
さらにアハズはエルサレムの南にあるベン・ヒノムの谷で香を焚き、子どもたちに火の中を通らせました。これはアンモン人の神モレクにささげるいけにえの儀式です。子どもを生きたまま火あぶりにして殺すのです。子どもの叫び声が谷中に響きます。
ゴミ捨て場や犯罪人の火葬場としても使われたこの谷を、エレミヤは殺戮の谷と呼びます。そしてヘブライ語ゲー・ベン・ヒノムが変化し、ギリシア語でゲヘナという言葉が生まれます。地獄を意味する言葉です。まさにベン・ヒノムの谷は地獄でした。
アハズはエルサレムを地獄に変えました。
神を捨てた民が捕え移される
このようなアハズを神は放っておきません。アラム王レツィンと北イスラエル王ペカは同盟を結び、南ユダに侵攻してきました。
神がアハズをレツィンとペカの手に渡したので、南ユダ軍は大敗します。12万人の勇士が戦死し、20万人以上の民が捕虜になりました。
エルサレムも包囲されますが、エルサレムには手出しできませんでした。
神を捨ててその地を汚した民は、他の国へ捕え移されていくのです。
後に起こる捕囚を予表するような事件です。
神を愛したヨタムと神を愛さなかったアハズ
アハズ王は他の神を拝み、偶像を造り、子どもをいけにえにしました。様々な律法に反しています。
ヨタムとは対称的です。
一言で言えば、ヨタムは神を愛しアハズは神を愛しませんでした。
この神を愛さないというのは、律法の中でも最も重要な掟の一つに反することです。
最も重要な掟の第一は神を愛すること
最も重要な掟は何かと尋ねられたイエス様はまずこう答えました。
29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
マルコによる福音書12:29-30
神を愛することが最も重要な掟の第一です。
唯一の神を愛さないから、礼拝をないがしろにしてしまいます。神ではないものを頼ります。そして人間的な努力で何かを成し遂げようとし、他人を、自分の子どもの人生さえも踏みにじるのです。
神を愛さない人々のいるところは地獄と化します。
逆に唯一の神を愛する人は喜んで神に礼拝をささげ、あらゆる祝福を受け取ります。
「主は私の力」であることを知っているので恵みを周りに流します。神を愛する人は祝福の源になり、そこに神の国が臨みます。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することがまず私たちに求められています。
隣人を愛する
北イスラエルの首都サマリアに凱旋した北イスラエル軍の前に、オデドという預言者が立ちます。
オデドは、主がユダに対して怒りに燃えていたと明かします。
北イスラエルの兵たちも天まで届くほどの憤りをもって南ユダの兵を虐殺しました。これまで何度も戦争があったので、恨みを抱く兵も多くいたでしょう。
同胞を奴隷にしてはならない
さらに多くの民間人を捕虜とし、奴隷として働かせようとしています。しかしこれは神が望んだことではありません。神様は南ユダの王や民の罪に怒ってはいますが、怒りに任せて民を虐殺したり奴隷化することは望んでいません。
北イスラエルと南ユダは同じ民です。ヤコブの12人の息子たちから別れた12部族たちによって構成された国同士、同胞です。
律法では同胞を奴隷にすることを禁じています。
だからオデドは捕虜を帰すように命じます。
これを聞いたリーダーたちは兵に、捕虜と戦利品を放棄することを命じました。
ただ放棄しただけではありません。捕虜に衣服を着せ、履物を与え、飲食させ、油を注ぎ、弱った者がいればろばに乗せ、彼らをしゅろの町エリコにいるその兄弟たちのもとに送り届けました。
神を愛すること≡隣人を愛すること
私たちにまず命じられているのは神を愛することですが、神を愛するとき、その愛は神が愛される人々にも向かいます。
預言者から神の言葉を聞いた北イスラエル兵は、神を畏れました。そして神の民イスラエルの同胞への愛を表しました。神への愛が生じたことで、隣人への愛が生まれました。
逆に、目に見える人々を愛することなしに目に見えない神を愛することはあり得ません。
だから神を愛することと隣人を愛することは一つです。
最も重要な掟の第二は隣人を愛すること
イエス様は最も重要な掟の第一は神を愛することであると言った後、続けてこう言いました。
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
マルコによる福音書12:31
神を愛すること。そして隣人を自分のように愛すること。これが最も重要な掟です。
隣人になった善きサマリア人
では隣人とは誰でしょうか。
自分の家族や友人、仲間。同じ教会や同じ民族などつながりがある人。近所の人。そのような関わりを持てる相手はもちろん隣人と言えます。
律法の専門家はイエス様に、「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねました。
そこでイエス様は一つのたとえを語られます。
ある人がエリコとエルサレムの間の街道で強盗にあい、半殺しにされました。どこの人かは語られていませんが、ユダヤ人でしょう。
彼を介抱したのは同胞である祭司やレビ人ではなく、たまたま通りかかったサマリア人でした。
33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
ルカによる福音書10:33-35
このサマリア人は強盗にあった人とは何の関りもありません。むしろ互いに憎しみ合っていたユダヤ人とサマリア人です。
それにも関わらず彼は憐れに思い、この人を助けました。
イエスは「だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」と問います。
もちろんこの善きサマリア人です。
そこでイエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言います。
律法の専門家は「だれが隣人であるか」を知ろうとしましたが、イエスは「隣人になる」ことを求めました。
倒れた人を見たサマリア人の心に浮かんだ思いは憐れみです。これは聖書の中で一般的に神が人に対して抱く思いを表す言葉です。それははらわたがよじれるような痛みをもった憐れみです。
相手が何者だろうが関係ありません。
たとえ神を捨てた罪人であっても、神は放っておけません。
相手の苦しみを自分の苦しみとし、放っておけない思いがわき上がってきます。
南ユダの隣人になった善きサマリア人たち
今日の本文で南ユダの民、つまりユダヤ人がサマリアに連れて行かれた時、神は彼らを解放することを求めました。
しかしこの善きサマリア人たちは彼らを解き放つだけでなく、手当をしました。解放しただけでなく介抱しました。
北イスラエルの民にとって南ユダの人たちは天まで届くほどの憤りを抱く相手です。ぶち殺したいほど憎い親の仇です。
それにも関わらず、放っておけないという思いが湧いてきました。まさに憐れみです。
こうして彼らは隣人になりました。兄弟のような民であることを思い起こし、自分を愛するように愛しました。
行って、あなたも同じようにしなさい
あなたは誰の隣人になりますか。
神が愛しておられる人々がいます。彼らのためにも神は深い憐れみを抱いています。
まるで飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている人々を見て深く憐れみ、独り子イエスを与えました。
もう誰も自分の子を犠牲にするような地獄が来なくても良いように、神はその独り子をお与えになりました。
私たちの周りにまだ神を知らない人々がいます。人々から見捨てられ倒れている人がいます。
行って、彼らの隣人になってください。イエス様は私たちにも命じています。
イエス様はまたマタイによる福音書25章で、裸の者に服を着せ、病気の人を見舞い、飢えている人に食べさせた人は、私にそれをしてくれたのだと言います。
この世の最も小さな者の一人を愛すること。それは唯一の神を愛することと一つです。
地獄のような世界を神の国に変える
心から神を愛する私たちを通して神の愛があふれ流れていきます。憐れみを抱いて自分を愛するように隣人を愛する愛が湧き上がってきます。
それを実践するとき、地獄のようなこの世界に神の国が臨みます。