創立15周年礼拝
神を求める人を遠ざけてはならない
マタイによる福音書 21:12-16
12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
神様の恵みで歩んだ15年
今年ヨハン浜松キリスト教会は15周年を迎えました。2006年に厳善一先生、権彦真先生夫妻によって開拓されました。
2015年から私たちが遣わされました。もう6年になるんですね。
皆さんが仕えてくださり、祈ってくださってありがとうございます。
何より、神様の恵みでここまで歩んでくることができました。教団として間違った方向に進んだ時期もあり、まだその傷が残っているところもあるかと思いますが、頭であるイエス様に従う教会でありたいと思います。
そこで今日は、教会に対するイエス様の熱意を聖書の言葉から聞いていきましょう。
宮きよめ
今日の本文は宮きよめの場面です。
エルサレムに入城したイエス様は神殿に行きました。そこで暴れます。これは4つの福音書すべてに記録されています。
ヨハネが記録したのは違う場面かもしれませんが、縄でムチを作ったとも書いてあります。
そんなイエス様のもとには体に障害がある人が近づき、子どもたちまでイエス様をたたえる叫びをあげていました。その様子を見て祭司長や律法学者たちは腹を立てました。
神を求める人を遠ざける仕組みや態度
どうしてイエス様は神殿で暴れたのでしょうか。ちょっと説明が必要です。
強盗の巣
エルサレムでは大きな祭りが行われていました。それで世界各地からユダヤ人が集まり、神殿で礼拝をささげていました。
礼拝でささげるいけにえの動物たちは、旅の途中で傷がついたり病気になったりするかもしれません。それは受け入れてもらえません。だから神殿の境内で動物を売っていました。
売り買いや献金に外国のお金が混ざっていると困るので、両替も行われていました。
これらは、外国から来た人たちも礼拝をささげられるようにする合理的なサービスです。
しかし礼拝する人たちがこのサービスを利用しなければならないのを悪用し、高い代金や手数料を取っていました。
もし礼拝をささげるのに「聖書や賛美歌は重たいから持ってこなくていいです。1日1000円で貸し出します。献金は特別な通貨しか使えません。両替してください。」と言われたらどうですか。
熱心な人はそれでも礼拝をささげるでしょう。
しかしお金がなかったり、反感を覚えたりして礼拝から遠ざかる人もいるでしょう。
こうして外国から来た人たちや貧しい人たちを礼拝から遠ざけていました。
それなのに神殿で礼拝するユダヤ人たちは、自分たちは清いと思い込んでいるのです。
エレミヤ書7章で神様は、そんな神殿の様子を「強盗の巣」と表現しました。
それでイエス様は売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台や動物を売る人のイスを倒したりしました。
すべての民の祈りの家
神殿は強盗の巣ではなく祈りの家であるべきです。
イエス様はイザヤ書56章7節を引用しています。
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
どんな祈りの家かと言うと、喜びの祝いが行われる祈りの家であり、すべての民の祈りの家です。
ユダヤ人だけでなく外国から来た人たちもそこに招かれていることが語られています。
神に招かれている者同士
神殿は神様ご自身が住むところ。それは人となられた神であるイエス様、キリストの体である教会、聖霊が内に住む私たち一人一人です。
だから教会もすべての民の祈りの家であるべきです。
外国の人たちやお金のない人たちを礼拝から遠ざけてはいけません。
1週間の旅路を終えた人たちが、気軽に帰って来れる場所でなければなりません。
現状では通訳ができないので、日本語がわかる人しか参加できないというのが申し訳ないです。
放送の環境や技術の問題で、オンラインで礼拝する方々を遠ざけることになっていると思います。
貧しい方を礼拝から遠ざけるようなシステムはないと思っていますが、遠ざけてしまう態度というのはあるかもしれません。
1週間仕事で疲れ果て、それでも教会にたどりついた方。勇気を振りしぼって久しぶりに、あるいは初めて教会に足を踏み入れた方を遠ざけてしまう態度もあります。
それは私たち一人一人の表情であり、声かけです。
口先では「どなたでも歓迎します」と言いながら、「なぜ来たの?」という目で見ていませんか。何の関心も示さず無視していませんか。
別に、熱烈大歓迎しなさいと言っているわけではありません。手を握って「ようこそ~、あなたに会えてうれしいよ~」とまで言わなくていいです。
内向的な人もいますからね。私も内向的ですから、静かに礼拝に集中したい思いはあります。
しかし愛は行ってください。ただ笑顔を向けるだけでもいいです。帰る前に一言あいさつするだけでもいいです。
神様を求める人たちを遠ざける態度は捨てましょう。
あなたは神様から招かれています。そしてあなたの隣にいる人も神様から招かれています。互いに歓迎しましょう。
神のもとへ招く
神殿の境内には目の見えない人や足の不自由な人たちがいて、イエス様のところに近づいてきました。
彼らが神殿の境内にいたのは、施しをもらうためだったと思われます。使徒言行録3章にも、生まれつき足の不自由な人が美しい門という神殿の入口で施しをもらっていたことが記録されています。
そもそも彼らは神殿の中に入ることができませんでした。異邦人の庭と呼ばれる外庭までは入れても、そこから先には入れません。さらに奥には婦人の庭、イスラエルの庭、聖所、至聖所というふうに区切られていました。
神様に近づくまでにいくつもの壁や幕がありました。
体に障害がある人たちはそのような神殿側の障害によって神様から遠ざけられていました。
しかしそこにイエス様が来ました。神様ご自身が来てくださいました。
そこに別のグループの人たちが近づいてきました。祭司長たちや律法学者たちです。
彼らはイエス様に腹を立てていました。神殿の境内で勝手なことをし、子どもたちまでギャーギャー騒がせているからです。
彼らは、清く静寂な神殿をイエスが汚しているとでも思ったのでしょう。
イエスを通して誰もが天の父のもとに帰れる
神に近づくために、いくつもの壁がある。その壁を乗り越えた者だけが神に近づくことができるのでしょうか。神聖な雰囲気を守るために騒がしい子どもたちは外に出すべきでしょうか。
イエス様はあらゆる壁を壊し、私たちのところに来てくださいました。そしてイエス様は子どもたちを招いています。
イエス・キリストが十字架で死んだとき、至聖所と聖所を隔てていた幕が真っ二つに裂けました。
イエス・キリストを通して、誰もが父なる神様のもとに帰ることができるようになりました。
イエス様のところへ近づくのを助ける
イエス様は子どもたちについてこう言いました。
しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
マタイによる福音書19:14
子どもたちを歓迎し、祝福する言葉です。
しかし子どもたちは自分の力でイエス様のところに来れるのでしょうか。子どもたちだけで礼拝に来るのでしょうか。
幼い子供や赤ちゃんは、大人の助けがなければ礼拝に来れません。
障害のある人もそうです。人の手や技術を借りなければ、礼拝に来られない人がいます。
イエス様が来てくださった。でも誰かがそれを知らせてくれないといけません。目の不自由な人や足の不自由な人を、誰かが介助しなければなりません。寝たきりの1人のために、4人の友人が協力してイエス様のところに連れて行った話もありますね。
人間には世界をより良くする力がある
腹を立てる祭司長や律法学者たちに対して、イエス様は「あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」と答えます。
これは詩編8編からの引用です。詩編8編は、神様の偉大さを子どもたちまで賛美すると歌い、その神様が造られた人間とは何者なのかと歌います。
人間とは何者なのでしょう。神のかたちに造られた人間。罪から救い出すために独り子を与えるほどに神から愛されている人間。
神様はその人間に世界を治める力を与えました。人間は神から与えられた知恵や技術を用いて、互いに助け合うことができます。社会にある様々な障害も取り除くことができます。
神に近づくことを阻む障害も同じです。
様々な人の助けにより、ユダヤから遠く離れた日本で、私たちは自分の言語で礼拝できます。自分の足で来れない人を車で送迎できます。オンラインでも礼拝できます。自力で来れない子どもたちやお友だちを連れてくることができます。
今日は父の日。私たちの天のお父さんのところに帰りましょう。そして帰ることを願う人たちを招きましょう。帰ることを阻む障害があるなら、協力して取り除いていきましょう。