使徒言行録講解59
福音のためなら命すら惜しくない
使徒言行録20:17-24
17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。18 長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。19 すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。20 役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。21 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。22 そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。23 ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
命一式
先月、クリエート浜松で星野富弘さんの詩画展が行われました。ご覧になった方もいますね。私は2回も行きました。
好きな作品はいくつもありますが、その中で1つの詩が特に心に響きました。命一式という詩です。
新しい命一式ありがとうございます
星野富弘「命一式」
大切に使わせて頂いておりますが
大切なあまり仕舞いこんでしまうこともあり
申し訳なく思っております
いつもあなたが見ていて下さるのですし
使いこめば良い味も出て来ることでしょうから
安心して思い切り
使って行きたいと思っております
命というのをプレゼントとしていただいたもののように表現しています。
誰からいただいたのでしょう。神様からですね。
私たちは主なる神様から命をいただき、今も生かされています。
その大切な命について、星野さんは「大切なあまり仕舞いこんでしまう」こともあると書いています。
大切なものだから、使うのをためらってしまうことありますよね。
私が今使っている自転車は、7年前の誕生日にいただいたものです。教会の兄弟たちがお金を出し合って買ってくれました。とても大切なものです。
だからと言って雨に濡れないように、タイヤが擦り減らないように仕舞っておいたらどうなるでしょう。
いざというとき使い物にならなくなります。
自転車は定期的に乗ってこそ、その価値を発揮します。
思い切り使い込んでこそ、プレゼントしてくれた兄弟たちの思いにこたえることになるでしょう。
私たちの命もまた、思い切り使ってこそその価値が発揮されるのではないでしょうか。
首から下を動かせない寝たきりの中で、口に筆をくわえて詩と絵を描く星野さんは、まさに命を思い切り使い込んでおられる方だと思います。
私たちは神様からいただいた大切な命一式を、どのように扱っているでしょうか。
ミレトスへ
今日の本文はパウロがエフェソの長老に語った別れの挨拶の前半部分です。
パウロたちはエルサレム教会に献金を送り届けようとしています。
過越祭の後にある除酵祭をフィリピで祝い、5日かけてトロアスに来て、そこで7日間過ごしました。
ルカたちはトロアスから船に乗りましたが、パウロは歩いて移動しました。アソスで合流し、ミティレネで1泊。翌日はキオス島の沖を過ぎ、その次の日にサモス島に寄り、その翌日にミレトスに着きました。
サモス島の東にはエフェソがあります。パウロにとって、とても思い入れのある教会がそこにはありました。
でも今回はスルーします。
パウロは五旬節はエルサレムで祝おうと考えていました。
五旬節は過越祭から50日。もう20日以上経過しています。もしエフェソに寄ったら、長居してしまうと感じたのかもしれません。
それでエフェソの南にあるミレトスに上陸しました。
しかしエフェソの教会に伝えたいメッセージがあります。
そこで長老たちを呼び寄せ、別れの言葉を告げます。
大切なものを守るためなら苦難をいとわない
パウロは聖霊の促しを受けてエルサレムに向かっています。
エルサレムに向かって急ぐのは、ただ五旬節のお祭りにワイワイ参加したいからではありません。聖霊に、そう示されたのです。
エルサレムでどんなことが起こるかはわかりません。
ただわかっていることは、投獄と苦難が待っているのは確かだということです。
いや、それがわかっているなら行くべきではないでしょう?なぜ急いで苦難を受けに行くのですか。
エフェソで神の国のことを語っていたとき、反対者を避けて会堂からティラノの講堂に移ったではないですか。
あの時は苦難を避けたのに、今回はあえて苦難を受けに行こうとしている。どうしちゃったの、パウロさん?
と、パウロのことが心配になってしまいますが、おかしくなったわけではありません。
パウロはこれまでも主に仕えてきました。
パウロの回心のとき、アナニアに示されたのは「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」という言葉でした。
パウロは主に選ばれ、主から託された任務がありました。
だからその任務を果たすために苦難を避けることもあれば、受けるべき苦難は甘んじて受けるのです。
大切なものを守るためなら、苦難も甘んじて受けるという覚悟がわかりますか?
ソロモン王のところに2人の女性が赤ちゃんを連れて来ました。どちらが本当の母親か、裁いてほしいというのです。2人とも自分が母親だと言います。
2人の顔と赤ちゃんの顔とを見比べても、似ているような似ていないような、微妙なところです。化粧を落とせばわかるだろうか?難しい裁判です。
ソロモン王は「剣で赤ちゃんを2つに裂き、2人に分け与えよ」と命じました。
ここで一人の女性が訴えました。
「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください。」
この女性こそ、本物の母親です。
大切な子どもを守るためなら、手放してもいいと言うのです。
先週ニュースで、サメにかみつかれた妻を助けるために、サメを殴り続けた男性が紹介されていました。(サメを殴って妻救う サーフィン中かみつく―豪)
最高にかっこいいじゃないですか。
愛する妻を助けるためなら、相手がサメだろうと命がけで戦う。
正気じゃないと思いますか?
そう、正気じゃないんです。
愛に駆り立てられているのだから。
13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
コリントの信徒への手紙二5:13-15
福音のために命をかけるときにわかる、豊かな命
パウロが苦難を受けてでも果たそうとしている任務は「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しする」ということでした。
パウロはそのためなら「この命すら決して惜しいとは思いません」と言っています。
任務を果たすためなら、命も惜しくない。
かっこいいですね。
皆さんも、これのためなら命も惜しくないというものがありますか?
哲学者アルキメデスは戦争中も地面に図形を描いていました。それで敵の兵士に殺されてしまいました。かっこよくないですか?数学のためなら命すら惜しくない。そう思うのは私だけ?とにかく、よいこはマネしないでください。
仕事に命をかける人もいます。医療現場で働く人のように誰かのために命をかける人はかっこいいです。
しかし会社のために命をかけてしまっているなら、命を大事にしてほしいです。
お国のために、天皇のために命を惜しまず戦った人たちもいました。これはかっこいいでしょうか。よく考える必要があります。彼らの死は、必要な死だったのでしょうか。
命をかける対象は、何でもいいわけではありません。
私たちのこの命は、神様からのプレゼントです。元は神様のものです。
この世の何かのために、命を失ってはいけません。
しかし神の愛にこたえようとするとき、命すら惜しくなくなります。
イエス様はこのように言いました。
34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マルコによる福音書8:34-35
イエス様は私たちを救うために、十字架でご自分の命をささげられました。そして3日目に復活し、今も生きておられます。
イエス様は私たちを、自分の十字架を背負って従ってきなさいと招いています。
私たちもパウロと同じように神に選ばれた器であり、果たすべき任務があります。
それは神の愛にこたえて精いっぱい生きるということです。
命は大事だからと、犠牲を避け、戦いから逃げ、内に閉じこもっていてはいけません。それではキリストの命の豊かさがわかりません。
神様からいただいた命一式、思い切り使っていきましょう。
あなたの時間や能力、また富を、誰かのためにささげてください。ささげる喜び、ささげる者の豊かさを体験します。
誰かを助けるためなら命をかけて戦いましょう。戦うと言ってもサメや熊と格闘することはないでしょう。しかし貧しい人や虐げられている人のために戦わなければならない、立ち上がらなければならないときがあります。
自分の安全な場所に留まっていては、神様の力は体験できません。しかし神の招きに従って足を一歩踏み出すなら、水の上をも歩けるのです。
こうしてキリストに従い、福音を生きていきましょう。
福音のために命を惜しまない人は、復活の主から与えられた本当の命、豊かな命を体験します。
福音には、命をかける価値があります。