歴代誌講解69
見えるものを恐れるな
歴代誌下 32:1-8
1 ヒゼキヤがこれらの真実な事を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めて来た。彼はユダに侵入し、その砦の町々に対して陣を張り、町々を攻め取ろうとした。2 ヒゼキヤは、センナケリブが来て、エルサレム攻略を目指しているのを見ると、3 将軍や勇士たちと協議し、町の外にある泉の水をせき止めることにした。彼らは王を支持した。4 多くの民が集まり、そのすべての泉と、この地を流れる谷川をせき止め、「アッシリアの王が来るとき、豊富な水を得させてはならない」と言った。5 王は意欲的に、壊れた城壁を修理し、その上に塔を立て、外側にもう一つの城壁を築いた。ダビデの町のミロを堅固にし、多くの投げ槍と盾を作った。6 王は指揮官を民の上に立て、彼らを城門の前にある広場に集めて激励して言った。7 「強く雄々しくあれ。アッシリアの王とその全軍団を見ても、恐れてはならない。おじけてはならない。我々と共においでになる方は、敵と共にいる者より力強い。8 敵には人の力しかないが、我々には我々の神、主がいて助けとなり、我々のために戦ってくださる。」民はユダの王ヒゼキヤの言葉に力づけられた。
本当に大切なものは目に見えない
「星の王子さま」はフランス人の飛行機の操縦士であり小説家でもあったサン=テグジュペリの代表作です。
主人公の「ぼく」は飛行機の操縦士でしたが、サハラ砂漠に不時着します。
そこで1人の少年に出会いました。彼はある小さな惑星から来た王子でした。地球に来て1年が経とうとしています。
王子はぼくに、旅を通して見聞きしたことを話します。
王子の星には1輪のバラの花がありました。王子はそのバラを美しいと思って心を込めて世話をしていましたが、バラとケンカをして旅に出ます。色々な星を見て回り、地球にやってきました。
地球にはバラ園があり、自分が美しいと思っていたものが実はつまらないものだったのではないかと思えてきました。
そこでキツネに出会います。キツネは王子に、仲良くなることを教えました。誰かのために時間をなくすことで、その人が特別な存在になります。1匹のキツネと一緒に時間を過ごしたなら、他に10万匹のキツネがいてもその1匹のキツネが特別な存在になります。
王子はバラのために自分がなくした時間を思い、やはり自分の星のバラが大事なバラなのだと気づきます。
キツネは別れ際に秘密を教えてくれました。それは「大切なものは、目に見えない」ということです。
飛行機を修理しながら王子の思い出話を聞く日々が続くうちに、水の蓄えがなくなってしまいました。王子は井戸を探そうと言いだします。砂漠で井戸を探すなんて無謀だと思いながら、ぼくも歩き出しました。
途中、王子は「星がきれいなのは、見えない花があるから…。砂漠は、美しい。砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠してるから…。」とつぶやきます。それを聞いてぼくは子どもの頃からの謎が解けた思いがしました。
何かを美しくするものは、目に見えないものです。
ここで見ているものはただのカラであって、本当に大切なものは、目に見えないのです。
本当に見るべき方を見ていない
今日の本文は南ユダ王国13代目ヒゼキヤ王の話その4、ヒゼキヤの水道です。
ヒゼキヤ王は神殿を修復し、過越祭を祝い、礼拝を改革するなど、主の御前に正しいこと、真実なことを行いました。神を求めて始めた事業を、心を尽くして進め、成し遂げました。
北イスラエル王国滅亡
そのような南ユダ王国の繁栄の裏で、北イスラエル王国では大事件が起こります。
ヒゼキヤの治世第4年にアッシリア王シャルマナサルが北イスラエルに侵攻。首都サマリアを包囲しました。
北イスラエル王ホシェアは抵抗を続けますが、ホシェアがエジプトと通じていたことを知ったシャルマナサルは怒り、ホシェアを捕えました。
そして包囲から3年目、ヒゼキヤの治世第6年にサマリアは陥落。北イスラエルは滅亡し、住民たちはアッシリアに捕囚になりました。北イスラエルの領土は植民地となり、アッシリア領内から様々な民族が移住してきました。
南ユダ王国の隣国であり同胞の国であった北イスラエル王国がこのように滅亡させられました。
南ユダの住民にとっても、脅威が目の前に迫っています。
エルサレムに目を向けるアッシリア
ヒゼキヤの治世第14年には、アッシリア王センナケリブが南ユダにも攻めてきます。
センナケリブは砦の町々を次々と攻略し、ついにエルサレムに目を向けました。エルサレムも滅ぼしてしまおうと、18万5千人の兵を率いて狙っています。
ヒゼキヤの対策
ヒゼキヤは将軍や勇士たちと会議を行い、3つのことを決めます。1つ目、町の外にある泉の水をせき止め、アッシリア軍が水を得られないようにします。2つ目、壊れた城壁を修復します。3つ目、投げ槍と盾を作り装備を強化します。目に見えるかたちで対策を行いました。他にもエジプトに援軍を頼むという方法も考えられますが、北イスラエルがエジプトを頼って怒りを買ったので、エジプトは頼れません。
町の外にある泉とは、ギホンの泉のことです。エルサレムの東側、キドロンの谷にあります。この泉の水をエルサレムの住民は利用していました。これを封鎖すると、エルサレムの住民も困ってしまいます。
そこでヒゼキヤは城壁の下にトンネルを掘ってエルサレムの中にあるシロアムの池に水が流れるようにしました。これがヒゼキヤの水道です。現代も遺跡が残っています。
このときヒゼキヤはエルサレムの中のいくつかの家を壊し、廃材を使って城壁を修復しました。
アッシリア軍は砦を破壊する兵器を持っていたため、砦の町々も次々に攻略されてしまいました。エルサレムも城壁を固めなければすぐに陥落してしまいます。
ヒゼキヤが修復した城壁は厚さが最大7mにもなります。
ここでヒゼキヤたちが行ったことは、目に見えるものを頼った対策です。
その空しさを預言者イザヤは指摘します。
9 また、ダビデの町に破れの多いのを見て/下の池の水を集めた。10 エルサレムの家を数え/家々を倒して、城壁の破れをふさごうとした。11 二つの城壁の間に水溜めを造り/古い池の水を入れた。しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず/遠い昔に都を形づくられた方を/見ようとしなかった。
イザヤ書22:9-11
城壁を再建し水を確保した。しかしあなたたちは大事なことを忘れている。
この都、エルサレムを造られた方を見ていない!
目に見えるものばかり恐れて、本当に見るべき方、神を見ていない。それは空しいことです。
体を殺せても魂を殺すことはできないものを恐れなくていい
目に見えるものを恐れる必要はありません。
マタイによる福音書10章26節から31節で、イエス様は人々を恐れてはならないと言います。
なぜなら人の手では体を殺せても魂を殺すことはできないからです。
そして、むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさいと言います。神を畏れなさいということです。
神はあなたを見守っている
その神はどのようなお方でしょうか。
イエス様は神のことを天の父と呼びます。
天のお父さんはスズメ1羽にも目を留めています。1羽のスズメでさえ、天のお父さんが許可しない限り地に落ちて死ぬことはありません。
天のお父さんは私たちにも目を留めています。髪の毛の数まで数えておられます。
だから恐れなくてよいのです。神様があなたを見捨てることはありません。
あなたの目に神が見えなくても、神様はあなたに目を留めています。
天のお父さんが許可しない限り、あなたが地に落ちることはありません。
イエスの愛の眼差し
エルサレムの人々はアッシリア王センナケリブの目を恐れました。センナケリブは彼らを滅ぼすために目を留めています。
神も彼らに目を向けています。
イエス様もエルサレムに目を向けました。
そして涙を流しました。
エルサレムの人々が神の訪れてくださる時をわきまえず神に立ち帰らない様子に、イエス様は心を痛め涙を流します。
イエス様は今日も私たちに目を向けています。
私たちの魂や体を地獄で滅ぼすためではなく、そこから救い出すために目を留めています。
だから目の前にある現実を恐れなくていいです。
仕事の問題、健康の問題、家族の問題、経済の問題。円安、物価高はどこまで行くのか考えるだけで恐ろしい。
自分たちの状況を見て、規模は小さくなるし年も取る。できないことが増えていく。
目の前の現実に対して何もできない。そのように恐れます。
しかしイエス様が言うように、この世の人々や目の前の現実を恐れなくていいのです。小さな群れよ、恐れるな。
イエス様は私たちに愛の眼差しを向けています。
目の前の現実がどうであれ、自分自身の状況がどうであれ、私たちに目を向けている神様を見上げてください。
信仰の目が開かれる
ヒゼキヤは人々を呼び集めて言います。「強く雄々しくあれ。アッシリアの王とその全軍団を見ても、恐れてはならない。おじけてはならない。我々と共においでになる方は、敵と共にいる者より力強い。敵には人の力しかないが、我々には我々の神、主がいて助けとなり、我々のために戦ってくださる。」
民はこの言葉に励まされました。
ヒゼキヤは信仰に立ったのです。目に見える現実ではなく神を見上げることを選択しました。
神を見上げるなら、私たちと共にいる神の方が敵と共にいる者より力強いことがわかります。
敵と共にいるのは偶像であり、何の力もありません。
神は今も生きておられる力あるお方です。
私たちと共にいる方は敵と共にいる者より力強い
北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたというのは歴史の事実としてあります。
しかし神はその北イスラエルにおいても力強い御業を示してくださっていました。ヒゼキヤはそのことを思い起こしたことでしょう。
アラムの軍隊が北イスラエルに攻めてきた時のことです。敗戦を重ねたアラム軍は、エリシャのせいで自分たちの作戦がうまくいっていないと気づきました。そしてエリシャのいるドタンという町を包囲します。
ドタンはただエリシャがいたというだけの小さな町です。軍事施設はなく、民間人しかいません。
そのドタンの住民がある朝目覚めると、町がアラム軍に包囲されているではありませんか。
当然恐れます。敵は馬に乗り、戦車もある。自分たちには何もない。どうしよう。
そこでエリシャは言います。
するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、
列王記下6:16
エリシャが祈ると人々の目が開かれました。
そして見渡すと、町をアラム軍が包囲していますが、そのさらに外側に火の馬と戦車が山に満ちているのが見えました。敵より圧倒的に多い主の軍勢が自分たちを守っているのを見ました。
私たちと共においでになる方は、敵と共にいる者より力強いのです。
それは私たちの目が開かれた時に見えてきます。
目の不自由な人を癒したイエス
ヒゼキヤがギホンの泉から引いた水はシロアムの池に流れていきました。
シロアムの池はヨハネによる福音書9章にも出てきます。
イエス様は生まれつき目の見えない人に、シロアムの池に行って洗いなさいと言いました。
彼がその通りにすると目が見えるようになりました。
イエス様は私たちの目を開いてくださるお方です。
すべてが美しい
私たちの目が開かれると、私たちは神の恵みがこの地に満ちているのを見ます。
自分には現実の問題に対して何の力もないと思います。
信仰の目が開かれると、私は確かに弱く力がないとわかります。同時に、神様の恵みは目の前の問題よりはるかに大きいのだとわかります。
小坂忠さんの「全てが美しい」という曲があります。
「目に映るものすべてが今までとは違う」と歌います。
それまで何気なく過ごしてきた日常が全く違うものに見えてきます。
それは愛を知ったから。イエス様に出会ったから、すべてが美しく見えるようになったのです。
私たちもイエス様に出会ったとき、そのような経験をしたのではないでしょうか。
イエス様に出会ってから目に見える現実が全く違うものに見えてきます。
目の前の状況は変わっていません。自分自身も変わっているように思えません。
しかしイエス様の恵みがこの地に満ちていることが見えます。
目からうろこが落ち、信仰の目が開かれます。
そうするとどんな状況でも神様を賛美できます。どんな状況でも神様に感謝をささげることができます。
もしかすると目の前の問題は解決しないかもしれません。祈った通りにならないかもしれません。病は癒されないかもしれません。
そうだとしても、私たちに目を留めている天のお父さんは最善を行ってくださった。
その見えない事実を確信し、神を賛美します。
どんなときもイエス様に目を向ける
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書1:18
霊である天のお父さんは見えません。イエス様によって、私たちは神様がどのようなお方であるかわかります。信仰の目を開き、このイエス様を見上げ、賛美をささげていく。
イエス様は私たちも遣わします。シロアムの池に行って洗いなさいと。信仰の目を開きなさい。
人々を恐れなくていいです。目に見えるものを恐れなくていいです。
神様は私たちに目を留めてくださっています。