錆を取りのぞく

エゼキエル書講解34

錆を取りのぞく

エゼキエル書 24:1-14

1 第九年の十月十日のことである。その月の十日に、主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、この日付、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日にエルサレムの攻城を始めた。3 あなたは反逆の家に対してたとえを語り、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。据えよ、鍋を据えよ。またその中に水を注げ。4 それに肉の切れを入れよ。腿や肩肉、すべて上質の肉切れを集め/最上の骨で鍋を満たせ。5 また、最上の羊を取り/その下に骨を積み重ねよ。これを十分に沸騰させ/中の骨まで煮えるようにせよ。6 それゆえ、主なる神はこう言われる。災いだ、流血の都よ。錆のついた鍋、その錆は取り除きえない。肉を一切れ一切れ取り出せ。くじがそのために引かれることはない。7 流血が都の中にあるからだ。彼女は血を裸の岩の上に流し/土で覆うために地面に注ぐことをしなかった。8 わたしは復讐のため憤りをかき立て/彼女の血を裸の岩の上に流し/それが覆われないようにした。9 それゆえ、主なる神はこう言われる。災いだ、流血の都よ。わたしもまた、薪の山を大きくする。10 まきを積み重ね、火をつけよ。肉を煮込んで肉汁を作り、骨を焦がせ。11 鍋を空にして炭火にのせ/熱して、青銅が赤くなるまで焼け。汚れがその中で溶け、錆がなくなるように。12 しかし、努力のかいもなく/厚い錆は火でも取り除きえない。13 不貞によってお前が汚れたので、わたしは清めようとしたが、お前は汚れから清くならなかった。わたしが憤りを晴らすまでは、清くなることは決してない。14 主なるわたしが語ったのだ。それは実現する。わたしがそれを行う。わたしはそれをやめず、惜しまず、憐れみもしない。お前の道と行いに従って、お前は裁かれる」と主なる神は言われる。

新しい顔で力を取り戻す

 アンパンマンは子どもたちの大好きなキャラクターです。
 パパ、ママより先にアンパンマンという言葉を覚える子もいます。
 いじわるをしてくるバイキンマンを追い返したり、お腹が空いた子どもにアンパンを食べさせてあげたりします。正義のヒーローです。
 しかし完全無欠のスーパーヒーローではありません。
 泥だらけになりながら戦います。アンパンを分け与えるときには自分の頭をちぎります。
 最大の弱点は、顔が汚れてしまうことです。水でぬれたり汚れがついたりしてしまうと力が出なくなります。
 姿かたちはアンパンマンですが、本来の力は失われてしまいます。これではもはや正義のヒーロー アンパンマンとは言えません。
 そこへジャムおじさんが駆けつけます。
 アンパンマンはこのジャムおじさんが焼いたパンから生まれました。ジャムおじさんはパン工場でアンパンマンの新しい顔を焼いて持ってきます。
 それをバタコさんがイチローのような正確なコントロールで投げます。
 古い顔は吹き飛び、新しくされたアンパンマンは再びその力を取り戻します。

錆びた鍋

 今日の本文は第9年10月10日にエゼキエルに与えられた預言です。主は錆びた鍋の話をします。
 本来は最上級の肉が入ったおいしいスープを作る鍋だったのに、錆びてしまうと肉が焦げたり穴が空いたりしてしまいます。
 主は錆びを取ろうとしますが厚くついた錆は取れません。こうなったら古い鍋は捨てられるしかありません。
 古いものを捨て、新しいものに変えます。
 これはエルサレムのことです。祝福が満ちあふれる都になるはずだったのに、血が流れています。主は悔い改めの機会を与えましたが、民は聞き従いませんでした。
 そこで主はエルサレムにバビロンを送り、包囲させます。
 それは古いものを滅ぼし、新しく回復させようとしておられるからです。

錆を取りたい

 まず今日の本文の1節から5節で『1 第九年の十月十日のことである。その月の十日に、主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、この日付、まさにこの日を書き記しなさい。バビロンの王は、まさにこの日にエルサレムの攻城を始めた。3 あなたは反逆の家に対してたとえを語り、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。据えよ、鍋を据えよ。またその中に水を注げ。4 それに肉の切れを入れよ。腿や肩肉、すべて上質の肉切れを集め/最上の骨で鍋を満たせ。5 また、最上の羊を取り/その下に骨を積み重ねよ。これを十分に沸騰させ/中の骨まで煮えるようにせよ。』 とあります。
 主は私たちを祝福を受ける存在として造りました。

肉の入った鍋

 主はエルサレムのことを鍋にたとえています。
 鍋の話は11章でも語られていました。鍋はエルサレムのことです。その中の肉はイスラエルの民です。上質の肉が入れられ、煮込まれます。
 どうなりますか。
 おいしいスープができます。
 イスラエルは主ご自身が選び救い出した、聖なる宝の民でした。
 エルサレムは祝福で満ちた都になるはずでした。

錆びたボルト

 ところがこの鍋に錆がついています。
 錆とは何でしょうか。
 金属につく汚れです。鉄が赤くなったり、10円玉が緑色になったりするのは錆です。鉄と酸素がくっつくと赤い酸化鉄になります。
 金属には色々な特徴があります。ピカピカしていたり、たたくと延びたり、電気を通したりします。
 しかし錆びてしまうとピカピカしないし、たたくと割れるし、電気を通さなくなります。これはもう金属ではないです。形は変わっていなくても、錆びてしまうと別のものに変化しています。
 私たちも同じです。主なる神様は私たちをご自身のかたちに造りました。知識と義と聖において神のかたちに、男と女に造りました。愛する対象として、祝福するされる存在として造りました。
 しかし私たちは罪を犯し、堕落してしまいました。
 堕落の結果、人には角が生え、牙が生え、しっぽが生えてきた…のではありません。見た目が変わったわけではありません。性質が変わったのです。神を知る知識は失われ、義を行う力がなく、本当の神様ではなく偶像を拝むようになりました。私たちは錆びてしまったのです。

火で錆を取る

 錆は取れます。
 10円玉は酢につけるときれいになります。シルバーのアクセサリーは熱を加えるときれいになります。鉄の鍋やBBQの鉄板は温めた後、たわしでこすって錆を落とし、油を塗ると長持ちします。一般的なフライパンはテフロン加工されていて、こするとコーティングがとれて使えなくなってしうので注意が必要です。
 主の願いは、私たちが悔い改めて生きることです。
 火のような試練を通るとき、私たちは悔い改めのチャンスを得ます。
 主はそこで私たちの錆を取りのぞき、回復させたいのです。
 そして神のかたちとして本当に人間らしく生きてほしいと願っています。

錆は取れない

 次に今日の本文の6節から12節に『6 それゆえ、主なる神はこう言われる。災いだ、流血の都よ。錆のついた鍋、その錆は取り除きえない。肉を一切れ一切れ取り出せ。くじがそのために引かれることはない。7 流血が都の中にあるからだ。彼女は血を裸の岩の上に流し/土で覆うために地面に注ぐことをしなかった。8 わたしは復讐のため憤りをかき立て/彼女の血を裸の岩の上に流し/それが覆われないようにした。9 それゆえ、主なる神はこう言われる。災いだ、流血の都よ。わたしもまた、薪の山を大きくする。10 まきを積み重ね、火をつけよ。肉を煮込んで肉汁を作り、骨を焦がせ。11 鍋を空にして炭火にのせ/熱して、青銅が赤くなるまで焼け。汚れがその中で溶け、錆がなくなるように。12 しかし、努力のかいもなく/厚い錆は火でも取り除きえない。』 とあります。
 私たちは本質的に堕落しています。

厚い錆び

 錆が表面的なものであれば、取ることができます。
 だいたいの錆取りは、錆びた部分を溶かしたりこすって落としたりしています。錆の下の金属が出てくるのできれいに見えます。
 ですから錆が厚く、内側まで来てしまっていると取ることができません。
 エルサレムもそのような状態でした。
 本質的に堕落しているので、悔い改めて回復することができません。

流血の都

血管の中の赤血球のイラスト

 エルサレムの錆とは何でしょうか。
 それは血でした。
 エルサレムの指導者たちは不正を行い、人々の血を流していました。その血によってこの土地が汚されています。この土地を清めるために安息が必要です。
 さて、血は赤いです。なぜ赤いのでしょうか。
 血の中には赤血球(ヘモグロビン)という粒があり、体中に酸素を運んでいます。赤血球の中には鉄が入っています。この鉄と酸素がくっつくと、赤くなります。錆びた鉄が赤いのと同じです。
 まさにエルサレムの土地に血がしみ込んでいる状態は、鍋に厚い錆がついているのと同じなのです。

骨まで焦げる

 主はこの鍋をなんとかして清くしようとします。
 まず中身を取り出します。大切なお肉は先に取り出し、他のところに置きます。それからまきを積み重ね、火をつけます。中に残った骨がカラカラに渇いて焦げるほど焼きます。さらに青銅の鍋が赤くなるほど火を強くします。
 これがエルサレムの状況です。既に2回の捕囚がありました。これによってダニエル、エゼキエル、ヨヤキン王などは先にバビロンに連れて来られていました。
 肉を取り出すように、バビロンが有能だと思った人たちが連れて来られていました。
 何よりも、神殿にあったエルサレムの栄光は東の山に去って行ってしまいました。
 そしてこれから南ユダ最後の戦争が始まろうとしています。まきを積み重ねるように、エルサレムは強力なバビロンの軍隊に包囲されます。
 イスラエルの民はもう枯れた骨のようにカラカラに渇き、滅びるしかありません。先に滅ぼされた北イスラエルと共に、イスラエルの全家は枯れた骨の谷に捨てられようとしています。絶望的な状況です。
 鍋を焼き続ければどうなるでしょう。錆びが広がり、いつか穴が開いてしまいます。
 エルサレムもやがて城壁が打ち破られ、火で焼き払われることになります。

 本質的に堕落している私たちは、表面的な変化だけでは意味がありません。行動を変え、話す言葉を変え、宗教的な生活を送ったところで何ができるでしょうか。偽善者、律法主義者を作るだけです。
 私たちは本質的に新しくされなければなりません。

惜しまず壊す創造主

 最後に今日の本文の13節14節に『13 不貞によってお前が汚れたので、わたしは清めようとしたが、お前は汚れから清くならなかった。わたしが憤りを晴らすまでは、清くなることは決してない。14 主なるわたしが語ったのだ。それは実現する。わたしがそれを行う。わたしはそれをやめず、惜しまず、憐れみもしない。お前の道と行いに従って、お前は裁かれる」と主なる神は言われる。』 とあります。
 主は古い私たちをキリストと共に滅ぼし、キリストと共に新しくします。

エルサレム包囲

 第9年の10月10日。主はこの日を書き記しなさいと言います。バビロンの王ネブカドネザルがエルサレムの包囲を始めた記念すべき日です。
 エゼキエルにとっては苦しいですね。自分の国がこれから滅ぼされようとしているわけです。できればこんな忌まわしい日は記録したくないでしょう。
 しかしこの痛み、苦しみが、新しい創造の始まりになります。

惜しまず憐れまない

 主はご自分の手でエルサレムへの裁きを下します。
 必ず実現します。止めない、惜しまない、憐れみもしないと主は言われます。
 こんなことをして、主はひどいお方ですね。

 私も以前、惜しまれず憐れまれない経験をしました。
 去年の初めころ、足が痛くなりました。ばい菌が入ってしまったようです。膿がたまって、パンパンに腫れてしまいました。
 近くの皮膚科に行って薬をもらいましたが、よくなりません。
 それで近くの大きな病院に行きました。担当してくれたの皮膚科の先生は鬼頭先生という方です。鬼の頭という名前の先生です。
 その先生は私をベッドに寝かせると、膿がたまっているところを押しました。
 痛いです。
 私は叫びました。止めません。
 涙が出てきました。それでも惜しまず憐れみもしません。
 本当に鬼だと思いました。
 しかしそれから数日して、驚きました。
 足の腫れが治ってきました。
 それから2回くらい惜しまず憐れまない鬼頭先生のところに行きました。
 すると、痛みがなくなったのです。治りました。
 鬼頭大先生が惜しまず憐れまなかったおかげで、癒されたのです。
 もし惜しまれて憐れまれていたら、この足がどうなっていたかわかりません。
 医者はこのように病人を癒します。

 主はこのようにして罪人を救います。

新しくする

 では私たちが主から惜しまず憐れまれなかったらどうなるのでしょうか。
 滅びるしかありません。
 残念。
 そこで父なる神は、独り子イエス・キリストを与えました。
 私たちの代わりにイエス・キリストが十字架で死なれました。
 イエス・キリストを信じるとき、私たちはキリストと共に十字架で葬られました。
 キリストは死んで終わったのではありません。3日目に復活しました。
 そう、私たちは神の子とされ、新しい命に生かされています。

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

ローマの信徒への手紙6:4

 錆ついた私たちはもう滅びました。
 私たちは金よりも尊い存在に変えられています。
 金は錆びません。それでもこの世に存在するものである以上、いつかは過ぎ去って行きます。
 しかし私たちは永遠に生き続けます。
 人を傷つける人生ではなく、人を生かす人生。憎しみの人生ではなく愛の人生。
 それなのに相変わらず錆びたもののように生きますか。
 心の底から新たにされて神の子としての尊い人生を生きますか。

 私たちは錆びていました。
 主は私たちを新しくするために惜しまず憐れまず、イエス・キリストを十字架で死なせました。
 古いものは過ぎ去り、神の子としての新しい人生が始まっています。
 尊い人生を歩む私たちになることを願います。

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