見張りの務め

エゼキエル書講解40

見張りの務め

エゼキエル書 33:1-11

1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。3 彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。4 角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。5 彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。8 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。9 しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

恵みを共有する

情報共有

 先週はKOSTAに参加してきました。2泊3日の日程で、福島で行われました。たくさん恵みがありました。
 恵みは感謝して受け取り、喜んで周りの人に流すものです。
 他の人に分けてしまうと無くなってしまうものではありません。むしろ分かち合えば分かち合うほど、恵みは増え広がっていきます。
 だから恵みを受けた人は分かち合うべきであるし、周りの人も「どんな恵みがあった?」と積極的に聞き出してください。そうすることで、KOSTAに参加した人も参加できなかった人も、同じ恵みを共有することができます。
 見た人、聞いた人には責任があるのです。

エルサレムの回復が語られる

 今日からエゼキエル書の後半に入ります。
 前半部分(1-24章)はエルサレムの裁きが語られました。主を捨て偶像崇拝に陥ったエルサレムは、バビロンの剣で滅ぼされます。
 中盤(25-32章)でティルスやエジプトへの預言が語られました。全地を支配している主はバビロンを道具として用い、高慢を打ち砕きます。
 そして後半部分(33-48章)でエルサレムの回復が語られます。エルサレムは破壊し尽くされた。神殿も失われた。もうイスラエルには人間的に誇るものが何もない。枯れた骨のように希望がない。しかし主は新しいエルサレム、新しい神殿を建て、命の水で全てを生き返らせます。
 これからそのようなよい知らせが語られます。主が語ったその知らせを、エゼキエルは民に伝えなければなりません。知らせを受けた人は、それを伝える責任があるのです。
 主は後半部分の初めに、見張りの務めを語ります。

見張りの責任

 まず今日の本文の1節から9節で『1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。3 彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。4 角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。5 彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。8 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。9 しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。』 とあります。

見張り

 主はエゼキエルに見張りの務めについて語ります。戦争のとき、自分たちの国や町に敵が攻めてこないか、見張る人が必要です。
 城壁や塔、高い山の上に見張りが立ちます。見張りは他の人より先に、敵が近づいていることを知ります。敵が近づいていることがわかったら、それを民に知らせます。角笛を吹いたり、鐘を鳴らしたり、のろしを上げたりします。こうして民は危険が近づいていることを知り、逃げたり戦いの準備をしたりします。これが見張りの責任です。
 もし見張りが警告しなかったなら、民は危険が来ていることがわかりません。それで急に敵が攻めてきて死んでしまったら、その死の責任は見張りにあります。

預言者

 これは預言者の責任でもあります。
 主はエゼキエルをイスラエルの家の見張りとしました。主はまずエゼキエルに語ります。それを聞いたエゼキエルは、民に伝えなければなりません。剣が来るよ、裁きが来るよ、と。
 もし主がある悪人に『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、エゼキエルがそのことを彼に伝えなかったら、彼は悔い改めるチャンスがありません。彼が自分の罪のために死ぬとしても、その死の責任を主はエゼキエルに問うと言います。

情報を得た人

 私たちにも見張りの務めがあります。
 私たちが見聞きする情報は、全ての人が同じように受けるのではありません。

 山口県で2歳の男の子が行方不明になりましたが、ボランティアの男性に無事に発見されました。
 このニュースを聞いてある人は2歳の男の子という部分に反応します。ああ、うちの子と同じくらいだ。
 ある人は行方不明に反応し、親は何をやっていたんだ!と怒ります。
 ある人は発見に反応し、よかったーと安心します。
 ボランティアに反応する人もいます。本物のヒーローのようだ。私もああいう人になりたい!
 私の父は、この男性の名前に反応していました。実はこの男性は私の地元の人で、地元では有名なおじいちゃんだそうです。しかも私の妹の同級生のおじいさんなのだとか。
 このように同じニュースでも、人によって観点が違います。

 同じものを見ても、自分だけが見ているものもあります。
 では自分が得た情報はどうするべきでしょうか。
 もし町に危険が迫っていることを自分が知ったら、どうするでしょうか。
 台風が来て、夜中に大雨が降った。停電してテレビがつかない。そんなとき、天竜川の堤防が決壊しそうになり、洪水が浜松を襲おうとしている。自分はたまたまスマートフォンを持っていたので、危険が迫っていることを知ることができた。それで高い所に避難した。よかったですね。
 それでいいですか。家族は何も知らずに寝ている。隣の家のおじいちゃんはスマートフォンを持っていない。向かいの家には幼い赤ちゃんがいる。
 自分だけ助かってラッキーとは言えないでしょう。
 ああ、あの人に知らせてあげなくちゃ、と思うでしょう。身近な家族や友人、弱い人、あるいは救いから遠い人に、危険を知らせたいと思うでしょう。

 これは肉の命の場合の話です。
 霊の命、永遠の命のためならなおさら、危険を知らせたいと願うはずです。
 このまま行ってはいけない。そっちは滅びだ。
 家族に、友人に、この世で弱く虐げられている人に、あるいは救いから遠く離れた罪人に、危険を知らせるのです。
 もし伝えるチャンスがあったのに伝えなかったらどうなるでしょう。
 突然の事故で終わりが来てしまったら、どう思うだろうか。

 主が私たちに情報を与えます。
 これも恵みの賜物です。時間や物質、能力と同じように、情報も私たちに管理が委ねられています。
 私たちには、情報を伝える責任があります。

伝えるべき主の御心

 次に今日の本文の19節20節に『10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。』 とあります。

背きと過ちの中で死ぬ

 私たちが伝えるべき情報は、危険だけでしょうか。悪い知らせだけでしょうか。
 主はエゼキエルに、イスラエルに向けてではなく同胞に向けて語るように言っています。同胞とは捕囚の民のことでしょう。
 捕囚の民は絶望していました。
 『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』
 背きと過ちのためにエルサレムは破壊されてしまった。行くべき場所はもうない。後はもう死ぬのを待つだけだ、と。
 危険を知るだけではどうすればいいかわかりません。
 もし明日地球に巨大隕石が衝突するとわかったらどうしますか。どこに逃げても無駄です。どうしようもないです。
 私たちは罪のために死ななければならない。その罪を自分で解決できない。じゃあどうすればいい?後は死ぬのを待つだけ。
 それでは希望がないです。

 必要な情報は、危険だけではありません。
 危険から逃れるためにどうすればいいのか、どこに救いがあるのかを知りたいです。
 敵が来るぞ、あの山に逃げろ!
 洪水が来るぞ、あの船に乗れ!
 死の災いが来るぞ、小羊の血を塗れ!
 あなたは罪のために死ななければならない。しかし、ただ一つの道がある、真理がある、命がある!

死を喜ばない

 私たちには絶望しそうになるときがあります。
 しかし絶望しそうになるとき、私たちが忘れてはいけない情報があります。
 それは、「主は生きている」ということです。

 今も生きておられる主が私たちにこう語ります。
 「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」

 親が子を叱るのは、子どもに間違った道へ行って欲しくないからです。
 主が裁きを告げるのは、私たちに死んでほしくないからです。
 死んでいい人間なんていない。どんな悪人でも、死刑になるような犯罪者でも、死んでほしくない。
 生まれつき障害があっても、誰かの助けを借りなければ生きていけない弱い人でも、いなくていい人間なんていない。
 望まれずに生まれ、血の中でもがく赤子に、生きよ、生きよ、と言う。
 それが私たちの生きている神です。

生きることを喜ぶ

 私たち人は罪を犯し、滅びるべき罪人です。神から見捨てられて当然です。
 自分の罪に対して『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と嘆きたくなります。
 しかし神の子イエスが十字架につけられて言いました。
 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。)」
 神は私たちの代わりに御子イエスを十字架につけ、神から捨てられた者とした。神から捨てられる根拠であった罪は、イエス・キリストの血潮で取り除かれた。
 イエス・キリストの十字架の叫びは、私たちを決して見捨てないという神の愛の宣言です。
 立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
 唯一の道がある。唯一の救いがある。イエス・キリストを信じよ。
 これはよい知らせ、福音です。
 自分の罪を悟った者に、救いのよい知らせが届けられます。
 悪い知らせだけではなく、福音こそ、私たちが伝えるべき情報です。

聞いた人の責任

 最後に、私たちの責任は見たこと、聞いたことを証しするところまでです。

警告に従わない

信号無視

 私たちには責任があります。
 しかし人の救いに関して、全ての責任があるわけではありません。
 聞く人にも責任があります。
 赤信号を無視して車にはねられたら、誰に責任がありますか。車の運転手も責任がありますが、主な責任は信号を無視した人にあります。
 警告に従わなかった人の責任があります。
 見張りが警告をしたのに逃げなかったら、それは逃げなかった人の責任です。
 罪を指摘したのに悔い改めなかったら、それは悔い改めなかった人の責任です。
 信号機が無理矢理歩行者を止めることはできないし、見張りが民を避難させることまではできないし、人の心を強制的に変えることはできません。
 私たちには福音を伝える責任があります。しかし人を救う責任があるのではありません。

選択の責任

 プレゼントを受け取るかどうかは自由です。警告を受けとるかどうかも自由です。
 人には選択の自由があり、選択の責任があります。
 私たちの前には祝福と呪いがあります。命の道と死の道があります。
 人は自然に呪いの道へ、死の道へ行きます。
 彼らに、そっちは呪いだよ、ここに祝福があるよというのが私たちの役割です。
 そっちは死だ、滅びだ、命はこっちにある、救いはこっちにある!と指し示すところまでが伝道です。
 聞いた言葉にどう反応するかは聞く側の責任であり、神の主権です。

私たちは証人

証言台に立つ人

 見た人、聞いた人の責任は、見たこと聞いたことを伝えるところまでです。
 それは証人の役割に似ています。
 証人は見たこと、聞いたことをありのままに話せばいいです。
 証明は弁護者か検事がします。
 それをどう解釈するかは聞く人たちがします。

 私たちはキリストの証人です。
 自分が出会ったイエス・キリストをありのままに話せばいいです。
 弁護者である聖霊様が力を与えます。
 その証しをどう解釈するかは、聞く人たちがします。

 ペトロとヨハネは人々に反対されても、キリストを証しし続けました。
 それは見たこと、聞いたことを話さずにいられなかったからです。

わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

使徒言行録4:20

 十字架の驚くべき恵みに出会った人は、それを話さずにいられなくなります。話すなと言われても、溢れ出てしまいます。

 見張りは、民から離れて立たなければならない孤独な働きです。
 私たちもこの世でクリスチャンとして生きるとき、孤独を感じるかもしれません。
 しかしそれでも私たちはこの世の人々に伝えたいメッセージを受けています。
 私たちはキリストの証人です。

 情報も恵みの賜物です。滅びへ向かう人々に危険を知らせ、キリストの福音を知らせよう。

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