歴代誌講解35
神様と出会う場所
歴代誌下 3:1-14
1 ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデに御自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。2 建築を始めたのは、その治世第四年の第二の月の二日であった。3 神殿建築のためにソロモンが据えた基礎は、次のような規模のものであった。奥行きは古い尺度に従って六十アンマ、間口は二十アンマ。4 前廊は、奥行きが神殿の間口と同じ二十アンマ。高さは百二十アンマ。彼は純金で内部を覆った。5 この大いなる神殿に糸杉材をはり付け、それを上質の金で覆い、その上になつめやしと網目模様の浮き彫りを施し、6 宝石で神殿を美しく飾った。金はパルワイムの金であった。7 神殿の梁、敷居、壁、扉も金で覆い、壁にはケルビムの浮き彫りをつけた。8 また彼は至聖所を造った。その奥行きは神殿の間口と同じ二十アンマ、その間口も二十アンマであり、上質の金六百キカルで覆った。9 釘は金で重さが五十シェケル、階上の部屋も金で覆った。10 彼は、至聖所の中に二体のケルビムを鋳物で造り、それを金で覆った。11 その二体のケルビムの翼は長さが合わせて二十アンマであった。一方のケルビムの翼の一つは五アンマで神殿の壁に触れ、もう一つの翼も五アンマで、もう一方のケルビムの翼に触れていた。12 このもう一方のケルビムの翼も、一つは五アンマで神殿の壁に触れ、もう一つの翼も五アンマで、他方のケルビムの翼に触れていた。13 このケルビムの広げた翼は合わせて二十アンマであった。ケルビムは顔を内側に向けて足で立っていた。14 彼は、青の織物、深紅の織物、緋の織物、麻の織物で垂れ幕を作ったが、それにもケルビムの縫い取りを施した。
日曜日の朝に教会に集まれなくても
静岡県にもまん延防止等重点措置が適用になりました。今日から2月20日までは分散して礼拝をささげるかたちになります。
もともと人数の少ない礼拝がさらに少なくなり、寂しさもあるかと思います。
日曜日の朝に教会に集まって礼拝をささげるというのは、教会の大切な伝統です。
それができなくなったとしても、礼拝がささげられなくなるわけではありません。迫害などで集まれない時代もありましたが、教会は続いてきました。
そもそも礼拝とは何か。その本質を考えていくと、どんな状況でも揺るがされない礼拝者の生き方が見えてきます。
神殿の意義
今日の本文はソロモンがついに神殿を建築する場面です。
ソロモンが神殿の建築を始めたのはその治世第4年の2月2日。今日は令和4年の1月30日ですから、今の天皇になった年から今日までと大体同じくらいの年月が経って工事を始めました。
モリヤ山に建てられた
工事を始めた場所はエルサレムのモリヤ山。ここにはかつてオルナンの麦打ち場がありましたが、ダビデが金600シェケルを払って買い取った土地です。
ダビデの人口調査がきっかけでエルサレムに主の剣としての疫病が流行り、7万人が亡くなりました。
今も新型コロナウイルスの流行している最中ですが、疫病というのは早く収まってほしいですね。
それで主が示した場所がオルナンの麦打ち場でした。
ダビデはそこを代価を払って買い取り祭壇を築きました。祭壇で犠牲がささげられたことで、主の剣としての疫病は過ぎ去りました。
またモリヤ山と言えばアブラハムがイサクをささげるように主から命じられた場所です。
アブラハムが祭壇を築いてイサクを屠ろうとしたとき、主は一匹の雄羊を示しました。
モリヤ山はアブラハムとダビデにおいて、主が指定した場所であり、主がご自身を現した場所。そして犠牲によって死ぬべきものが命を得た場所です。
ソロモンはそこに神殿を建てようとしています。
ですから神殿は神と人が出会う場所であり、そこでささげられる犠牲によって人が命を得る場所。そのような意味を込めて神殿を建てたのでしょう。
神殿は神と出会う場所
金の永遠の輝き
神殿は石で建てられ、その内側にレバノン杉の板が張られました。さらにその内側は純金で覆われました。神殿の中は金ピカに輝いていました。
金は錆びません。永遠に変わらない輝きがあります。だから金は王の永遠の統治の象徴としても使われます。
ソロモンは自分自身が王です。そのソロモンが神殿の内部を金で覆うことで、イスラエルの真の王が神であると告白し、神による永遠の統治を願っています。
至聖所の金
特に至聖所は金600キカルが使われたとあります。
1キカルは約34.2㎏です。600キカルは20,520kg。約20tにもなります。
めちゃくちゃ重たいです。こんな重い金を貼り付けたら壁や天井が壊れてしまいます。
ちなみに金閣寺という金ピカの寺がありますが、修復に使われた金の重量は20㎏でした。
金閣寺は細かい装飾まで金で覆われていますから、表面積は至聖所より大きいでしょう。それが20㎏で済んでいるのに至聖所に20tというのは多すぎです。
だから600キカルではなく600シェケルが正しいのではないかと思われます。1シェケルは約11.4gなので600シェケルは6,840g。約6.8㎏。妥当な量でしょう。
600シェケルと言えば、ダビデが買った土地の代金と同じです。
イスラエルの命をあがなうためにささげられた金と同じ重量の金が至聖所に使われています。
イスラエルのすべての命のために至聖所があるという願いが込められているのかもしれません。
神様がおられる場所を象徴するケルビム
至聖所には2体のケルビムが立っていました。
至聖所の横幅は20アンマ。1アンマが約45㎝ですから、9mくらいです。
ケルビムには翼があり、翼を広げた長さは1つ5アンマでした。2体のケルビムだから翼は合わせて4つ。ちょうど至聖所の端から端までケルビムの翼に覆われていることになります。
ケルビムは神殿の壁にも幕にも描かれていました。
ケルビムとは何者でしょう。
天使の1つです。
こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。
創世記3:24
人間が罪を犯してエデンの東に追放されたとき、エデンの入口を守るように置かれたのがケルビムでした。
罪ある人が神様に近づくことができないように守っています。
ケルビムは神様がおられる場所、その入口を象徴する天使とも言えます。
至聖所の幕
至聖所の入口には幕がかけられました。
その幕にもケルビムが描かれていました。
聖所と至聖所を隔てるこの幕は、モーセの幕屋のときにもかけられていました。
この幕を通ることができたのは大祭司に限られていました。全人類の中でただ1人、大祭司だけです。
しかも1年に1回の贖罪日にしか通ることができませんでした。
なぜなら、人間には罪があるからです。
アダムの罪によってエデンの東に追放されたように、人は罪のために神様から遠く遠く隔てられています。
それを象徴するのが至聖所の幕でした。
1年に1回、ただ1人大祭司のみが罪を償ってからでないと至聖所の中には入れませんでした。
神が共にいることが感じられる象徴
神殿は神様と出会う場所を象徴していましたが、一般庶民はそこに入ることすら許されていませんでした。
それでも民は神殿建築を喜びました。至聖所に入って神に出会うことはできないけれど、イスラエルの間に神が住んでおられるということを喜びました。
それは神殿の様々な象徴から感じられました。
柱
神殿の入口には2本の柱が立てられていました。
幕屋の時代に柱はありませんでした。神様が立てなさいと命じた記録もないので、どういう意図があったのかはよくわかりません。
手掛かりになるのは柱につけられた名前です。ヤキンとボアズという名前がついていました。
この名前には「神の力」「神が堅く立てる」という意味が込められていたと思われます。
だから民がこの柱を見る時、神様がその力をもって約束を成し遂げてくださると感じたことでしょう。
海
またソロモンが造らせて神殿に置いたものに「海」があります。
青銅で造ったプールのようなもので、清めのために水で洗う場所でした。
罪の汚れを洗い流すことを象徴しています。
海は直径10アンマの円形で、高さは5アンマ、周囲の長さは30アンマでした。
直径に対する円周の比を円周率と言います。
海の寸法から計算すると、円周率は30÷10=3です。聖書は円周率を3と言っているんですね。
それから、海の容量は3,000バト。1バトは23ℓですから69,000ℓ。
底面が直径10アンマの円形で高さが5アンマの立体を考えると、体積が最も大きくなるのは円柱です。
直径10アンマなら半径5アンマ=225cm。円周率をπとすると、底面の面積は50,625π㎠。
高さが225cmなので体積は11,390,625π㎤。
π=3.14とすると約35,800,000㎤。
1000㎤が1ℓなので、容量は35,800ℓにしかなりません。
3000バトは多すぎるわけです。
ちなみに列王記では2000バト=46,000ℓとなっています。
底面を円ではなく1辺が10アンマの正方形とすると容量は45,600ℓでだいたい合います。
なので列王記の記録の方がより正確なものに近いと言えます。
正確な寸法ではなく意義を伝えることが目的
至聖所の金の重量もそうでしたが、歴代誌の記録には現実的ではない数字が含まれています。
歴代誌はバビロン捕囚の後に書かれたと考えられています。
その時は既にソロモンの神殿は破壊され、第2神殿が建てられていました。
だからソロモンの神殿の正確な寸法など、歴代誌が書かれた時代の人々にはどうでもよい情報でした。
歴代誌の著者にとって大事なのは神殿の寸法ではなく、その意義でした。
現代に生きる私たちにも、神殿の寸法や金の重さはどうでもいい情報です。
円周率は3ではありません。
大事なのは神殿の持つ意義です。そこは神様と出会う場所です。
神様と出会う道が開かれた
イエス様の時代の神殿はヘロデ大王によって修復されたものでした。
その神殿でも至聖所の入口は幕で隔てられていました。
その幕はイエス様の十字架によって取り除かれました。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
マタイによる福音書27:51
神と人とを隔てる罪の問題を象徴するものが、至聖所の幕でした。
この罪の問題はイエス・キリストの十字架によって取り除かれています。
2000年後に生きる私たち異邦人のためにも、イエス・キリストは十字架で死にました。
かつて至聖所に入れるのは1年に1回、大祭司だけでした。
しかし今や隔てるものは取り除かれました。いつでもどこでも誰でも神様の前に進み出ることができるようになっています。
神殿は命を与えられる場所
神殿の中にはともし火がともされ、パンが備えられていました。
ともし火
ともし火は光の象徴です。
神様は天地創造の初めに「光あれ」と言われました。
何もなく混沌とした世界に最初に造ったのが光でした。
光はまさに神を象徴するものです。
光がなければ人はさまよい、道を踏み外します。
だから幕屋でも神殿でも、ともし火は絶えずともし続けられていました。
パン
パンは人が生きていくために必要なものです。
イスラエルの民は荒野において神様が天から降したパン、マナによって養われていました。
カナンの地に定住してからマナは降らなくなりましたが、人は神様からいただくパンによって生かされています。
人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのです。
その命のパンを象徴するものが神殿に置かれていました。
神殿は人に命を与えます。
イエスは世の光、命のパン
イエス・キリストは「わたしは世の光である」と言いました。
神殿の中にともし続けられた光が、今や私たちの内にともし続けられています。
私たちはもう闇の中を歩む罪の奴隷ではなく、光の中を歩む光の子に変えられています。
そして私たちを通して光がこの世に輝かされます。
イエス様は「あなたがたは世の光である」と言いました。
この闇のような世の中にあってクリスチャンとして生きるとき、光を輝かせることができます。
そして人々はこの光を見て、神様のところに帰ってきます。
またイエス・キリストは「わたしは命のパンである」と言いました。
天から降って来て人にまことの命を与えるパンです。私たちはこのパンによって養われます。
1月はマタイによる福音書の通読をしてきました。毎日聖書を読むことでたくさんの恵みをいただいたことと思います。
神の言葉が命のパンであり、力があることを体験します。
1月が終わっても、マタイを読み終っても、聖書を続けて読むことを習慣にしてほしいです。
これが私たちの命になります。
神に出会い命を得続ける礼拝者
神殿はこのように神と出会う場所であり、人に命を与える場所でありました。
神殿の建物はなくなりましたが、イエス・キリストの十字架によっていつでもどこでも誰でも神様と出会うことができるようになりました。
そして死んで復活したイエス・キリストは私たちに新しい命を与えます。
私たち自身が、聖霊の住む宮、神殿とされています。
罪は神との出会いを避けさせる
このように招かれていながらも、私たちは神様に近づくことを恐れます。
罪があるからです。
罪を犯したアダムが神様を恐れて隠れたように、神様の目を避けようとします。
光に照らされると隠していた汚れが明らかになってしまうから、神様には離れていてほしい。
主よ、私は罪深い者です。私から離れてください。災いだ。私は汚れた唇の者。
神様に近づくとき、そのような思いが湧いてきます。
イエスは人の罪を知りつつ愛している
確かに私たちには罪があります。
しかし私たちはその罪から既に贖われています。
イエス様は私たちの罪、醜さ、弱さをすべて知っています。
イエス様が完全な人間となって私たちの間に住まわれたからです。
イエス様は人間の弱さも罪深さもその人生の苦しみも知っています。
その上で、私たちを愛しています。
だから私たちは大胆に神様に近づくことができます。
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
ヘブライ人への手紙4:16
人は闇の中で飢え渇いている
ニュースを見ると人間の罪深さに驚かされる毎日です。
先週も訪問を医療をしていたお医者さんが殺害される事件がありました。
そのお医者さんが診ていた女性が亡くなりました。96歳だったそうです。もう大往生ではありませんか。
しかし女性の息子さんは医療チームを呼び出します。そして医者を銃で殺害した後、自宅に立てこもりました。
逮捕された息子は、医療チームの人たちを殺して自分も死のうと思ったと供述しています。
母親の死を簡単に受け入れられないのは息子として仕方が部分もあるでしょう。それでもあまりにも偏った愛です。母親が死んだら母親を治療してくれた人たちを殺して自分も死ぬ。健全な親子の関係とは言えません。
ここまで極端ではないにしろ、親子の関係、夫婦の関係などで愛が壊れてしまっています。
これも罪の影響です。
電車の中でタバコを吸っていた男性が、注意した高校生を骨折するまで暴行し土下座までさせる。周りにいた人は何もしない。
どこから指摘すればいいかわからなくなるほど問題だらけです。
恐ろしいことが今この国で起きています。
罪と悲惨が余りにも満ちあふれています。
この闇のような世界の中で人々は飢え渇いています。
神様の恵みなしには生きていけません。
神に出会い恵みを受ける特権
そこで私たちには神様の前に進み出るという特権が与えられています。
そこで時宜にかなった助け、今必要な恵みを受け取ることができます。それが礼拝者の生き方です。
礼拝は日曜日の朝、教会でしかささげられないものではありません。もちろん日曜日の朝に教会に集まるのが礼拝の基本です。
しかし教会でなければ礼拝をささげられないわけではありません。教会から1歩外に出たら神様と関係なくなるわけではないですね。家でも職場でも学校でも、礼拝者として生きられます。
日曜日の午後や平日に神様が休業しているわけではないですね。24時間365日、いつでも神様はあなたと共にいます。
神様と出会える特権を大事にして、この1週間も礼拝者として歩んで行きましょう。