荒れ野の集会
出エジプト記 19:2-7
2 彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。3 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。4 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。5 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。6 あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」7 モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。
教会は死にかけていないか
長い長い歴代誌の講解が終わりました。以前は講解が終わったところで教会のビジョンを確認していました。
今回はビジョンそのものを見直したいと考えています。
教会の現状を見る時、そこに命はあるのか。人が変えられ命に満ちあふれ、また命を生み出しているか。
むしろ抜け殻のように形ばかりで命のない教会になってはいないか。
もしそうであるなら、どこで道を誤ってしまったのか。
神様がここにどのような教会を建てようとしておられるのか、神様が見せてくださるビジョンを見つめ直し、軌道修正する必要があります。
教会が死ぬことはありませんが、死にかけることがあります。
病気は早めに治療した方が回復は早いです。
荒れ野の集会は何のために呼び集められたか
教会はギリシア語のエクレシアを訳した言葉です。エクレシアには呼び集められた人たちという意味があります。
だから教会とは建物のことではなく、人の集まりです。
教会のモデル
新約聖書でエクレシアという言葉が使われるようになった背景には、旧約聖書がギリシア語に翻訳された時に、ヘブライ語のカーハールという言葉がエクレシアと訳されたことに関連するかもしれません。
カーハールは集会のことです。
たとえばイスラエルの民がシナイ山のふもとにテントを張って滞在した時、その集会を指してカーハールと呼ばれています。
この集会でイスラエルの民に十戒が授けられ、イスラエルは神の民になりました。
だからこの荒れ野の集会がエクレシアの原型、教会のモデルであると言えます。
今日の本文を中心として、荒れ野の集会がどのような集会だったのかを見ていきます。
①礼拝するために集められた
まず荒れ野の集会は礼拝するために呼び集められました。
シナイ山は神の山ホレブとも呼ばれます。モーセが燃える柴の間から神様に出会った場所です。
神様はモーセをファラオのもとに遣わし「イスラエルの民を去らせて荒れ野で礼拝をささげさせなさい」と要求させました。
この命令の通り、モーセはイスラエルの民を導いてシナイ山に来ました。
礼拝するために、神の民は呼び集められたのです。
②育成するために集められた
2番目に荒れ野の集会は神の民を育成するために呼び集められました。
モーセが山に登ると、主は彼に語りかけます。「あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。」
イスラエルの民はエジプトで奴隷になっていました。そこで主なる神が10の災いを起こすのを見ました。
特に10番目の災い、死の災いでは、主の過越しを体験します。エジプトを死の災いが襲ったとき、神が命じた通り小羊の血を塗った家では、死ぬべき者が命を得ました。
そして神が海の中に作った道を通り、エジプトを出ます。
イスラエルの民は神によって救い出されました。自分の力ではありません。まるで鷲の翼の上に乗せられたかのように、神の恵みによって救い出されました。
神はこの救われた民に、神の言葉に聞き従うことを要求します。
神の言葉に聞き従うなら、イスラエルは神の宝の民になります。
もはや奴隷ではありません。神の恵みで救われ神に従う、神の民です。神はそのことを思い起こさせます。
民を育成するために、神の民は呼び集められたのです。
③奉仕するために集められた
3番目に荒れ野の集会は奉仕するために呼び集められました。
荒れ野の集会では民全員が神の言葉を聞いたのではありません。モーセが民を代表して神の前に進み出て神の言葉を聞きました。そしてモーセは神から与えられた言葉を民に伝えます。
モーセがシナイ山に登っている間、ふもとではアロンが民の訴えを聞いていました。役割分担があります。
しかしアロンは民の声に流されて間違ったことをしてしまいます。そこで神様は、神様に仕える祭司としての役割をアロンに命じます。民に流されるのではなく、神に仕え民を祝福する。それが民全体の益になります。
そしてレビ人を奉仕者に任命します。
また幕屋の建設では、民が自らすすんでささげることによって必要な物資が集められ、技術のある職人たちが建築しました。
こうしてそれぞれ与えられたものを活かして様々な奉仕が行われました。
奉仕するために、神の民は呼び集められたのです。
④宣教するために集められた
4番目に荒れ野の集会は宣教するために呼び集められました。
神様は「あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる」と言います。単にわたしの宝と言ったのではありません。
神様はイスラエルだけの神様ではなく、すべてを治める主なる神様です。イスラエルの民を特別に選んだ神様は、その神の民を通してすべての民を祝福しようとしておられます。
神の民を通して、神の栄光が全地に満ちていきます。
実際イスラエルの民がカナンの地に入るとき、ギブオン人は神がイスラエルの間で行われた御業を聞き、協定を結びます。
イスラエルの民を通して異邦人にも神様の素晴らしさが伝えられました。
宣教するために、神の民は呼び集められたのです。
⑤交わりのために集められた
最後に荒れ野の集会は交わりのために呼び集められました。
イスラエルの民は荒れ野でテントを張り、共同生活を送ることになります。
過酷な荒れ野で1人では生きていけません。どうしても共同体として共に生きる必要があります。老若男女が共に生きました。
皆が仲良く過ごしていたわけではありません。色々な人がいて色々な考えがあります。
時には文句を言ったり不平不満がぶつかったりすることもありましたが、このような衝突を経て1つの共同体になっていきます。
ケンカも含めて熱い交わりがありました。
荒れ野の集会の間には驚くべき出来事もありました。
神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。
出エジプト記24:11
モーセや長老たちは神様の食卓に招かれ、共に食事をしました。
「一緒にメシ食おうぜ」と神様が招いてくださった交わりです。
交わりのために、神の民は呼び集められたのです。
荒れ野の集会は礼拝、育成、奉仕、宣教、交わりのために神の民が呼び集められました。
教会の存在目的
荒れ野の集会を教会のモデルとするとき、教会もまた礼拝、育成、奉仕、宣教、交わりのために神の民が呼び集められたものだと見ることができます。
①教会は礼拝するためにある
イエス・キリストによって救われた者は神を礼拝するようになります。
まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
ヘブライ人への手紙9:14
イエス・キリストの十字架の恵みを受け取るとき、礼拝せずにはいられなくなります。
教会は礼拝する集まりです。
②教会はキリストの弟子を育成するためにある
ペンテコステの日に聖霊が降り、ペトロはユダヤ人の前で説教をしました。そしてイエス・キリストの十字架の死と復活を証ししたとき、ユダヤ人は心を打たれ悔い改めました。その日に3000人ほどが仲間に加わります。
仲間になったというのは、ただ会員登録をしたということではありません。悔い改め聖霊を受けた彼らは生き方が変えられていきました。
罪の奴隷の人生から、神の子としての人生を歩み出します。
アンティオキアに集まった信徒たちは、他の人たちと生き方が違うのでバカにされました。
「あいつらはキリストのせいでおかしくなった。あいつらはクリスチャンだ。」クリスチャンという呼び方にはバカにする意味が含まれていたわけです。
しかし私たちは胸を張って「そうです。私がクリスチャンです。」と言うことができます。
クリスチャンはおかしな人たちです。キリストのよって救われ、変えられました。
それは愛する者に変えられたということです。
イエス様は「互いに愛し合うならば、あなたたちがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言いました。徹底的に愛に生きること、それがキリストの弟子の生き方です。
教会はキリストの弟子を育成する集まりです。
③教会は奉仕するためにある
イエスを信じ聖霊を受けた私たちは聖霊の賜物を受けます。
賜物は人それぞれ違いますが、全体の益となるようにそれぞれの役割を担います。
私たちは恵みの善い管理者として、互いに仕えます。
教会の中には色々な奉仕の分担があります。神様から与えられた時間をささげる人も、能力をささげる人も、物質をささげる人もいます。
教会は奉仕する集まりです。
④教会は宣教するためにある
聖霊が降ったとき、弟子たちは他の国々の言葉で神を賛美しました。
そしてエルサレムばかりでなくユダヤ全土で福音が伝えられます。
迫害が起こると、散らされた人たちがサマリアにも行って福音を伝えるようになりました。もともとユダヤ人はサマリア人を嫌い、避けていました。しかし救われた人たちは出て行って他の民族にも福音を伝えました。
そして異邦人コルネリウスがイエス様を信じ聖霊を受けます。宣教の門が開かれ、パウロはヨーロッパに渡って異邦人にも福音を告げ知らせました。
宣教は世代を超えて続けられ、今や東の果ての日本にも福音が伝えられました。
さらに地の果てに至るまでキリストの証人が生まれようとしています。
教会は宣教する集まりです。
⑤教会は交わりのためにある
エルサレム教会は交わりにも熱心でした。熱い交わりがありました。
毎日集まって礼拝し、喜びと真心をもって食事をし、神を賛美していました。
喜びと真心のある食卓には惹かれます。「あの人たちはなんて楽しそうに食事をしているんだ。すごくおいしそうに飲み食いしている!」当然、民衆全体から好意を寄せられました。
教会には日々救われる人が与えられます。やがて異邦人も加わり、裕福な人も貧しい人も、多様な人が集まるようになります。
色々な人がいると色々な考えがあります。
そうなると教会はバラバラになってしまうのではないかと心配するかもしれません。
しかしキリストの十字架によってあらゆる隔ての壁は壊されました。
あらゆる違いを超えて一つの神の家族となるよう招かれています。
誰も一人では生きていけません。
共に生きるようにと、神の食卓に招かれています。
教会は交わりをする集まりです。
イエス・キリストの十字架の死と復活によって救われ聖霊を受けた私たち。
鷲の翼に乗って神の前に呼び集められた神の宝の民です。
共に礼拝し、キリストの弟子を育成し、奉仕し、宣教し、交わりに熱心になる。そのような教会を目指していきましょう。