罪の誘惑

歴代誌講解22

罪の誘惑

歴代誌上 21:1-14

1 サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。2 ダビデはヨアブと民の将軍たちに命じた。「出かけて行って、ベエル・シェバからダンに及ぶイスラエル人の数を数え、その結果をわたしに報告せよ。その数を知りたい。」3 ヨアブは言った。「主がその民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王よ、彼らは皆主君の僕ではありませんか。主君はなぜ、このようなことをお望みになるのですか。どうしてイスラエルを罪のあるものとなさるのですか。」4 しかし、ヨアブに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブは退き、イスラエルをくまなく巡ってエルサレムに帰還した。5 ヨアブは調べた民の数をダビデに報告した。全イスラエルには剣を取りうる男子が百十万、ユダには剣を取りうる男子が四十七万であった。6 ヨアブにとって王の命令は忌まわしいものであったので、彼はその際レビ人とベニヤミンの調査はしなかった。7 神はこのことを悪と見なされ、イスラエルを撃たれた。8 ダビデは神に言った。「わたしはこのようなことを行って重い罪を犯しました。どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」9 主はダビデの先見者ガドに告げられた。10 「行ってダビデに告げよ。主はこう言われる。『わたしはあなたに三つの事を示す。その一つを選ぶがよい。わたしはそれを実行する』と。」11 ガドはダビデのもとに来て告げた。「主はこう言われる。『いずれかを受け取るがよい。12 三年間の飢饉か、三か月間敵に蹂躙され、仇の剣に攻められることか、三日間この国に主の剣、疫病が起こり、主の御使いによってイスラエル全土に破滅がもたらされることか。』わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」13 ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」14 主はそこでイスラエルに疫病をもたらされ、イスラエル人のうち七万人が倒れた。

石を投げることを止められない

 天皇の弟である秋篠宮さまの長女、眞子さまが一般男性との婚約内定を発表したのが2017年9月。その半年後に結婚の延期が発表されました。そのまま引き延ばされ、昨年10月には「結婚は生きていくために必要な選択」とした文書を公表しました。そして婚約内定から4年後、今月26日に婚姻届けを提出する予定と発表されました。ようやく結婚となります。
 この4年間、ご自身や家族、そしてお相手とその家族にまで誹謗中傷とも取れる出来事が続きました。その影響で眞子さまは複雑性心的外傷後ストレス障害と診断される状態になっているそうです。
 私にはこの結婚がなぜここまで批判されるのか理解ができません。成人した男女が結婚することに何の問題があるのでしょうか。結婚の約束をして4年間も互いに待ち続けているなんて、逆に応援したくなるようないい話ではないですか。
 なぜ本人だけでなく家族まで批判されなければならないのでしょう。秋篠宮家だから文句を言えるのでしょうか。お相手の家柄に問題があるのでしょうか。いつの時代の身分制度ですか。
 本人の親やきょうだいであれば、ちょっと待ってと言えるかもしれません。親戚でもないのに文句を言う人たちは何様なのでしょう。
 お相手の一般人の方が留学先から帰国することがニュース速報になり、カメラがつけまわしていたのにはゾッとしました。
 何が問題か詳しい人がいたら教えてください。

 人間とは残酷なものです。
 この人には石を投げていいんだと思えば、相手の人格を無視して石を投げます。
 そのようにして、子どもがいじめられ、有名人がSNSで誹謗中傷にあいます。そして自死へと追い込まれていきます。
 今まで何人の人を殺して来たのでしょう。
 それでも人は石を投げることを止められません。

罪に誘う者がいる

 今日はダビデの人口調査です。
 アンモンとの戦いが終結し、イスラエルの外の脅威はなくなりました。
 これで国が安定し神殿建設に取りかかれるかというと、そうではありません。
 今度は国内の問題が起こります。ダビデの家族内の問題が起こり、息子のクーデターという事件も起こります。
 さらに国を揺るがす大事件が起こります。それは疫病です。
 今日の本文では疫病を主の剣と表現しています。神様ご自身が疫病という形で国を裁くということです。
 病気の流行がすべて神様の罰とは言えません。
 今日の本文で記録されている疫病については、ダビデの罪によって引き起こされました。

神ではないものを頼ろうとする

 ダビデが犯した罪、それは人口調査でした。
 人数を数えること自体は問題ではありません。今日は資料が何部必要になるか、というように数えなければ困ることもあります。
 しかし人数を数えた結果、神ではないものを頼るようになれば問題です。
 イスラエルの人口を数えれば税収の見通しが立てられる。それで数の力、富の力を頼るようになってしまってはいけません。
 今日の本文からダビデが剣を取りうる男子の数を数えさせたことがわかります。つまりダビデはイスラエルの戦力を知ろうとして人口調査をしたのです。
 イスラエルにはどれほどの戦力があるのか。エジプトやユーフラテスの向こうの国々と戦う力はあるのか。
 神様ではなく、人間の力、武力を頼ろうとしています。
 神はそれを罪とみなしました。

罪を犯すのは人間の選択

 1節を見ると、イスラエルの人口を数えるようにサタンがダビデを誘ったとあります。
 出ました、サタン。
 人間が初めに罪を犯したときにはヘビがエバを誘いました。
 ああ、人は誘われたから仕方なく罪を犯してしまったのだ。サタンがダビデを誘惑したから、仕方なく人口調査をしてしまったのだ。これはサタンのせいだ。
 このように言ってはいけません。
 確かにエバもダビデも誘われました。しかし罪を犯すかどうかは人間の選択です。
 サムエル記に、ダビデがサウル王を暗殺するチャンスを得たときのことが記録されています。
 自分の命を狙っていた敵に復讐するチャンスです。こっそり近づいて刺し殺せます。
 しかしダビデはそうしませんでした。主に油を注がれた王に反逆することは罪だとダビデは考えました。
 ダビデにとってはチャンスのように見えました。しかしダビデはその誘惑を退け、罪を犯すことをしませんでした。
 誘惑はやってきます。しかし誘惑を退けることもできます。
 ヘビやサタンが誘惑したとしても、罪を犯すのは人間自身の選択なのです。

 私たちの人生にも誘惑がやってきます。
 みんなが石を投げている。じゃあ私も投げよう。
 赤信号みんなで渡れば恐くない。
 みんながやっているという数の力を頼りに、間違った道へと進んでしまいます。
 周りのみんながやっているから仕方がないということはありません。
 みんながやっているからと理由をつけて、安心して罪を犯すのです。

罪ではなく神の言葉を選び取る

 イエス様も悪魔の誘惑にあいました。
 しかしイエス様は罪を選ぶことはしませんでした。神の言葉を選び取りました。
 聖書の言葉を引用しながら悪魔の誘惑を退けました。
 自分を神のようにしてしまったり、神の言葉を曲げてしまったり、神ではないものを頼ろうとしたりする誘惑は私たちにも繰り返しやってきます。
 そのとき私たちは神の言葉を正しく受け取ることを選び取っていきたいです。

安心できるときこそ注意が必要

 ダビデがイスラエルの人口を数えようとしたのは、安定していたときでした。
 戦争の危機があって戦力を把握する必要があったというわけではありません。
 外側の敵はほぼなくなりました。安心して暮らせます。
 実はこのような安心できるときこそ注意が必要です。
 魔が差すという言葉があります。油断しているときに誘惑が突如やって来ます。気づかないうちに毒矢を撃たれてしまいます。

 今は緊急事態宣言も明けて教会で礼拝できるようになりました。
 「ああ、よかった。これで安心して信仰生活を送れる」と思うかもしれません。
 そのような時こそ危険です。
 現代の日本で信仰を理由に迫害されることもほとんどありません。
 だからこそ聖書の言葉を忘れ、神様を頼ることを忘れてしまいやすくなります。
 安心できる今こそ神様の言葉を頼る。それが罪の誘惑を退ける守りになります。

主の慈悲は大きい

 ダビデは自分の過ちに気づきました。
 「わたしはこのようなことを行って重い罪を犯しました。どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」
 悔い改めの第1段階は自分の罪に気づくことです。罪を認めないと悔い改める必要すら感じないですから。

罪に対する神の怒り

 ただ罪に気づくだけでは、神の裁きは取り消されません。
 自分の罪を認めたダビデに神は先見者ガドを遣わして言わせました。
 「飢饉に苦しむことか、敵に剣で殺されることか、疫病で死ぬことか、3つの中から1つを選びなさい。」
 罪を認めても、その罪に対する神の怒りは燃え上がります。
 正義の神ですから、間違ったことをした者にはふさわしい罰を与えます。

罪の影響で誰かが苦しむ

 それにしてもこの罰は重すぎます。
 罪を犯したのはダビデです。しかしイスラエルの国中に問題が起こります。
 長いものは3年。短くても3日間。
 ダビデは3日間の疫病を選びましたが、その結果7万人が倒れてしまいました。
 ダビデ1人の罪で、3日間で7万人が死んでしまう。大惨事です。
 罰が重すぎる感じはしますが、これがダビデの責任です。
 王の責任です。王が罪を犯した結果、国民が苦しむことになります。

 罪は本人の問題であり、その罰は本人が受けなければなりません。
 しかしその影響は周りに被害を与えます。
 誰かを誹謗中傷する。誰かに石を投げる。
 その人の罪です。しかし投げられた石は他の人に向かいます。
 誰かの罪によって他の人が苦しめられ、命を落とすのです。
 罪は本当に恐ろしいものです。
 若い頃は「私の人生だから関係ない。何をしたって私の自由。」と思うかもしれません。
 そうではありません。道を踏み外したその生き方によって、自分だけでなく周りの人も苦しめてしまいます。
 罪を軽く見てはいけません。
 罪の誘惑は避けるのが一番です。

怒りのうちにも憐れみを忘れない

 ダビデは3日間の疫病を選びました。その理由をこう言っています。
 「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」
 この疫病は神様ご自身が下す主の剣。神様の罪に対する怒りは激しい。
 しかしその怒りの中にも、神様の慈しみや憐れみが大きく存在している。
 ダビデはそのことを知っていました。

主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ/数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。

ハバクク書3:2

 神様の御業は畏れを抱くほどに力強いものです。
 神様の怒りの中でも大きな憐れみがあり、そこから助け出し回復させてくれます。
 神様は怒りのうちにも憐れみを忘れません。

 罪は恐ろしいものです。しかし私たちに対する罪の裁きはイエス様が既に十字架で背負ってくださっています。
 私たちもダビデのように罪を犯します。それでもダビデのように飢饉か剣か疫病か選べと言われることはありません。
 繰り返し罪を犯す私たちは神様から死刑を宣告されてもおかしくありません。それなのに私たちは神から義と認められています。
 キリストが私たちの罪のために十字架で死なれたからです。
 すべての人の過去、現在、未来の罪までキリストが完全に永遠に償いを成し遂げています。
 正義の神は罪を放っておきません。人の罪のためにキリストは血を流し、死にました。
 しかし神は怒りのうちにも憐れみを忘れません。キリストは死んで3日後に復活しました。

悔い改め

 悔い改めはまず罪を認めるところから始まります。
 次にキリストがその罪のために十字架で死んだことを知ります。
 そしてこの十字架が私のためであったと認めて神様に立ち返る。
 こうして新しく造られた人として歩み出すことが悔い改めです。

罪を繰り返してはならない

 人間は本当に残酷なものです。私たちの言葉によって何人もの人を傷つけ殺してしまいます。
 一回言ってしまった言葉は取り消されません。
 謝れば赦してもらえるかもしれません。表面的には仲直りできます。
 しかし心は元通りになりません。

 1枚のきれいな紙を用意します。
 悪口を言うたびにこの紙をくしゃっと握ります。
 「ばか」くしゃっ、「あほ」くしゃっ、「お前なんかいなくなればいい」くしゃっ。
 紙はくしゃくしゃに丸まってしまいました。
 次に謝りながら紙を開いていきます。
 「ごめんね。言い過ぎた。ゆるして。」仲直りして、関係は元通り。
 では紙は元通りになりましたか。
 しわくちゃなままです。
 人間の心も同じです。ひどい言葉によって傷つけられ、私たちの罪の影響で被害を受けた心は元通りになりません。
 神の怒りのうちにも憐れみがあるからといって、罪を犯し続けてはいけないのです。
 周りのみんなが石を投げていても流されてはいけません。
 人を傷つける言葉、その存在や自由を否定する言葉を使ってはいけないのです。

きれいな紙
しわくちゃになった紙

神の愛を語る者に造りかえられる

 しわくちゃになった紙をきれいな紙にするにはどうしたらいいですか。
 新しく作り直すしかありません。
 罪によって傷つけられ壊れた人間を新しく作り直すことができるのは、神の愛しかありません。
 だから私たちのこの口は人を造り上げる言葉、神の愛を語るものとしていきたいです。

 罪の誘惑が繰り返し襲ってきます。神の言葉に立ち返り、神の愛を伝え続けるものとさせていただきましょう。

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