若いうちに神を求める

歴代誌講解73

若いうちに神を求める

歴代誌下 33:21-34:7

33:21 アモンは二十二歳で王となり、二年間エルサレムで王位にあった。22 彼は父マナセが行ったように主の目に悪とされることを行い、父マナセが造ったすべての彫像にいけにえをささげ、それに仕えた。23 だがアモンは、父マナセがへりくだったようには、主の御前にへりくだることなく、罪悪を積み重ねた。24 彼の家臣たちは謀反を起こし、彼を宮殿で殺害した。25 しかし国の民は、アモン王に対して謀反を起こしたすべての者を討ち、その子ヨシヤをアモンの代わりに王とした。
34:1 ヨシヤは八歳で王となり、三十一年間エルサレムで王位にあった。2 彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道を歩み、右にも左にもそれなかった。3 その治世の第八年、彼がまだ若かったときに、父祖ダビデの神を求めることを始め、第十二年に聖なる高台、アシェラ像、彫像、鋳物の像を取り除き、ユダとエルサレムを清め始めた。4 人々は彼の前でバアルの祭壇を壊し、彼はその上にあった香炉台を切り倒した。彼はアシェラ像をはじめ、彫像、鋳物の像を粉々に打ち砕き、これらにいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。5 彼はまた祭司たちの骨をその祭壇の上で焼き、ユダとエルサレムを清めた。6 マナセ、エフライム、シメオン、更にナフタリにまで及ぶ地方の町々でも、その周りの荒れた地方でも、7 イスラエルの国中で彼は異教の祭壇やアシェラ像を取り壊し、偶像を打ち砕いて粉々にし、香炉台をすべて切り倒して、エルサレムに帰った。

子どもの人生を尊重する

 今日11月20日は何の日でしょう。
 カタールW杯の開幕日。
 そして国連が定めた世界こどもの日です。
 子どもも大人と同じく1人の人間として権利を持っています。大人の所有物などではありません。
 子どもは大人へと成長する途中にあり、保護や配慮が必要です。
 そのような子どもの権利への理解と福祉の向上が求められます。

 1989年には子どもの権利条約が採択されました。日本も批准しています。

ユニセフ 子どもの権利条約

 子どもの権利条約では18歳未満の人を子どもと定義し、すべての子どもの命が守られ成長できるよう支援を受けられること、その子にとって最も良いことが優先されること、自分の意見を自由に表現できること、どんな理由の差別も受けないことが認められています。
 このように子どもを守る社会にしていく必要があります。
 しかし現在世界では小学生の年齢の子ども5,900万人、11人に1人が学校に通えていません。3億5,600万人、6人に1人の子どもが極度の貧困状態にあります。7,900万人の子どもが危険な環境で働かされています。
 1人1人の子どもの人生が尊重されるようにならなければなりません。

子どもたちへの信仰教育

 今日の本文は南ユダ王国15代目アモン王と16代目ヨシヤ王の話です。

対称的なアモンとヨシヤ

 マナセの子アモンは22歳で王になりました。その治世はわずか2年で終わります。
 家臣たちによって暗殺されたのです。

 南ユダの民は王を殺した者たちを処刑すると、王子ヨシヤを王にしました。
 アモンは23~24歳で亡くなっています。その息子は当然幼いです。ヨシヤは8歳で王になりました。
 歴代誌にはヨシヤが10代20代に行ったことが記録されています。

 アモンもヨシヤも若者時代のことが記事になっています。
 その歩みは対称的です。アモンが主の御前にへりくだることなく罪悪を積み重ねたのに対し、ヨシヤは神を求めました。

父の悪い模範に従ったアモン

 アモンは父マナセと同じように主の目に悪とされることを行い、偶像崇拝をしました。
 マナセは南ユダ王国最悪の王でした。息子が父の影響を受けるのは仕方のないことです。
 しかしマナセはその晩年に回心しました。神の前にへりくだり偶像を捨てた父の姿も見ていたはずです。
 アモンはその姿を見習うことはありませんでした。父の悪い面を受け継ぎ、罪悪を積み重ねます。
 そこから見えるのはアモンの高慢な姿です。
 若い頃の父は預言者の言葉を無視し続け、処刑もしました。そして強敵アッシリアのアッシュールバニパル王に対抗し戦った強い王でした。アモン少年の目には、力強くかっこ良い姿に見えたことでしょう。
 それなのにバビロンに引いて行かれるとマナセは態度を変え、主に祈るようになりました。預言者の言葉にも従います。かつての父とは真逆です。軟弱な姿に見えたかもしれません。
 父が老衰し亡くなった後、若いアモンが王になります。
 かつての強い父の姿にあこがれ、神の言葉を無視し続けたことでしょう。

悪い模範の悪循環

 子どもがどのような環境で育つかというのは大事です。
 赤ちゃんや子どもは弱い存在です。一人では生きていけません。大人が少し目を離したすきに行方不明になったり、車の中で亡くなったり、転落したりする事故が相次いで本当に悲しいです。
 なので幼い子どもは身近な大人を無条件に信頼します。大人のすることを見習い、大人と同じ言葉を話し、大人と同じような価値観を持つようになります。
 模範になる大人は罪ある人間なので、悪い模範を見せてしまうことがよくあります。
 大人が社会のルールを破れば子どもも破ります。大人がうそをつけば子どももうそをつきます。大人が手を上げたり乱暴な言葉を使ったりするなら、子どももそうします。
 罪ある大人は子どもに悪い模範を示す。子どもがそれをマネする。その子が親になりまた悪い模範を示す。その悪循環に陥ります。

教育によって悪循環から抜け出す

 この悪循環から抜け出すために、子どもに教育が必要です。
 子どもの考える力を引き出し、知識を身に着け、自ら判断し選択し行動できるよう助けます。
 大人の悪い模範ではなく、良い模範に従うことができるようにします。教育を受けることで、大人の間違いを見抜けます。
 しかし間違いだらけの大人がどうして子どもに良い模範を示すことができるでしょうか。間違ったことをしている大人の教える言葉に説得力はありません。
 そこでパウロは「主がしつけ諭されるように、育てなさい」と教えています。
 最高の模範は天のお父さんです。

神の言葉を教え神の民として歩めるよう助ける

 天のお父さんは教育についてこう命じています。

6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

申命記6:6-9

 神の言葉を子どもに繰り返し教え、語り聞かせなさい。寝ているときもです。そして神の言葉を書いて体に結び付け、家にも掲げなさい。
 生活のいつどこでも神の言葉に聞き従えるようにします。
 不完全な人間の模範ではなく、天の父が示す神の民の生き方を歩めるように助けるのです。

教育によって父の悪い模範に従わなかったヨシヤ

 ヨシヤも8歳までは父アモン王の姿を見てきました。しかしヨシヤは主の目にかなう正しいことを行いました。
 それはまさに教育の結果でしょう。
 8歳で王の働きはできません。ですから誰かが摂政として支えます。おそらく大祭司ヒルキヤがそれを務めたのでしょう。
 かつてヨアシュも7歳で王になりましたが、大祭司ヨヤダがヨアシュを教育し、ヨヤダが生きている間は主の目にかなう正しいことを行うことができました。ヨヤダの教育の成果です。
 ヨヤダがしたように、ヒルキヤはダビデやヒゼキヤのような良い王の模範を教えました。そして律法を教え、王としてどのように歩むべきかを教えたのです。

信仰の先輩たちの生きざまが模範になる

 ヨヤダやヒルキヤのような信仰の先輩との出会いは人に大きな影響を与えます。
 預言者エリシャはエリヤに出会いました。エリヤが天に上げられるとき、エリシャはエリヤの2倍の霊を求めます。
 信仰の先輩と出会うことで、次の世代にさらに立派な信仰者を立てることもできます。
 私たちもそのような信仰の先輩たちに出会い、信仰を受け継いできたのではないでしょうか。それは信仰ある親かもしれないし、教会のリーダーかもしれません。
 私たちは信仰の先輩たちから信仰のバトンを受け継いできました。次は私たちが信仰の先輩になる番です。
 次の世代の若者たち、子どもたちに信仰の模範を示し、主がしつけ諭されるように育てるのです。

 先生のように教室で教えるだけが教育ではありません。
 申命記で主が命じた教育の現場は生活の中です。
 大人たちが生活の中でどう信仰に生きるかが一番の教育になります。大人たちが礼拝する姿、祈る姿、愛を実践する姿を若者や子どもが見ています。
 教会や家庭だけではなく、職場で、学校で、街中で実践する姿が世の人たちから見られています。
 もちろん信仰者だって間違えることはあります。たくさんあります。
 そのときへりくだって悔い改め、ごめんなさいと頭を下げる姿も、子どもたちに見せるべき良い模範です。

子どもたちに福音の種を蒔く

 イエス様は招きます。

しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」

マタイによる福音書19:14

 イエス様が子どもたちを尊重しています。
 天の国を受け継ぐ者の模範として子どもたちを立てました。
 私たちもイエス様にならい、子どもたちの人生を大切にしていきたいです。

 そしてイエス様が「子どもたちを来させなさい」と招いておられるのだから、私たちも子どもたちをイエス様のところへ招くお手伝いをするのです。
 一人でも多くの子どもたちに福音を伝えるのです。自分の息子や娘だけでなく、子どもたちの友だちにも。
 親でなくても、どのようにしたら地域の子どもたちに福音を伝えられるだろうか。
 世界の中で困難な状況に置かれた子どもたちにどのようにイエス様の愛を伝えられるだろうか。

 子どもたちに福音を伝えても、すぐに結果は出ません。
 これは福音の種蒔きです。
 種を蒔いてすぐに実を結ぶことはありません。しかし無駄にはなりません。やがて成長し、花を咲かせ、実を結びます。
 福音を聞いた子供たちはやがて成長し、イエス様を受け入れる時が来ます。
 その中から立派な信仰者、次の世代のヨシヤくんが生まれます。

自分の選択で神を求める

 ここで1つ考えておかなければならないことがあります。
 ヨヤダから教育を受けたヨアシュは、ヨヤダが生きている間は神に従いました。ヨヤダが亡くなると神に背きました。
 ヨシヤは生涯に渡って神に従い続けました。
 ヨアシュとヨシヤ、何が違ったのでしょう。

神を求め始めたヨシヤ

 3節の前半に「その治世の第八年、彼がまだ若かったときに、父祖ダビデの神を求めることを始め」とあります。
 ヨシヤが15~16歳の時です。まだ若い中高生の年代のヨシヤ君は、自分の選択で神を求め始めました。

恵みを受け取るかどうかは自分の選択

 子どもは親の影響を受けると言いました。確かにどのような家庭で育ち、どのような先生から教育を受け、どのような社会で生きるのかは子どもの人生に大きな影響を与えます。
 それでも神を求めるかどうかは、その子自身の選択です。
 だから自分が神に従わないことを親のせい先生のせい、社会のせいにしてはいけません。
 私たちは自分の意志で神を捨てることができます。
 自分の力で神に従うことはできませんが、神の恵みを受け取り神に従う道を選択することはできます。

選択の機会を奪い神しか選べないようにする親

 ある人たちは子どもたちを囲い込みます。
 子どもたちが神様に従うようになってほしいという親心からでしょうか。子どもが親と同じ信仰を持ってしか歩めないようにしてしまいます。
 子どもが幼い頃は、家に置いていくわけにもいかないので一緒に連れて行くことは仕方ありません。
 子どもが成長していくと、嫌だと言えるようになります。そうすると食事を抜かれたりムチで叩かれたり体罰によって子どもを従わせる人もいます。
 公教育は自分たちの教義に合わないからと言って教育の機会を奪い、高等教育を受けさせないこともあります。
 このように選択の機会を奪い、子どもたちが親の信じる神様しか選択できないようにしてしまいます。

 選択の機会を奪われた宗教2世の問題が注目されています。
 その宗教の中でしか生きられないように育てられた子供たちは、それ以外の世界では生きることに困難を生じます。それで仕方なく親の信じる神に従います。
 これは神に従って生きるのだから祝福された幸せな人生でしょうか。
 いいえ、神様が人に願っておられるのはこのような人生ではありません。

愛は自由の中にある

 神様は愛を求めています。心を尽くし、力を尽くして主を愛しなさいと命じます。
 その愛は自由の中にしかありません。
 神様は人を、神を愛するしかない存在として造りはせず、神に従うこと愛することを選択する自由を与えました。
 神に背いて善悪を知る木の実を食べる自由もあったし、神に従って食べない自由もあったのです。
 神を愛する自由も背く自由もある中で、自ら愛を選択することを求めます。

 子どもたちを支配し、子どもたちがその中でしか生きられないようにするのは神の求めるところではありません。
 自由を認めれば、子どもたちが教会から離れ神様から離れていくこともあります。
 それでも大人は子どもたちの選択を尊重してください。そして神様に祈り続けてください。
 信仰も神の恵みです。
 子どもたちが神を捨てても、神様はその子を決して見捨てません。
 いつかその子自身が神に立ち帰る道を選択できるように祈るのです。
 蒔かれた種は、いつか時が来て実を結びます。

青春の日々にこそ創造主に心を留めよ

 マナセのように晩年になって神を求める人もいます。
 幼い頃に教会学校に行ったことのある人が、半世紀以上たってそれを思い出し、教会に来るという人もいます。
 それも素晴らしいことです。決して遅すぎることはありません。
 しかし年をとってから神を愛するようになれば、この地上でその愛を表せる機会は減ります。
 そこでコヘレトは言います。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。

コヘレトの言葉12:1

  青春の日々、若いうちに神を求めるのです。
 その選択をすることができるように、一人でも多くの子どもたち若者に福音を伝え、愛をもって見守ることが大人の責任としてあります。
 子どもたち若者たち自身は、どうか若いうちに神を愛することを選び取ってください。心からお勧めします。

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