自ら進み神にささげよ

歴代誌講解30

自ら進み神にささげよ

歴代誌上 29:1-9

1 ダビデ王は全会衆を前にして言った。「わが子ソロモンを神はただ一人お選びになったが、まだ若くて力弱く、この工事は大きい。この宮は人のためではなく神なる主のためのものだからである。2 わたしは、わたしの神の神殿のために力を尽くして準備してきた。金のために金を、銀のために銀を、青銅のために青銅を、鉄のために鉄を、木材のために木材を、縞めのうの石、象眼用の飾り石、淡い色の石、色彩豊かな石などあらゆる種類の宝石と大量の大理石を調えた。3 更にわたしは、わたしの神の神殿に対するあつい思いのゆえに、わたし個人の財産である金銀を、聖所のために準備したこれらすべてに加えて、わたしの神の神殿のために寄贈する。4 建物の壁を覆うためにオフィル産の金を三千キカル、精錬された銀を七千キカル寄贈する。5 金は金製品のため、銀は銀製品のためであり、職人の手によるすべての作業に用いられる。今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。」6 すると、家系の長たち、イスラエル諸部族の部族長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の執務に携わる高官たちは、自ら進んで、7 神殿に奉仕するために金五千キカル一万ダリク、銀一万キカル、青銅一万八千キカル、鉄十万キカルを寄贈した。8 宝石を持つ者は、それをゲルション一族のエヒエルの手に託して主の神殿の宝物庫に寄贈した。9 民は彼らが自ら進んでささげたことを喜んだ。彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。

ボランティアとは

ゴミ拾いボランティアの女性

 2021年は東京オリンピック・パラリンピックが開催されました。世界中から集まったアスリートたちの活躍を見ることができました。
 その活躍の舞台は、多数のボランティアに支えられていました。大会の運営を担う大会ボランティアには7万970人、会場周辺で活動した都市ボランティアには約1万7000人が参加したそうです。ボランティアの存在なしに大会は運営できなかったでしょう。
 それほど重要なボランティアなのに、扱いがひどいのではないかと問題になりました。報酬なし、宿泊費交通費も自己負担で募集をかけていたからです。
 ボランティアなのだから報酬がないのは当然ではないかと思う人もいるかもしれません。
 日本ではボランティアというと報酬をもらわずに活動する人のことをイメージされることがありますが、ボランティアにそのような意味はありません。
 ボランティアの語源はラテン語のウォルンターテ。「自ら進んで」という意味です。
 そこから、十字軍に自ら進んで参加した志願兵がvolunteerと呼ばれるようになりました。
 だからボランティアというのは「自ら進んで(公共性のある)活動に参加する人」のことで、タダで働かせられる都合のいい人材ではありません。
 報酬なしという条件で自ら進んで参加するなら、何も文句は言えないとも思いますが。

自らの意思で選び取る

 今日の本文はダビデが神殿建築のボランティアを募集する場面です。
 ダビデが願った神殿建築のビジョンは、神の指名によりソロモンに引き継がれることになりました。
 このビジョンはダビデ親子だけの仕事ではなく、イスラエルの民全体に関わる国家事業です。神殿はダビデ親子のために建てるのではなく、神のためのものだからです。
 それでダビデはイスラエル王国としてできる限りの準備を進めてきました。ほとんどの材料は国の資産の中から調達しました。
 ダビデはその上で、個人の財産から最上級の金銀をささげました。その動機は、神殿に対するあつい思いです。
 そしてダビデは「今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。」と呼びかけました。

自ら進んで

 この「自ら進んで」というのがポイントです。
 ダビデは国家事業である神殿建築の準備を、すべて国として準備してもよかったはずです。国民の助けが必要なら税金を課してもよかったでしょう。
 しかしダビデは自ら進んで金銀をささげ、民に協力を呼びかけました。
 これはモーセの幕屋建設の出来事を模範にしたのかもしれません。

神が募集した幕屋建設ボランティア

 出エジプト記35章4節から36章7節を見ると、神が幕屋建設のボランティアを募集しています。
 必要な資材と職人を募集しました。すると心を動かされた人たちが続々と集まってきました。

心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。

出エジプト記35:21

 十分すぎるほど集まったので、もう持ってこなくていいと命令を出さなければいけないほどでした。
 聖所の銀は一人あたり半シェケルと律法で決まっていました。資材も律法で定めればよさそうです。
 しかし神は、自ら進んでささげることを求めました。

人は自らの意思で神に背くことを選び取った

 神は人間に自由意思を与えました。与えてしまいました。人は自らの意思で神に従うことができました。また、自らの意思で神に背くことができます。
 人が罪を犯したのは、神のシナリオに踊らされていたわけでも、蛇に縛り付けられて木の実を食べさせられたわけでもありません。
 自らの意思で、神に背くことを選び取り、善悪を知る木の実を食べました。

自由に選び取れる愛の関係

 神はなぜ人間に自由意思を与えてしまったのでしょうか。
 言い換えると、なぜ神に背く自由を与えてしまったのでしょうか。
 それは、神は愛だからです。
 愛には自由があります。
 「はい」と言う自由であり「いいえ」と言う自由です。

 愛する人からデートに誘われました。
 「今から富士山に行かないか。」
 あなたは相手を愛しているので、すべてを受け入れて「はい」と言いますか。
 いや、無理でしょう。「富士山なめんな」と言ってあげてください。

 「いいえ」と言って壊れる関係なら、それは愛ではありません。
 従うのも自由だし、背くのも自由。その中で自ら進んで従うことを選び取る。
 そのような愛の関係を神は求めています。

自由にされたから自ら進んでささげられる

 奴隷にこの自由はありません。エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの民は、国のために財産も労力も強制的に使われていました。
 そこから救い出された民は、自由な神の民になりました。
 この自由の中で自ら進んでささげることに喜びを感じたことでしょう。

キリストにより与えられた自由をどう使うか

 私たちは罪の奴隷でした。神に背く道しかありませんでした。
 イエス・キリストの十字架の血潮であがなわれた私たちは、自由な神の子になりました。
 私たちには神に従う自由も背く自由もあります。
 この自由をどのように用いますか。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

ガラテヤの信徒への手紙5:13

 自ら進んで愛に生きる人生を選び取ってみませんか。

自分の人生を生きる

 ダビデの呼びかけに対し、民のリーダーたちが自ら進んでささげました。
 ダビデ王も民も、これを見て大いに喜びました。
 ささげる喜びがあります。
 同じ金額を支払っても、税金として取られるのと自ら進んでささげるのとでは感じ方が全く違います。

人生を神にささげる喜び

 このささげるという表現は、祭司の任命のときにも使われる表現でした。
 神に仕えるという生き方も、自ら進んで行うときに喜びがあります。

自らの意思を大切にしたバルティマイの信仰

カール・ブロッホ「盲人の癒し」

 イエス様がエルサレムに向かっていたときのことです。
 イエス様はエルサレムで苦しみを受け十字架で死んで復活すると、3回も予告していました。そしてついにエリコの町を通過し、エルサレムへの道を進んでいきました。
 そのイエス様を呼び止める人がいました。目が見えず物乞いをしていたバルティマイです。
 イエス様が通過したと聞いた彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。
 多くの人々が叱りつけ、黙らせようとしました。それでも彼は叫び続けます。
 するとイエス様はエルサレムへの歩みを止め、彼を呼びました。
 そして「何をしてほしいのか」と聞きます。
 バルティマイは「目が見えるようになりたいのです」と答えました。

 バルティマイには自らの意思がありました。目が見えるようになりたいという強く明確な意思です。
 彼はそれを求めて叫びました。周りの人がやめさせようとしても、彼の意思は揺るぎません。
 イエス様は、彼に何が必要か知っていたでしょう。しかしあえて自分の口で言わせます。「私は目が見えるようになりたいのだ」と。
 イエス様は彼に「行きなさい」と言いました。そのとき彼はすぐ見えるようになりました。
 イエス様に「行きなさい」と言われた彼はどこに行ったでしょう。イエス様の言ったことに従い、家に帰ったでしょうか。
 彼はイエス様の言ったことに従いませんでした。彼は逆にイエス様の行く道に従ったのです。

 それまで物乞いとしてうずくまっていたバルティマイは、初めて自らの意思で行動したかもしれません。
 そのとき彼は喜びにあふれました。
 彼の行動はイエス様の歩みを止め、イエス様の言葉に背きました。
 それでもイエス様は彼の信仰を喜んだことでしょう。
 それは紛れもなく、イエス様への愛の表現だったからです。

あなたの人生はあなたのもの

 あなたの人生はあなたのものです。
 罪の奴隷とされていたあなたを自由にするために、キリストが十字架で死にました。だからもう二度と「奴隷の軛につながれてはいけません」とパウロは言います。
 自分の意思を大事にしてください。何が好きなのか。嫌いなのか。何をしたいのか。したくないのか。どうなりたいのか。なりたくないのか。
 周りの人は「どうせ無理。現実を見ろ。」と諦めさせるかもしれません。
 助言を聞くことは大事です。しかし最終的に選ぶのは自分です。

 他人に依存してきた人たちもいるでしょう。「親が言ったから。先生が言ったから。社会がこうだから。」
 自分の人生を取り戻してください。
 他の人に依存して生きる人は、人生の責任を他の人や環境に置きます。
 自分の人生が上手くいかないのは、他の人のせい、病気のせい、社会のせい。
 確かに社会の問題はあるでしょう。しかし私たちには自由があります。
 自分の人生を生きるのです。

誰かのために奴隷になる自由さえある

 パウロはこうも言っています。

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。

コリントの信徒への手紙一9:19

 奴隷になるなと言ったパウロが奴隷になったと言っている。矛盾しているような言葉です。
 ここでの奴隷という表現は、誰かのために仕えるという意味です。
 福音のためなら、何でもできる自由がある。奴隷にさえなれる自由がある。
 パウロはその自由をもって、神に仕える人生、他の人を生かす人生を選び取りました。

自由をどう用いるか

 この自由をどう生かすかで、その人の信仰が見えます。
 献金や奉仕も、自ら進んでささげるようにお願いしています。だから献金しなくても、奉仕に参加しなくても自由です。
 しかし自分は本当に神を愛しているのかと、自分に問いかけてみてください。
 ダビデの場合、神へのあつい思いから最上級の金銀をささげました。参考までに。

2022年、どのような人生を歩みたいですか

 私たちは自由です。
 神に背く自由もあるし、自分中心に生きる自由もあります。
 自ら進んで神にささげる自由もあれば、他の人のために仕える自由もあります。
 もうすぐ2022年が始まろうとしています。新しい年、あなたはどのような人生を歩みたいですか。

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