私たちの使命2
神を礼拝して生きる
ヨハネによる福音書 4:23-24
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
父なる神は礼拝する者を求めている
神様が私たちに求めていることを実現するために、何をするのかということを見ています。
今日は私たちの使命の2つ目「人生のすべてにおいて自分のすべてをもって神を礼拝します。」についてです。
先週は神様の言葉を聞き、そのよい知らせを伝えるということについて話しました。それが神を愛することにつながります。
しかし言葉を聞いて伝えるだけで愛が深まりますか。
伝言ゲームで次の人がそのまた次の人に伝えてくれても、「この人、私を愛してくれている」なんて思わないでしょう。するべきことをしただけです。
遠距離恋愛をしている恋人を考えてみてください。
手紙やメールのやり取りでも愛を感じます。電話で声が聞けたならうれしい。誕生日や記念日に、前から欲しいと言っていたものを贈ってくれたら「この人、私を愛してくれている」と思います。
しかしそれで満足できますか。
会いたいと思うでしょう。
ヨハネも「手紙に書きたいことはまだいろいろあるけれど、あなたがたのところに行って親しく話し合いたい」と言っています。
愛する人と直接顔と顔を合わせて、声を聞きたい。相手の温もりを感じたいと願うでしょう。
そうでしょ。わからない人は恋をしなさい。
だから神様は私たちとの出会いを求めています。
言い換えると、父なる神様は礼拝する者を求めています。
いつでもどこでも神を礼拝する
今日の本文はイエス・キリストがサマリアの女性に語った言葉です。
サマリアの女性との出会い
イエス様はユダヤに滞在した後、ガリラヤに戻りました。ユダヤとガリラヤの間にはサマリアという地域があります。ユダヤ人とサマリア人は同じイスラエル民族にルーツがありますが、歴史的に対立が続いています。ユダヤ人はガリラヤに行くとき、サマリアを通らないように遠回りをしました。しかしこのとき、イエス様はあえてサマリアを通ります。そして正午ごろ、シカルという町にあるヤコブの井戸のそばに座っていました。
そこに1人の女性がやってきます。普通、水汲みは女性たちが涼しい朝か夕方にしていました。ところがこの女性は暑い昼間に水汲みに来ました。人目を避けて来たようです。
この女性は男性関係で問題を抱えていました。町の人たちからも冷たい目で見られていたかもしれません。
イエス様は彼女の問題を見抜き、それを指摘します。すると彼女はこの話題を避けるように、神学の問題をイエス様に聞きます。
ユダヤ人はエルサレムの神殿で礼拝します。サマリア人はゲリジム山に礼拝所を作りました。礼拝するべき場所はどこか、という問いです。
それに対しイエス様は「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と答えます。
礼拝の場所、対象、時間
今日の本文はそれに続く言葉で、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。」と言われています。
まことの礼拝はどのようなものか。
礼拝すべき場所はエルサレムの神殿やゲリジム山に限らない。
礼拝は神との出会いです。
父祖ヤコブは兄から殺されそうになって家を出ました。そして石を枕にして野宿をします。なんと悲しい状況でしょう。
そこでヤコブは天まで届く階段を天使が上り下りし、主が傍らにいる夢を見ました。
ヤコブは眠りから覚めると、枕にしていた石を記念碑とし、神を礼拝します。
神はどこにでもいます。神殿や山のような特定の場所に制限される方ではありません。石を枕にして寝るような所でも、人目を避けて来たヤコブの井戸でも、神に出会えます。
だから礼拝すべき場所は、世界中どこでもです。
礼拝すべき対象は誰でしょうか。それは父なる神様です。
サマリア人も元は同じ神を礼拝していました。しかしイスラエル王国が南北に分裂した時から、金の子牛の像を礼拝の対象にしてしまいました。
神ではないものを神のように扱ってはいけません。それは人の手で作られた像かもしれないし、富のような物質かもしれません。他の人や自分の力を神のように頼ってしまうこともあります。
礼拝すべき対象はただ神だけです。
礼拝すべき時はいつでしょうか。
ユダヤ人は安息日や祭りの日などに礼拝しました。それは神が定めた大切な礼拝です。
しかしそれだけが礼拝の時ではありません。
イエス様は、礼拝する時は今だと言っています。
その日はイエス様たちが旅をしていましたから、安息日ではありません。ユダヤから離れていくので祭りの期間でもありません。平日の昼間です。
そう、日常生活の中でも礼拝すべきなのです。
なぜなら、神が私たちとの出会いを求めているからです。
生活の中で神を礼拝する
私たちは日曜日の朝、教会に集まって礼拝します。これは復活の主に呼び集められた私たちの大切な礼拝の時間です。
しかし礼拝はこの場所、この時間だけに限定されるものではありません。
私たちはいつでもどこでも神を礼拝できます。家で休んでいるときも、職場で働いているときも、学校で勉強しているときも、移動中も、スポーツをしているときも、私たちは礼拝できます。
いえ、礼拝すべきなのです。
神と出会うとき、私たちの内に命の水が川のようにあふれ流れます。
その人は流れのほとりに植えられた木のように、ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがありません。本当に生き生きした人生になります。神に造られた者としての本当の人生が、礼拝から始まります。
そして命の川が流れるところでは、すべてが生きます。祝福の源になるのです。
皆さんの家庭の真ん中に神様を迎えてください。それが夫婦円満、子どもを健全に養う秘訣です。
仕事を金儲けのための労働ではなく、神から任された役割だと思ってください。その時、皆さんの仕事によって世界はより良くなります。
学校で勉強するとき、この世界を創造され、人に知恵をお与えになった神様を見上げてください。主を畏れることが知恵の初めです。
皆さんがどこに行くとしても、どのような状況にあるとしても、神様はそこにいます。
神に造られたその体を動かすときにも、私たちは神の栄光を現わし、神を喜ぶことができます。
人生のすべてで、私たちは神を礼拝します。
存在そのものが神の愛に包まれる
では礼拝するとはどういうことでしょうか。
神に出会うために何をしたらいいのでしょう。
日曜日の礼拝の中で私たちは賛美し、祈り、御言葉を聞き、献金をささげます。
職場で礼拝するとしたら、朝礼で賛美し、牧師を呼んで説教を聞き、献金をささげるということでしょうか。
そういうクリスチャン企業もまれにありますが、皆さんの職場でそれをするのは現実的ではありません。
礼拝するということを考えるとき、何をするかより大事なことがあります。
神との出会いを求める
サマリアの女性は神を賛美したわけでもなく、祈ったわけでもありません。イエス様の言葉を聞きましたが、自分の問題を指摘されると話題をそらしてしまいます。
しかし彼女はイエス様と会話した後、町の人たちに「さあ、見に来てください。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と伝えます。
人目を避けていた彼女が、町の人たちに声をかける。
別人のように変わってしまいました。
彼女はイエス様に出会ったのです。
マルタとマリアの家にイエス様が来たとき、マルタはおもてなしのために忙しく働いていました。ところがマリアはイエス様の足もとに座って話を聞いているだけです。
マルタはそんなマリアと、マリアに何も言わないイエス様に腹を立てます。
するとイエス様はこう答えました。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
ルカによる福音書10:42
神様がまず私たちとの出会いを望んでいます。
普通は避けるサマリアをイエス様があえて通ったのは、ただ1人の女性に会うためです。
イエス様は私たちに出会いに来てくれます。
その時、何をするかに心を奪われるのではなく、イエス様との出会いを求めてください。
皆さんの家庭に、職場に、学校に、イエス様が来てくださる。
そこで私たちがメシアに出会いたい、イエス様の声を聞きたいと求めるなら、私たちはイエス様に出会います。
すると私たちから神への賛美があふれ、神様とのおしゃべりを楽しみ、自分のすべてを神様にささげたいと願うように変えられます。
礼拝で何をするかは、イエス様に出会った人から自発的に出てきます。
御言葉と聖霊の助けで神の愛を知る
今日の本文でイエス様は、霊と真理で神を礼拝すると言います。
神様が私たちとの出会いを求めていても、弱い私たちの目はふさがれ、耳は閉じ、重い皮膚病のように感覚を失っています。神がどのようなお方かがわかりません。
神は聖書においてご自身を示されました。
私たちはこの真理の言葉から、神がどのようなお方かを知ります。私たちの罪のために死なれ復活された、神の愛を知ります。
それはただの知識で得られるものではありません。
聖霊の働きで目が開かれ、今も生きておられるイエス様を見上げます。耳は開かれ、優しくささやく羊飼いの声を聞きます。
罪のために無感覚であった私たちは癒され、御腕に抱いてくださる父なる神の温もりを感じます。
この神の愛に包まれることが、礼拝です。
まことの礼拝者は、霊と真理をもって礼拝します。
今あなたはまことの礼拝をささげていますか
今も私たちは礼拝しています。
きれいな声で賛美をささげ、上品な祈りをし、説教を聞いて聖書の知識を深め、大切な生活費の一部を献金としてささげる。そういう立派な行いで礼拝した気分になっていませんか。
あなたの内に、命の水があふれ流れていますか。
神様はあなたに出会いたいと願っています。
その目を開いて、顔と顔を合わせて出会いたい。
耳を開いて、友のように語り合いたい。
そしてあなたがどんなに汚れていても、傷だらけでも、そのままのあなたを抱きしめたい。
イエス様は両手を広げて、あなたを御腕に抱こうと待っています。
その手には釘の跡。
そう、古いあなたはもう死んだ。あの十字架で、私と共に死んだのだ。
さあ、新しい命に生きよう。
イエス様があなたの名を呼び、招いています。
人生のすべてでこの神に出会い、心も体も新しく造り変えられたものとして歩んでください。
神を愛する私たちは、人生のすべてにおいて自分のすべてをもって神を礼拝します。
0件のコメント