エゼキエル書講解27
置かれた場所で咲く
エゼキエル書 17:3-10, 22-24
3 あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。大きな翼と長い羽をもち/彩り豊かな羽毛に覆われた大鷲が/レバノンに飛来する。その鷲はレバノン杉の梢を切り取り 4 その頂の若い枝を折って/商業の地に運び、商人の町に置いた。5 また、その地の種を取って苗床に蒔き/苗を豊かな水のほとりに柳のように植えた。6 やがてそれは育ち/低く生い茂るぶどうの木となった。その枝は鷲の方に向かって伸び/根はその鷲の下に張り/若枝を広げ、つるの伸びたぶどうの木となった。7 また、もう一羽の大鷲がいた。これも大きな翼と多くの羽毛を持っていた。このぶどうの木は/その植えられていた場所から/根をこの鷲の方に向け/若枝をこの鷲の方に伸ばして/水を得ようとした。8 このぶどうの木は/枝を伸ばし、実を結ぶ/立派なぶどうの木となるように/水の豊かなよい地に植えられていた。9 語れ。主なる神はこう言われる。このぶどうの木は成長するだろうか。その根は引き抜かれ/実はもぎ取られないだろうか。芽生えた葉はすべてしおれてしまわないだろうか。それはしおれてしまう。それを根から引き抜くのに/大きな力も、多くの人も必要としない。10 それは植えられはしたが/果たして成長するだろうか。東風が吹きつけたなら/しおれてしまわないだろうか。その芽を出した場所で、しおれるであろう。
22 主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。23 イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。24 そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。
置かれた場所で咲きなさい
岡山市にあるノートルダム清心学園の理事長を務め、2016年に召天された渡辺和子さんというカトリックのシスターがいました。
彼女は陸軍の将校の娘として生まれました。9歳のとき、2・26事件というクーデター未遂が起こります。目の前で父が殺されるのを見ました。
カトリックのミッションスクールに入学し、18歳のときに洗礼を受けます。そして29歳で修道院に入りました。
修道院の命令でアメリカで学んだ後、修道院の命令で岡山に派遣され、ノートルダム清心女子大学の教授になります。
翌年、学長が急に亡くなったため、渡辺和子さんが学長を引き継ぐことになりました。36歳でした。
見知らぬ土地での生活、慣れない仕事、急に背負わされた大きな責任に押しつぶされそうになります。
また周囲の人々の反応にも悩まされます。学長である自分に挨拶すらしない学生たちに腹を立て、若くしてこんなに苦労している自分のことを誰も理解してくれないと悩みました。
自分が置かれた環境に不平不満を言い、周りの反応によって幸せになったり不幸せになったりする毎日でした。
そんなある日、一人の宣教師が詩を贈ってくれました。それはこのような詩でした。
「置かれたところで咲きなさい。 咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。 それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、 神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」
環境の奴隷になるのではなく、自分が環境の主人になる。むしろ自分から暗闇へ光を届けていく。それが神の栄光となる。
渡辺和子さんはこの「置かれた場所で咲く」生き方を心に刻み、学生たちに教えてきました。
私たちは置かれた場所が暗いとき、暗いことを嘆きながら誰かが光を届けてくれるのを待つだけでしょうか。
それとも自ら花を咲かせ、光を届ける者でしょうか。
2羽の鷲とぶどうの木
今日の本文は2羽の鷲とぶどうの木のたとえです。
1羽の大鷲がレバノン杉を切り、商人の町に移します。そして水の豊かな所にぶどうの木を植えました。ぶどうの木は鷲の方に根を伸ばし、すくすく育ちます。
しかしぶどうの木はもう1羽の鷲の方にも根を伸ばしました。ぶどうを植えた鷲はぶどうの根を引き抜いてしまいます。
その後、主はイスラエルの山にレバノン杉を植えます。それは大きくなり、翼のあるものはすべてその下に住むようになりました。
これはバビロンとエジプトという大国の間で揺れるユダの状況を表しています。ユダはバビロンに攻められ困難な状況にありましたが、それは主が与えてくださったものでした。
しかしユダは主を信頼せず、エジプトを頼ります。その結果、ユダは滅ぼされることになります。
主は一つの若枝をイスラエルに植え、本当の王は誰かを示します。
鷲に植えられたぶどうの木
まず今日の本文の3節から6節で『3 あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。大きな翼と長い羽をもち/彩り豊かな羽毛に覆われた大鷲が/レバノンに飛来する。その鷲はレバノン杉の梢を切り取り4 その頂の若い枝を折って/商業の地に運び、商人の町に置いた。5 また、その地の種を取って苗床に蒔き/苗を豊かな水のほとりに柳のように植えた。6 やがてそれは育ち/低く生い茂るぶどうの木となった。その枝は鷲の方に向かって伸び/根はその鷲の下に張り/若枝を広げ、つるの伸びたぶどうの木となった。』 とあります。
私たちは今、主の平和の計画の中でここにいます。
大鷲
大きな翼と長い羽をもち彩り豊かな羽毛に覆われた大鷲がレバノンに来ます。
鷲は優雅に翼を広げて空を舞う鳥の王者のような存在です。獲物を見つけると鋭い爪で素早く捕えます。
これはバビロンのネブカドネザル大王のことです。
バビロンも次々に周りの国々を征服していきました。ついにアッシリアを滅ぼし、パレスチナ地方にも攻め込んできました。
この大鷲はレバノン杉の若枝を商人の町に置きます。
レバノン杉は上質な木材になる木で、神殿や王宮にも使われていました。
商人の町とはバビロンのことです。
第2次バビロン捕囚のとき、ユダの王ヨヤキンはバビロンに捕らえられていきました。
エゼキエルもヨヤキンたちと共にバビロンに連れて来られています。エゼキエルの活動はその5年後からで、この預言はそのような時代に語られたものでした。
ぶどうの木
大鷲はレバノンの地にある種を取り、植えました。そして育った苗を豊かな水のほとりに植えました。苗は育ち、低く生い茂るぶどうの木となりました。大鷲の方へ枝を伸ばし、根を伸ばして成長していきます。
バビロンはユダを滅ぼし尽すことはしませんでした。ヨヤキンを捕囚にした後、ゼデキヤを選んで王に任命しました。
高く立派なレバノン杉に比べて、ぶどうの木は低く、弱いです。
ゼデキヤ王の権力は制限されています。
それでもバビロンの属国として、イスラエル人自らがユダを治めることを認めていました。
バビロンに従うことで、彼らには生きる道が開かれていたのです。
水のほとりに植えられた
ユダの国民にとってこの状況は屈辱的なものでした。
ゼデキヤ王は先代の王から任命されたわけでも、国民の支持を得たわけでもなく、異邦人の手で立てられた王でした。
まだ滅ぼされたわけではないとはいえ、異邦人に服従しなければならないというのは選民イスラエルにとって受け入れがたいものでした。
私たちは自分が置かれた環境に不平不満を持ちます。
この会社はブラックだ。こんな地方の学校にいては将来の希望がない。この国は腐っている。こんな暗くて寒い家にいたら病気になる。私がこんなに不幸なのは、この環境のせいだ。
あるいは人のせいにします。上司が無能だから。部下がちゃんと働かないから。学校の先生の教え方が悪い。友だちが邪魔するから勉強ができない。まともな政治家がいないから。親の育て方が悪い。私がこんなに惨めなのは、こいつらのせいだ。
本当にそうでしょうか。
私たちは大鷲に捕まえられるように、自分ではどうしようもない状況に置かれることがあります。他の人から受ける影響も多くあります。
しかし私たちの人生を本当に左右するのはそのような外側の問題ではありません。
ぶどうの木は大鷲によって植えられました。そこで生い茂っていきます。それは豊かな水のほとりに植えられたからでした。実を結ぶ立派なぶどうの木になるようにそこに植えられたのです。
アカシアという木があります。
荒野や砂漠に生える木です。ほとんど雨が降らないのに、一年中緑の葉を茂らせています。
それはアカシアが地下深くまで根を伸ばすからです。
地下を流れる水脈につながっているので、環境や状況によらず命に満ち溢れています。
私たちも心の深い所でいつも主につながっているなら、枯れることのない命の水が私たちを生かします。
主はこの時代のこの場所に私たちを置きました。
それは私たちが豊かに生き、実を結ぶためです。
主につながるとき、実を結びます。
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
エレミヤ書29:11
私たちに平和の計画を持つ主につながるのです。
他の鷲を求める
また今日の本文の7節から10節に『7 また、もう一羽の大鷲がいた。これも大きな翼と多くの羽毛を持っていた。このぶどうの木は/その植えられていた場所から/根をこの鷲の方に向け/若枝をこの鷲の方に伸ばして/水を得ようとした。8 このぶどうの木は/枝を伸ばし、実を結ぶ/立派なぶどうの木となるように/水の豊かなよい地に植えられていた。9 語れ。主なる神はこう言われる。このぶどうの木は成長するだろうか。その根は引き抜かれ/実はもぎ取られないだろうか。芽生えた葉はすべてしおれてしまわないだろうか。それはしおれてしまう。それを根から引き抜くのに/大きな力も、多くの人も必要としない。10 それは植えられはしたが/果たして成長するだろうか。東風が吹きつけたなら/しおれてしまわないだろうか。その芽を出した場所で、しおれるであろう。』 とあります。
私たちは環境を選べなくても、誰が王かを選ぶことはできます。
この世の力を頼る
ぶどうの木は大鷲の方に枝を伸ばし、根を伸ばして成長しました。
そこでもう一羽、別の大鷲がいることに気付きます。それでこの別の大鷲の方にも枝を伸ばし、根を伸ばしました。
別の大鷲に頼れば、もっと豊かに生きられると思ったのでしょう。
もう一羽の大鷲はエジプトのファラオのことです。
かつてエジプトは世界を治める大きな国でした。もしバビロンに対抗できる国があるとすれば、エジプトだろうと考えられます。
バビロンによって立てられたゼデキヤ王は密かにエジプトに使者を送っていました。エジプトを頼り、バビロンの支配から抜け出そうと思ったのです。
引き抜かれる
その様子を見ていた大鷲は、自分の足下に伸びていたぶどうの根を引き抜いてしまいます。
根が引き抜かれてしまえば木は枯れてしまいます。
さらに東風が吹きつけます。これは東のアラビア砂漠から吹き付ける熱風です。たった一夜で植物が枯れてしまうほど熱い風が吹きます。
ゼデキヤ王がエジプトに援軍を求めていたことを知ったネブカドネザル大王は大軍を率いてエルサレムを包囲し、滅ぼし尽してしまいます。
激しい東風のように、エルサレムは徹底的に破壊され、神殿も火で焼かれてしまいます。
その時エジプトは、一人の兵も送ってはくれませんでした。
実際にはエジプトもかつての力を失っていて、バビロンに対抗する力は残っていませんでした。ゼデキヤ王は力がないものを頼っていたのです。
助けはどこから来るのか
私たちはこの世の何かの力で幸せが得られると考えます。富や社会的な地位、人々からの評価。
しかし世の中で成功しているように見える人も、心に虚しさがあります。
先週の水曜日、日本の有名なアイドルグループのメンバーが未成年への強制わいせつ容疑で書類送検されていたことがわかりました。
テレビなどでは誠実なキャラクターとして通っていました。しかし実際には飲酒が原因で入院しなければならないほどのアルコール中毒だったそうです。
カメラの前では誠実な人間。しかし実際の姿はアル中という二重生活でした。仕事場と病院を行ったり来たりする生活を1か月ほど送っていたそうです。
そして退院した当日、再び酒を飲み、今回の事件を起こしたと報道されています。
富もあり、社会的にも成功しており、人々からも好意的に見られていた彼が、なぜアルコールにつからなければ生きていけなかったのか。なぜ未成年の少女にそんなひどいことをしなければならなかったのか。
彼自身がした罪は当然大きいですが、この社会全体の抱える大きな問題を感じさせる事件でした。
私たちの助けはどこから来るのでしょうか。
富でも地位でもありません。他の人でもありません。
ソフトバンクホークスのサファテ投手はメジャーリーグで活躍していたとき、人々が憧れるすべてを持っていました。子どもの頃の夢だったメジャーリーガーになり、大金を稼ぎ、大豪邸に高級車、美しい奥さんにかわいい子供がいました。
しかしどこか虚しさがありました。広島東洋カープに来て数ヶ月たった時、心にどうしようもない思いが湧いてきました。
このままではいけない。そこでひざまずき、イエス・キリストに助けを求めました。
それから彼は野球を通してイエス・キリストを証しする人生に変えられます。
1 【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
詩編121:1-2
誰が王なのか。
自分が王になってはいけません。この世の誰にも支配されてはいけません。
イエスを王とするのです。
私たちの助けは主から来ます。
鳥が集まるレバノン杉
最後に今日の本文の22節から24節で『22 主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。23 イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。24 そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。』 とあります。
私たちが置かれた場所でイエスを王とするとき、この地に神の国が臨みます。
イスラエルに植えられる若枝
主はレバノン杉の若枝を取ってイスラエルの高い山に植えると言います。
3節でレバノン杉はユダの正統な王を象徴していました。
高い山はどこでしょうか。エルサレムがあるシオンの丘は標高ではそれほど高くありませんが、イスラエルの民にとって重要度の高い山でした。
若枝はイエス・キリストを象徴します。エッサイの切り株から若枝が萌え出でるというキリストについての預言があります。
この若枝は大きく成長し、うっそうとしたレバノン杉になります。
主がイスラエルの王座を建て直すことを約束します。
そして全地に散らされた人々はシオンに帰って来るのです。
すべて翼のあるもの
主が植えたレバノン杉のもとに、あらゆる鳥、翼あるすべてのものが集まって来ます。
どんな鳥が来るのでしょうか。
その中には鷲も含まれます。
イエス・キリストは全ての支配、権威、勢力、主権の上に立つ王の王、主の主なのです。
枯れ木を茂らせる方
そのとき野の木々は主が高い木を低くし、低い木を高くし、生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる方であることを知ります。
枯れたぶどうの木にも命を与えます。
私たちが主につながって生きるとき、私たちの周りの人々も主のもとに来て憩うようになります。
職場、学校、家庭、地域に神の国が臨みます。
皆さんはどのような場所に置かれたいと願いますか?
アッシジのフランシスコの祈りとして伝えられている祈祷文があります。
『主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。 憎しみのある所に、愛を置かせてください。 侮辱のある所に、許しを置かせてください。 分裂のある所に、和合を置かせてください。 誤りのある所に、真実を置かせてください。 疑いのある所に、信頼を置かせてください。 絶望のある所に、希望を置かせてください。 闇のある所に、あなたの光を置かせてください。 悲しみのある所に、喜びを置かせてください。 主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。 なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。』(平和の祈り)
私たちの人生の中心に主が共にいます。
環境や状況を越えた主の平安が臨むように、私たちは用いられていきます。
主が私たちをこの地に遣わしました。
イエスを王とするとき、私たちは置かれた場所で花を咲かせます。そこから神様の栄光が現わされていきます。