歴代誌講解13
神を操ることはできない
歴代誌上 13:1-14
1 ダビデは千人隊と百人隊の長およびすべての指導者と協議し、2 イスラエルの全会衆に言った。「もしあなたたちが賛成し、またわたしたちの神、主の御旨でもあるなら、わたしたちはイスラエル全土に残っている兄弟、および放牧地をもつ町にいる祭司とレビ人に使いを送ってここに集め、3 わたしたちの神の箱をここに移そうではないか。サウルの時代にわたしたちはこれをおろそかにした。」4 民のだれにもそれは当を得たことだと思われたので、すべての会衆が賛同した。5 ダビデはエジプトのシホルからレボ・ハマトまでのすべてのイスラエル人を集め、神の箱をキルヤト・エアリムから運んで来ようとした。6 ダビデはすべてのイスラエル人と共にバアラト、つまりユダのキルヤト・エアリムに上って行った。それは、ケルビムの上に座しておられる主なる神の箱、その御名によって呼ばれる箱をそこから運び上げるためであった。7 彼らはアビナダブの家から、神の箱を新しい車に載せ、ウザとアフヨがその車を御した。8 ダビデとすべてのイスラエル人は、神の御前で力を込めて、歌をうたい、竪琴、琴、太鼓、シンバル、ラッパを奏でた。9 一行がキドンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を押さえようとした。10 ウザが箱に手を伸ばしたので、ウザに対して主は怒りを発し、彼を打たれた。彼はその場で、神の御前で死んだ。11 ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。12 その日、ダビデは神を恐れ、「どうして神の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と言って、13 ダビデの町、自分のもとに箱を移さなかった。彼は箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせた。14 三か月の間、神の箱はオベド・エドムの家族とともに、その家の中にあった。主はオベド・エドムの家の者とその財産のすべてを祝福された。
アンダーコントロール
2013年に、オリンピック2020年大会の開催地を決める会議が行われました。
安倍首相(当時)が東京のプレゼンテーションをしました。そこで記者から、原発事故は大丈夫かと質問がありました。安倍首相は様々なデータを引用しながら「アンダーコントロール(制御できています)」と答えました。
これで信用を得、2020年のオリンピックの開催地は東京に決まりました。
アンダーコントロールと言って招いたオリンピックですが、果たして本当に制御できているでしょうか。
この会議から8年になりますが、今も原発事故は制御できていると言えない部分があります。
今日(2021年8月8日)が閉幕します。スポーツを通じて人間の美しさを見ることができた部分もあります。このオリンピックも制御できていたでしょうか。
東京での開催が決まってからも競技場の設計やロゴのデザインで揉めました。
2020年に開催予定でしたが、パンデミックにより1年延期しました。1年後にはワクチンによって感染を制御できると考えていたのでしょう。しかし思うようにワクチン接種は進まない。さらにワクチンの効果を突き破るほど感染力の強い変異ウイルスも出てきてしまいました。
オリンピック期間中はバブル方式で感染は広がらないと言っていましたが、バブルは崩壊というか存在していたのかわからない有様です。
何がアンダーコントロールだったのか疑問に思います。
そもそも人間には何が制御できるのでしょうか。
人間は科学技術の進歩で様々なものをコントロールできると思いました。
核の力さえもコントロールできると考えました。原子力発電はクリーンで安心安全な発電方法だと言われました。日本は世界で唯一の戦争被爆国でありながら、原発を制御できると言って全国に作りました。しかし実際は制御できませんでした。
小さなウイルスさえ制御できません。
オリンピックにはビジネスという面も大きくあります。無観客となり、果たして期待したような祝福を得ることができたでしょうか。
人間は自分の力で様々なものをコントロールできると思います。祝福を勝ち取れると思います。
しかし現実にはそうではない部分が多くあります。
自分にできないことがあることを知る
今日の本文はダビデが神の箱をエルサレムに移そうとする場面です。
神の箱というのはイスラエルがエジプトを脱出した後、十戒が書かれた掟の板、マナの入った壺、芽を出したアロンの杖を入れた箱です。
神の箱は神の足台とも主の名によって呼ばれる箱とも呼ばれ、神がここにおられるということを象徴するものでした。
通常は幕屋の中に保管されていました。
サムエル記の時代にイスラエルはペリシテ人と戦争を行いました。劣勢になったイスラエル軍は神の箱を持ち出しました。神の箱を持って来ることで力を得ようとしたわけです。
ところが期待した通りにはなりませんでした。イスラエルは大敗し、神の箱はペリシテ人に奪われました。
神の箱はペリシテ人の手に渡りましたが、神の箱が置かれる先々で災いが生じました。
自分たちの手に負えないと感じたペリシテ人は、神の箱を車に乗せ、牛に引かせてイスラエルに返しました。
こうして神の箱はキルヤト・エアリムのアビナダブの家で保管されることになりました。
神の助けを求める
ダビデはこの神の箱をエルサレムに移そうと決意しました。
これからイスラエルを治めていくときに、その統治は自分の力でも軍事力でもできない。神の助けが必要だ。そのように神を求めました。
まず神を求めるというのは大事なことです。自分の力ではできない。神なしにはできないと認めることです。
私たちの人生には神の助けなしには解決できない問題、自分には制御できない問題が起きてきます。神の知恵が必要な問題、自分の今の経済力ではどうしようもない問題、神にしか癒せない問題にぶつかります。
人の助けを求める
イスラエル王国、南ユダ王国には立派な王たちがいました。ダビデ、ソロモン、ヨシャファトやヒゼキヤなどは名君と評価されています。彼らは神を求めました。
また彼らに共通するのは、話し合いを大事にしたということです。
神を求める人は謙遜さがあります。自分の力で制御できないことを認めます。それで人々の助けも求めます。
今日の本文でもダビデは指導者たちと協議しています。一緒に話し合って、神の箱をどうするか決めました。
話し合いは大事です。皆で知恵を出しあって決めるのです。
実は神様ご自身も人の助けを求めます。お一人ですべてが可能な全知全能の神がです。
神は天地万物を創造し、人を造り、言いました。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」
人間に、この世界を支配すること、治めることを求めました。
神がやった方がうまく行くでしょう。しかし神はあえて、人間と共に働くことを選びました。
イエス様も弟子たちを求めました。
奇跡を起こして何でも自分で解決できたでしょう。
しかしイエス様自らが弟子たちを選び、任命しました。そしてそばに置き、一緒に働きました。
今イエス様は天に上げられ、地上にはいません。
しかしペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降りました。
聖霊を受けた弟子たちはキリストの手足として、今も一緒に働いています。
このように神様ご自身が人と一緒に働くことを求めたのであれば、人間にはなおさらのことです。
人は、助けを求めることが必要です。一緒に働きましょう。一緒に考えましょう。
自分には制御できないものがあることを認め、力を合わせ、知恵を出しあうことは大事です。
聖霊による一致
しかし人間が知恵を出しあって決めたことが必ずしもうまく行くとは限りません。
ダビデと指導者たちは話しあった結果、全会一致で神の箱をエルサレムに運ぶのがいいということになりました。
それでエジプトのナイル川の支流と言われるシホル川から、シリアのダマスコの北にあるレボ・ハマトまで、当時のイスラエル王国より広い範囲からイスラエル人が集まりました。大イベントです。
キルヤト・エアリムからエルサレムまでは13㎞ほどです。
この教会から13㎞だと浜名湖、浜北区、磐田市くらいです。運ぶのが難しい距離ではありません。浜松まつりの屋台も10㎞近く運ぶところもあります。
ダビデはアビナダブの家から神の箱を新しい車に乗せ、牛に引かせて運びました。
アビナダブの息子ウザとアフヨが先導し、様々な楽器で主を賛美しながら運びました。
順調にいっているような感じがしますね。
ところが事件が起こります。キドンの麦打ち場というところにさしかかったとき、牛がよろめきました。
牛が引いていた車も揺れ、車に乗せていた神の箱がバランスを崩しそうになりました。そばにいたウザはとっさに神の箱に向けて手を伸ばしました。これはもう条件反射です。仕方ありません。
すると神は怒りを発し、彼を打ちました。ウザは神に打ち砕かれ、死んでしまいました。その場で何が起こったのか詳細はわかりませんが、とにかくウザは死んでしまいました。
ダビデはこのことで神を恐れ、「どうして神の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と言ってエルサレムに運ぶことを断念しました。
皆で話し合って決めたことです。実際によいことをしているように見えます。しかしそれが神様に反するということもあります。
今回の問題はダビデが神様の求める方法ではなく、ペリシテ人と同じ方法で運ぼうとしたところにあったかもしれません。律法ではレビ人の中のケハトの氏族が神の箱の運搬をすることになっていました。しかしダビデは、神の箱を車に乗せて牛に引かせるというペリシテ方式で運ぼうとしました。ペリシテはそれでうまくいきました。ダビデはその前例に従ったのでしょう。
人間は協力して神に背く
人間は話しあって知恵を出しあって決めます。その話し合って決めたことが上手くいくとは限りません。
むしろ人間が知恵を出しあい力を合わせて神に背くこともあります。シンアルの地に集まった人々は協力して塔を建てました。しかしそれは神に対する反逆でした。神様は人々の言葉をバラバラにして、工事を中断させました。バベルの塔の事件です。
聖霊によって1つのチームになる
人間が集まって助け合うときに大事なのは、聖霊によって一致することです。
ペンテコステの時に聖霊を受けた人たちはあらゆる国の言葉で神様を賛美しました。神によってバラバラにされた言葉が、再び一つにされました。聖霊によって一つにされました。
オリンピックを見ながら、チームワークの大切さを感じたと思います。
教会もチームで働くことが大事です。
私たちを1つのチームにつなげることも人間の力ではできません。聖霊の助けが必要です。聖霊によって私たちはキリストを頭とし、互いに体の部分として結ばれます。
祝福と呪いを操ることはできない
ダビデは神の箱をエルサレムに移すことを断念しました。神の箱を移すという人間の計画によって祝福を得ようとしましたが、逆に災いが生じてしまったからです。
ダビデは神の箱をガト人オベド・エドムの家に置かせました。
オベド・エドムという人は聖書の中で2~3人登場します。15章では門衛のオベド・エドムさんが出てきます。彼はレビ人です。
今日の本文のオベド・エドムさんはガト人です。ガトというのはペリシテの都市です。ですからこのオベド・エドムさんはペリシテ人だったと考えられます。
神の箱によって災いが生じてしまった。エルサレムには運べない。だったらペリシテ人に押し付けてしまえ。そのような考えがダビデにあったのではないでしょうか。
イスラエルとペリシテは長い間戦争をし続けてきた敵同士。かつて神の箱がペリシテに奪われたとき、ペリシテで災いが生じました。だからペリシテ人のオベド・エドムの家に神の箱を置けば、敵であるペリシテに災いが生じるだろう。
呪われるべき敵だと思っていた人をも神は祝福する
果たしてダビデの狙い通りになったでしょうか。
聖書には「三か月の間、神の箱はオベド・エドムの家族とともに、その家の中にあった。主はオベド・エドムの家の者とその財産のすべてを祝福された。」とあります。
ダビデは呪いが下ると考えたかもしれません。しかし家全体に祝福が注がれました。
私たちは自分の力で祝福を勝ち取ろうとします。こうすれば祝福を得られる。逆に、こうすればあいつに呪いを下すことができる。
しかし狙った通りにならないことがあります。
呪いが下ることを願うとすれば、それは敵のような存在に対してでしょう。
イスラエルにとってペリシテは敵のような存在でした。神様も当然ペリシテに敵対すると思いました。ペリシテ人は呪われるべき。滅ぼされて当然だと思いました。
しかし神様はそのペリシテ人を祝福しました。
預言者ヨナの時代、イスラエルはアッシリアと敵対していました。
神様はヨナに、アッシリアの首都ニネベに行って神の言葉を告げよと命じました。
ヨナは神の言葉の力を知っています。もしニネベに行って神の言葉を告げたら、アッシリア人は悔い改めてしまう。そうするとアッシリアは受けるべき災いから免れる。
ヨナは、そんなことがあってはいけないと思いました。アッシリア人は呪われるべき敵だから。
こうして私たちは誰かと敵対します。
しかしその人をも神は祝福したいと願っています。
ユダヤの人々はイエス様をイスラエルを解放する救い主だと期待しました。敵対するローマを打ち破る王になると思いました。ユダヤ人を祝福し、異邦人を呪うメシアです。
しかしイエス様はすべての人を救うために十字架で死にました。
世界を祝福する道具として神に用いていただく
私たちは自分の力で祝福をコントロールしようとします。神様を自分の願い通りに操ろうとします。しかし神を操ることはできません。祝福を操ることはできません。
私たちが神様を操ろうとするのではなく、むしろ私たちが神様の道具として用いられることを願うべきです。
その道具とは、神様の祝福を世界に流していく祝福の管です。
自分の力ではどうしようもない困難な状況が続いていきますが、祝福を流す道具として用いていただきましょう。
私たちが共に聖霊で満たされ、力を合わせるなら、この世界に祝福があふれ流れていきます。