歴代誌講解36
神殿に満ちるシェキナーの栄光
歴代誌下 5:1-14
1 ソロモン王は、主の神殿のために行われてきた仕事がすべて完了すると、父ダビデが聖別した物、銀、金、その他あらゆる祭具を運び入れ、神殿の宝物庫に納めた。2 ソロモンは、そこでイスラエルの長老、すべての部族長、イスラエル人諸家系の首長をエルサレムに召集した。「ダビデの町」シオンから主の契約の箱を担ぎ上るためであった。3 第七の月の祭りに、すべてのイスラエル人が王のもとに集まった。4 イスラエルの全長老が到着すると、レビ人はその箱を担ぎ、5 その箱のみならず臨在の幕屋も、幕屋にあった聖なる祭具もすべて担ぎ上った。祭司たちはレビ人たちと共にこれらのものを担ぎ上った。6 ソロモン王は、彼のもとに集まったイスラエルの全共同体と共に、その箱の前でいけにえとして羊や牛をささげた。その数はあまりにも多く、調べることも数えることもできなかった。7 祭司たちは主の契約の箱を定められた場所、至聖所といわれる神殿の内陣に運び入れ、ケルビムの翼の下に安置した。8 ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒の上を覆うかたちになった。9 その棒は長かったので、先端が内陣の前の聖所からは見えたが、外からは見えなかった。それは、今日もなおそこに置かれている。10 箱の中には石の板二枚のほか何もなかった。この石の板は、主がエジプトから出たイスラエル人と契約を結ばれたとき、ホレブでモーセが納めたものである。11 祭司たちが聖所から出ると――そこにいたすべての祭司たちは、組分けによる務めにかかわらず聖別されていた――、12 レビ人の詠唱者全員、すなわちアサフ、ヘマン、エドトンおよび彼らの子らと兄弟らは、麻布の衣をまとい、シンバル、竪琴、琴を持ち、百二十人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立っていた。13 ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。14 その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。
計画通りには行かない
2月に入りました。2022年も1ヶ月が終わりました。
今年の計画は順調に進んでいますか。1ヶ月だけでもすべて計画通りという人はいないのではないでしょうか。
1月はマタイによる福音書の通読をしてきましたが、終わりましたか?
コロナが落ち着いてきたところで新年を迎え、急激に感染が再拡大しました。見直しをしなければならない計画も多くあると思います。
計画をどの程度達成できたかで事業の成功度を評価することもあります。
しかし人生は想定外の連続です。計画通りにいかないことばかりです。
場合によっては、計画通りに進めない方がいいことだってあります。
計画を立てることは大事ですが、計画通りに行かない時は立ち止まってください。
人間の考えをはるかに超えた神様の計画に従うチャンスです。
人間の思いを超えた神の計画
今日の本文は完成した神殿に神の箱を運び入れる場面です。
第4年2月2日に始まった神殿の建築は第11年の8月に完成しました。7年半かかりました。
ソロモンはダビデが聖別した金銀や祭具を宝物庫に入れました。これでダビデの時代から計画された事業は完了です。
そこに神がいないなら神殿もただの箱
しかし終わりではありません。建物と祭具があっても、そこに神様がおられなければ神殿はただの箱です。
そこでソロモンはさらに1年近くかけて、神殿に神様をお迎えする儀式を準備しました。
全イスラエルの代表者を集め、神の箱を至聖所に運び入れ、賛美をささげるという大事業です。
失敗は許されません。
ソロモンが描いた神を迎えるシナリオ
ソロモンが選んだ時期は第7の月の祭り。仮庵祭です。
仮庵祭はイスラエルの民が約束の地に入るまで荒野で生活したことを覚え、家の外に小屋を建ててそこで暮らすという祭りです。キャンプみたいで面白そうですね。
荒野を旅していた時、民は神とシナイ山で契約を結びました。シナイ山は神の山ホレブとも呼ばれます。神から与えられた10の言葉、十戒は2つの石の板に刻まれました。モーセがその石の板を入れたのが契約の箱、神の箱です。他にもマナとアロンの杖があったはずですが、なくなってしまいました。
荒野では神の箱も民と一緒にテントに置かれ、一緒に旅をしました。民がカナンの地に入った後、民はそれぞれの家に住むようになりましたが、神の箱は相変わらずテントに置かれていました。
神殿が建てられることで、神の箱はついに旅を終え、イスラエルのただ中に住むことになる。
仮庵の祭りの時期に神の箱を神殿に入れることで、モーセの時代からの事業が完了することを印象付けることができます。
ソロモンはそのようなシナリオを描きました。
中断させられたソロモンの計画
ソロモンの計画は順調に進みます。
神の箱を運ぶというのは父ダビデの失敗の歴史があります。ソロモンはレビ人に担がせ、いけにえをささげました。大量にささげたので、誰もその量を把握しきれませんでした。失敗を繰り返したくないソロモンの思いが表れているようです。
至聖所に運び入れるときは祭司たちに交代し、ケルビムの下に置きました。
そして祭司たちが神殿から出てくると、賛美チームは楽器を奏で、声を張り上げ「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と賛美しました。
いよいよクライマックスです。ここで伴奏が流れる中、ソロモンが代表して祈りをささげ、いけにえをささげる。これで神が神殿に住まわれることが民に印象付けられるはずでした。
ところが突然伴奏の音が止まります。そして民のざわめきが聞こえてきます。
神殿に神様をお迎えする荘厳な儀式。失敗は許されない。
しかしソロモンの計画は中断させられました。
雲が神殿に満ちたためです。
シェキナーの栄光
この雲は何でしょう。
火事ではありません。スモークの演出でもありません。さすがのソロモンもドライアイスは作れませんから。
イスラエルが荒野を旅した時、神の箱と共に雲も一緒に旅をしました。雲の柱がエジプトから脱出するときは先頭を進み、葦の海を渡るときは最後尾を守りました。雲が進めば民は進み、雲が止まれば民は止まりました。
そしてモーセが臨在の幕屋を建てたときも、幕屋はこの雲で満たされました。
この雲はイスラエルの間に住む神の臨在を象徴します。
この神の臨在のことをヘブライ語でシェキナーと言います。住むという意味のシャーカンから派生した言葉です。
神殿が雲で満ち、シェキナーの栄光で満たされたことで、神様がここに共に住んでおられることが示されました。
ソロモンの計画によってではなく神ご自身が示す臨在
ソロモンは用意周到な計画によって、神様が共に住んでおられることを示そうとしました。
しかし神様ご自身がシェキナーの栄光によってそれを示してくださいました。
ソロモンの計画は中断させられましたが、はるかに素晴らしい神様の計画が行われました。
人の手で留めなくても神は共に住んでいる
イエス様はペトロとヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて山に登りました。
するとイエス様の姿が変わり、服は真っ白に輝きました。そしてエリヤとモーセが現れ、イエス様とおしゃべりを始めます。
驚いたペトロは、「先生、ここに小屋を3つ建てましょう」と言いました。
あまりに突然のことでペトロはノープランだったと思いますが、小屋を建ててこの栄光をここに留めたいと感じたのかもしれません。
すると雲が現れて彼らを覆いました。そして雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声が聞こえます。
雲が晴れたとき、そこには普段通りのイエス様が立っていました。
この雲もシェキナーです。
ペトロは自分の手で神の栄光を留めたいと思いましたが、その考えは実現しませんでした。そうする必要がないからです。
すでにシェキナーの栄光はこの地に来ている。神様が共に住んでいる。インマヌエルの神、イエス様が来てくださったからです。
人の計画を確かにするのは神
計画を立てることは大事です。一度立てた計画は、成し遂げられるように努力する必要があります。
しかし想定外の出来事で計画が上手くいかなくなることがあります。
そんなとき、自分の計画を握りしめるのではなく、人間の計画をはるかに超えた神様の計画に合わせて計画を修正する柔軟さを持つことも大事です。
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。
箴言16:9
目を上げて神の計画に合わせる
パンデミックのために中断させられた計画がたくさんあるでしょう。
聖隷クリストファー高校野球部が昨年の東海大会で準優勝したにも関わらず春のセンバツに選ばれなかったことが問題視されています。
生徒たちは努力を重ねてついに甲子園への切符をつかんだと思ったのに、大人の事情で諦めさせられてしまう。あまりにも理不尽です。
そんな時、コロナのバカヤローとか高野連クソとか怒りや憎しみのような後ろ向きの感情に捕らわれることもあります。
しかし前を向いて再挑戦したり、新たな目標に向かって軌道修正したり、変革のために戦ったりすることもできます。
後ろを向いて自分の計画にしがみつくのか、目を上げて神の計画に合わせて自分を変えるのか選択できます。
人間の計画が上手くいかない時、神様の計画に従うチャンスです。
シェキナーの栄光が人を変え町を変える
神殿はなくなりましたが、シェキナーの栄光はここにも満ちます。教会の建物にも、自分自身にも。
この教会堂はただのビルとして存在することもできますし、神様の臨在があふれる場所になることもできます。
私たちの体は鼻で息をしているだけの肉の塊として存在することもできますし、聖霊が住む神の宮となることもできます。
その違いは、聖霊を迎えるかどうかです。
人間の演出ではなく神の恵み
こうすれば教会に神の臨在があふれるとか、こうすれば聖霊で満たされるという方法論はあります。大きな声で祈ったり、いい感じのBGMを流したり、照明を暗くしたり、臨在してるっぽい雰囲気を出すこともできます。
そのような人間側の働きかけは空しいものです。シェキナーの栄光はスモークのような人間の演出で作れるものではありません。
私たちの思いを超えて、神様がここに住んでくださいます。
ペンテコステの聖霊降臨は、人が求めたから来たのではなく、完全に神様の恵みです。
祈りと賛美で恵みに入る
私たちに求められるのはその恵みを受け取ることです。
その恵みの中に入っていく方法として、祈りと賛美をお勧めします。
祈りで神の計画に従う者に変えられる
祈りは自分の思いで神を動かそうとすることではありません。
祈りは神の御心が成し遂げられることのために、自分を変えていただくことです。
イエス様は祈りました。「自分の願うことではなく、あなたの御心が成るように」と。
祈りによって神の計画に従う者に変えられていくのです。
理不尽な状況でも神を賛美する
そして私たちは賛美できます。
たとえ困難な状況の中であっても主に賛美をささげることができます。
ペトロとシラスはフィリピという町で伝道をしていたとき、捕まってしまいました。理不尽な状況で、不平を言うこともできました。
しかし彼らは一番奥の牢で、賛美をささげました。
すると地は揺れ動き、鎖は外れ、牢が開きました。
それを見た看守は神の御業に驚き、救われるにはどうすればいいか尋ねます。
パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と言いました。
こうして看守とその家族が救われ、フィリピの町に教会が誕生しました。
賛美によって困難な状況も神の栄光が現わされる機会になります。
そして人が変わり家庭が変わり町が変わります。
賛美の中に住む神
賛美には力があります。
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
詩編22:3 新改訳第3版
神様は賛美の中に住まわれるお方。
今日の本文でも賛美チームが賛美をささげているとき、神殿はシェキナーの栄光で満たされました。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに。
私たちもそのように賛美することができます。
神の計画こそ最善の計画
自分の計画がうまくいかないような困難な状況、夢をあきらめなければならないような理不尽な世界がある。
そこで私たちは自分の思いに留まり、思い通りにならないことに文句を言うこともできます。
けれども私たちは祈り、賛美することもできます。
神の計画に従う者へ造り変えられ、この口で神を賛美します。
その時、神の計画は最善の計画だと気づかされます。
自分の思い通りにならない困難な状況の中でも神の栄光を現わされ、自分が変えられ、家族が変えられ、学校や職場が変えられ、この町が変えられていきます。