使徒言行録講解60
群れ全体にも配慮する
使徒言行録20:28-35
28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。29 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。31 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
リーダーは全体に配慮しなければならない
一昨日、安倍総理が辞意を表明しました。持病が再発したということで、治療に専念していただいて回復されるよう祈りたいと思います。
7年8ヵ月という長期政権を築き上げ、今までの日本の総理大臣の中で最も長い期間、連続して総理大臣を務めました。
色々と評価できるところがあります。そのプラスの面を見て、多くの方が支持したのだと思います。
しかし多くの人の支持を集めたことで、何でもできる、何をしてもいいという慢心があったかもしれません。
お友だちをひいきしていたのではないかという疑惑が残っています。
リーダーはチーム全体に配慮しなければなりません。お友だちとばかり仲よくしてはいけません。そうでなければ、弱い人々は切り捨てられていってしまいます。
パウロから長老たちへの助言
今日の本文はパウロがエフェソの長老たちに語った別れの挨拶の後半部分です。前半部分ではパウロ自身のことを模範として語りました。後半では長老たちに、このように生きなさいという助言をしています。
愛は他者に向かってあふれ流れていく
先週は、福音のためなら命すら惜しくないという主題でメッセージが語られました。その中で誰かのためにささげること、誰かを助けるために立ち上がること、安全な場所から一歩踏み出すことを語りました。
2つは誰かとの関りを話しています。3つ目も、ある人にとっては他者との関わりを意味しているかもしれません。
私たちが福音に生きるとき、他者との関わりは避けられません。
私たちにキリストの愛が注がれ、その愛に駆り立てられます。その愛は他の人に向かってあふれ流れていくからです。
パウロは長老たちへの助言として、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と言っています。
自分自身に気を配るのも大事だし、群れ全体にも気を配りなさいと。
群れというのは教会のことです。教会は羊の群れのように描かれることがあります。その羊の群れを世話する役目が長老たちに任されているわけです。
ではこれは長老だけに語られていることなのでしょうか。
私は長老ではないから、今日の個所は関係ない。今日はエウティコのように寝よう。寝るのも祝福だ。ということでしょうか。
いいえ、これは福音に生きることを語っています。
長老という職分に任命された人だけではなく、私たちクリスチャン一人一人に語られている神の言葉として受け取ってください。
兄弟姉妹の信仰の状態に気を配る
群れ全体に気を配るとはどういうことでしょうか。
たとえば兄弟姉妹の信仰の状態に気を配るということです。
パウロは、自分が去った後に残忍な狼どもが入り込んできて群れを荒らすと言っています。
これは偽使徒のような人が来て、間違ったことを教えるということです。
また長老たちの中からも間違ったことを教えて弟子たちを従わせようとする者が現れると警告しています。
実際、エフェソには異端の教えが入ってきました。
この残忍な狼から群れを守る必要があります。
群れから外れている羊はいないか、弱まっている羊はいないか、まだ幼い羊は大丈夫かと気を配るのです。
オンライン礼拝が続いていて、顔を合わせる機会が減っています。だからこそ、互いに連絡を取ってください。
しばらく顔を見ていないあの兄弟姉妹は大丈夫かな?連絡する内容は何でもいいです。暑いけど元気?とかでいいです。
弱まっている羊を見抜くにはある程度の経験が必要になりますが、礼拝、祈り、聖書から離れていると弱くなります。当然です。栄養を取っていないのだから。
まず自分自身に気を配ってください。礼拝に集中して参加できているか。祈りの時を持っているか。聖書を読んでいるか。
それから兄弟姉妹のために祈ることを忘れないでください。
また思い煩いが多くなると弱くなります。仕事が忙しいとか、悩みを抱えている兄弟姉妹を見かけたら特に気を配ってください。
そして幼い羊への配慮も大事です。子どもたち、若者たち、信仰に入ったばかりの人たちを皆で守り、育てていきたいです。
信仰の状態に気を配るというと荷が重い感じがするかもしれませんが、最終的に羊を守るのは主ご自身です。
羊飼いであるイエス様が私たちと共にいます。
教会はイエス様の十字架の血によってあがなわれ、神のものとされた人たちの集まりです。
だからパウロは、神とその恵みの言葉に群れを委ねました。
私たちも御言葉と祈りを大事にして、主に養っていただきましょう。
この群れ全体に気を配って、神の支配の下に守られるように。
イエス様は約束しています。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
ルカによる福音書12:32
行き場を失った愛は冷え固まる
実際に異端の教えが入ってくるとしたら、教会はどうしたらいいでしょうか。
外から変な情報を聞かないように、教会の外との関りを禁止すればいいですね。また内部から変な教えが出たときのために、牧師の知らないところで集まったり、連絡を取ったりすることを禁止すればいいです。簡単なことです。
クリスチャンでない人と仲よくしてはいけない。テレビもインターネットも禁止。牧師が認めた本しか読んではいけない。互いに連絡先を交換してはならない。
もし牧師がこんなことを言い出したら、その牧師がすでに間違った教えにやられてます。
これはかなり極端な例ですが、異端との戦いが起こると多少そういう対応を教会が取ることがあります。
異端の中には、聖書にものすごく詳しい人たちもいます。彼らの聖書理解が間違っているとしても、信仰が曖昧な人は魅力を感じてしまうかもしれません。
また教会の中に工作員を送り込む異端もあります。熱心なクリスチャンのふりをして教会に入り込み、信用を得て、役員になり、牧師を追い出し、教会を乗っ取るのです。怖いでしょ。
SNSで近づいてくる異端もあります。クリスチャンのふりをして友だちになり、異端のセミナーなどに誘います。
YouTubeで聖書の話や賛美歌を探すと、異端のチャンネルもたくさんあって驚かされます。
それで一番手っ取り早い対応が、情報や交わりを遮断するという方法です。
しかしこれでは、互いに愛し合うことができなくなります。
行き場を失った愛は、やがて冷めていきます。
エフェソ教会にもそのような問題がありました。
異端との戦いの中で偽使徒のうそを見抜くなど、労苦し忍耐しました。
そんなエフェソ教会に対して、イエス様は黙示録の中でこう言います。
しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。
黙示録2:4
エフェソ教会は初めのころの愛から離れてしまったのです。
だからどこから落ちたかを思い起こし、その愛に立ち返らなければなりません。
イエス様の愛に立ち返る
私たちも信仰生活の中で、初めのころの愛を忘れてしまっていませんか?
信仰が自己中心的になり、他の人に気を配ることができない。
オンライン礼拝が続き、顔を合わせない人のことは忘れていく。
困っている人や貧しい人を自己責任だと切り捨てる。
病気の人に向かって、たとえその人がどんな人でも、いたわる言葉をかけられないとしたら、愛はどこに行ってしまったのでしょうか。
パウロは愛に駆り立てられ、愛に生きました。弱い人を助け、受けるより与える方が幸いだと言っています。
パウロは「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉をイエス様自身のことばとして紹介していますが、福音書には記録されていません。
でも確かにイエス様はそのように生きました。仕えられる者ではなく仕える者になりました。自分の富を蓄えるのではなく、貧しい人のためにささげることを教えました。
イエス様から注がれている愛に、立ち返りましょう。
この愛を受け続けることで、その愛に駆り立てられ、群れ全体にも気を配って愛に生きる者になっていきます。