歴代誌講解76
私は救世主じゃない
歴代誌下 35:20-24
20 ヨシヤが神殿を整えるために行ったこれらのすべての事の後、エジプトの王ネコがユーフラテス川の近くのカルケミシュを攻めようとして上って来た。ヨシヤはこれを迎え撃つために出陣した。21 しかしネコは使いを送って言った。「ユダの王よ、わたしはあなたと何のかかわりがあろうか。今日攻めて来たのはあなたに対してではなく、わたしが敵とする家に対してである。神はわたしに急ぐようにと命じられた。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる。」22 しかし、ヨシヤは引き返さず、攻撃のために変装して、神の口から出たネコの言葉を聞かなかった。そして彼はメギド平野の戦いに臨んだ。23 射手たちがヨシヤ王を射た。王が家臣たちに、「傷は重い。わたしを運び出してくれ」と言ったので、24 家臣たちは王を戦車から降ろし、王の第二の車に乗せてエルサレムに連れ帰った。王は死んで、先祖の墓に葬られた。ユダとエルサレムのすべての人々がヨシヤの死を嘆いた。
メサイアコンプレックス
クリスマスは英語でChristmas。キリストChristと礼拝を意味するmasがくっついた言葉です。ですからクリスマスのもとの意味は、キリストの礼拝ということになります。
キリストはギリシア語で救い主を意味する言葉から来ています。救い主はヘブライ語でメシアと言います。英語風の発音はメサイアです。
ところで、メサイアコンプレックスという言葉を知っていますか。
医療や介護、カウンセラーなど人を助ける仕事の人たちが陥りやすい心の状態を指す言葉です。
無意識のうちに誰かの救世主になることで、自分の自己肯定感の低さや劣等感を覆い隠そうとします。
メサイアコンプレックスの人は、他の人の課題にまで介入して人助けをしようとしてしまいます。ありがた迷惑です。
しかし本人は感謝されて当然だと思っています。感謝されなければ不満を持ち、感謝される幸福感を得たいがために自分を犠牲にしてでも人助けをしようとします。
自分がメサイア、つまり救世主であるかのように振る舞うのでメサイアコンプレックスです。
しかし私たちは救世主ではありません。
この中に救世主の方はおられますか?
救世主の仕事は救世主に任せ、私たちは自分自身の人生を生きたらいいです。
戦わなくていい戦いを戦っている
今日の本文は南ユダ王国16代目ヨシヤ王の話その4、メギドの戦いです。
メギドの戦いとカルケミシュの戦い
世界史に残る歴史的事件が起こります。
アッシリア帝国はアッシュールバニパル王の時代にエジプトのテーベに侵攻、エジプトを従属させます。さらにバビロンも支配下に置きました。
しかしアッシュールバニパルが死ぬと、この大帝国は急に衰退します。
バビロンではカルデア人ナボポラッサルが新バビロニアを建国。アッシリアを平野部から追い出していきます。首都ニネベも落とされ、アッシリアはチグリス川流域の領土を失います。
アッシリア軍はユーフラテス川近くのカルケミシュで態勢を立て直すことにしました。
エジプトではネコがファラオになります。
猫ではありません。人です。
ファラオ・ネコは主従関係にあるアッシリアを支援するため、自ら兵を率いてカルケミシュに向かいました。
このとき、3つの大国に囲まれた南ユダ王国ではヨシヤ王の下で平和な時代が続いていました。
ヨシヤは8歳で王になり、荒廃した南ユダ王国で神殿を修復し失われた律法の書を発見するなど、様々な改革を行ってきました。彼は神を求め、神の言葉に聞き従う王でした。
周りの大国に支配されない、中立な立場です。
ファラオ・ネコはカルケミシュに向かうため、南ユダの領内を通過する許可をもらおうとします。
この戦いは南ユダと何の関りもありません。ところがヨシヤは兵を出し、エジプト軍の行く手を阻みます。
ネコの説得にも応じなかったので、しかたなくメギド平野で戦闘になります。
紀元前609年、メギドの戦いです。
この戦いで、エジプト軍の射手が放った矢がヨシヤに命中します。「いてー!」 南ユダ軍は敗走し、ヨシヤは亡くなります。
この4年後、新バビロニアは王子ネブカドネザルをカルケミシュに向かわせます。
アッシリア・エジプト連合軍は新バビロニア軍に敗れ、両国はさらに衰退へ向かいます。
新バビロニアではこの遠征中にナボポラッサルが急逝。ネブカドネザルは急遽帰国し、王になります。こうして新バビロニア帝国の時代が始まっていきます。
紀元前605年、カルケミシュの戦いです。
関係ない争いに首を突っ込んで死んだヨシヤ
この戦いはあくまで大国同士の戦いで、中立だった南ユダには無関係です。
ヨシヤは、関係ない争いに首を突っ込み、死んでしまいました。
なぜでしょう。
彼は王として責任感が強かったかもしれません。
幼くして王になり、荒れた国を建て直す使命が与えられました。自分が何とかしなければと思い、必死で改革を進めてきたのだと思います。私がやらなければ国はダメになると思ったかもしれません。
それで戦わなくていい戦いをしてしまったのではないでしょうか。
人と人の間にある境界線
私たちは自由な存在として造られました。自分の人生を自分で選択し生きる自由があります。
また人にはそれぞれの責任の範囲があります。
その境界線を越えて他人の人生に介入してはいけません。
先日、長文の手紙が送られてきました。
色々熱い文面で、最後には熱い感想をメールで送れと要求して終わっていました。
私は「あなたのイエス様に対する熱い愛が伝わりました。」などと簡潔に返信しました。
すると相手は、こっちがこんな長文で送ったのに、返事はこれだけ?と憤慨していました。
相手の手紙にどのような感想を抱き、どのように返信するかは私の自由です。
サッカー日本代表がドイツに勝つと喜んで監督や選手を称賛し、コスタリカに負けると落ち込んで監督や選手を非難する人がいます。
その人にとって人生の幸不幸がサッカーの勝ち負けに支配されてしまっています。
他人の課題に対しては手を放し、自分の境界線を踏み越えてくる支配者は拒まなければなりません。
自分の責任の外にある問題から手を放す
パウロは手放すことを教えます。
コリント教会はパウロが設立し、アポロが後を継ぎました。コリントの信徒たちはパウロやアポロの影響を受けて信仰に入ったわけですが、彼らがどのような信仰者に育つかは自分たちの責任ではないと言います。
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
コリントの信徒への手紙一3:6
畑に種を蒔き水を注ぐまでは人の責任で
す。しかし人の力で芽を出させ花を咲かせ実を結ばせることはできません。それは神の恵みです。
私たちは救世主ではありません。
自分の責任の外の問題からは手を放し、神様に任せてください。
自分の問題も解決するのは神の恵み
私たちには解決しなければならない問題があります。
自分の仕事のこと、進路のこと、家庭のこと、人間関係など、自分の責任として取り組まなければならない課題があります。
ヨシヤも国内の問題は王として責任がありました。
たとえば過越祭。これは先週の礼拝で話した内容ですが、ヨシヤは自分の思いを手放し、神様の言葉に従いました。
今日の本文ではこれができていませんでした。22節に「神の口から出たネコの言葉を聞かなかった」とある通りです。
神様が行くなというのに、自分の思いを優先して行くべきでないところに行ってしまいました。
自分の思いを手放すというのは、あきらめることとは違います。
自分の力で解決しようとしないで、自分を愛しておられる神様に任せるのです。
自分の責任の範囲においても神様にお任せしてください。
主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
詩編37:4
私たちは自分の人生の計画を持ちます。こうしたいという思いを抱きます。
神様はそれより大きな平和の計画をお持ちです。
自分の思いさえも実現させてくださるのも神様の恵みです。
本当の救い主を求める
私は救世主じゃない。そんなことは当たり前です。
しかし私たちは他人の人生に介入してしまいます。
ああしなさいこうしなさいと他人に口出しをし、彼らの選択を認められません。
また自分の人生の選択を親や先生、社会に任せてしまう。
自由な存在として造られたはずの私たちは、なぜ互いに支配し合うのでしょう。
それは根本的には私たちが罪に支配されているからです。
だから私たちには救い主が必要です。メサイアコンプレックスを抱いた人間ではない、本当の救い主を必要としています。
救い主イエスが世に来られた
ナザレ村のヨセフさんは問題を抱えていました。婚約者のマリアちゃんが妊娠したというのです。ヨセフの子ではありません。彼女は聖霊によって身ごもっていると言います。そんな話信じられません。
結婚前に男女の関係を持つことは死に当たる犯罪でした。このままではマリアちゃんが死刑になってしまう。ひそかに縁を切ればマリアちゃんを守れるだろうか…。ヨセフにはどうしていいかわからない問題です。
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
マタイによる福音書1:20-21
悩んでいた問題の答えは、神の言葉によって与えられました。
マリアちゃんの言う通り、お腹の子は聖霊によって宿りました。神の子、イエス様です。
この方こそ人々を罪から救う、唯一本当の救い主です。
イエスはメサイア(キリスト)
私たちの人生を支配している罪の問題。この罪を取り除き救い出すためにイエス・キリストは来られました。
イエス様に罪はありません。他人の罪のために十字架で死ぬなんて、こいつこそメサイアコンプレックスじゃないか。
いいえ、イエス様はメサイア本人、イエス・キリストなのです。
十字架で死なれ復活されたイエス・キリストは、あなたをあらゆる支配から解放し救い出すために来られた救い主です。
このクリスマス、あなたの抱えている重荷をイエス様にお任せしてください。
その時、イエス様と共に歩む本当にあなたらしい人生が始まります。