元旦礼拝
青銅の蛇
民数記 21:4-9
4 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」6 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。7 民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。8 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」9 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
蛇
明けましておめでとうございます。
新しい一年も皆さん一人一人に神様からの祝福が豊かにあるようお祈りします。
今年は蛇年です。
蛇のことが好きな人はいますか?
気持ち悪がられ、嫌われることの方が多いと思います。
茂みの中で急に出会うと驚きます。毒を持っている蛇もいますから危険です。
聖書の中でも、悪魔は蛇を通して人を罪に誘いました。
黙示録にも「年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの」と、全人類を惑わす邪悪な存在として蛇が描かれています。
一方でイエス様は「蛇のように賢く」なりなさいと言っています。
状況をよく見て忍耐強く獲物を狙う蛇を模範にし、迫害があっても敵を見極め忍耐しなさいということです。
またイエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と荒れ野で蛇が出た話をしています。
今日はこの蛇の話をします。
神の恵みを拒む
約束の地の目前で荒れ野に逆戻り
イスラエルの民はエジプトを出て約束の地カナンへ向かいました。その途中、荒れ野で40年間さまよいます。
その旅も終盤に近付き、ホル山までやってきました。ホル山の北にはエドムがあり、その向こうがカナンです。
しかしこのホル山でモーセの兄アロンが亡くなります。
またカナン人との争いが起こり、戦わなければいけなくなりました。
イスラエルの民はカナンに南側から入ることを避け、葦の海の道を通って東側から入ることにしました。
これは一時的に荒れ野へ戻ることを意味します。
この40年近く続けた旅がようやく終わると思ったのに、リーダーの一人を失い、争いに巻き込まれ、また荒れ野に戻る。やっと乳と蜜が流れる地に入れると思ったのに、その希望は打ち砕かれてしまいました。
エジプトを出た世代の人はほとんど荒れ野で死んだ。アロンも死んだ。私たちもどうせ荒れ野で死ぬんだ。
パンも水もなく、毎日毎日マナとかいうよくわからないものを食べさせられている。
やってらんねえ。
炎の蛇
すると主は炎の蛇を送りました。
これは荒れ野に住む毒蛇で、かまれると火がついたような高熱に冒され、激痛に襲われて死んでいきます。
イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。
批判は必要
民は不満を口にしました。
リーダーであるモーセに対してのつぶやきでしたが、「神とモーセに逆らって」と神に対する反逆だと聖書は言います。
リーダーへの不満がすべて神への反逆というわけではありません。
エトロはモーセのやり方を批判しました。おかげで役割分担をすることができました。
リーダーも人間ですから間違えます。人間の組織には欠けているところがあります。
だから批判は必要です。
皆さんも教会を健全に建て上げるために、ぜひ意見を出してください。
神の恵みに生かされているのにそれを拒む
民の問題点は、神の恵みを拒んでいることです。
神はイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出しました。死の災いが襲う時も神が命じた通り小羊の血で過ぎ越しました。
それなのに「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。」と言っています。
何もない荒れ野で、神は天からのパン:マナを降らせ、岩から水を流れさせました。
それなのに「パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」と言っています。
神の恵みで生かされているのに、その恵みを拒んでいるのです。
エデンの園には食べ物が豊かにありました。神の恵みに満ちあふれていたのです。
しかし蛇は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と神が何かを制限しているかのように思わせます。
確かに神は園の中央にある木の実を「食べると必ず死んでしまう。」と禁じましたが、食べても「決して死ぬことはない」とウソをつきます。
そして目が開いて神のようになることを知っているから神は禁じたのだと、神に疑いを持たせます。
信仰生活に疲れ神に背く
私たちも神の恵みに疑いを持つことがあります。
たくさんの恵みに満ちあふれているのに、何も与えられていないかのように思います。
自由な神の子になったのに、宗教に縛られているように思わされます。
神を信じて何になる。
祈ったって変わらないじゃないか。
聖書の言うことは合理的じゃない。
毎週礼拝をささげるのは時間の無駄。
教会の人たちは偽善者ばかり。
私の稼いだものは献金するより他のことに使った方が有益。
信仰生活なんてやってらんねえ。
こうして私たちも神に背くのです。
救い主・癒し主を見上げる
この炎の蛇は、イスラエルの民が神に反逆したから出てきたわけではなさそうです。神に立ち帰ってからもこの蛇にかまれる人たちがいました。
もともと荒れ野にいたのでしょう。ただ神の恵みによって、かまれずに守られていた。
しかし民が神の恵みを拒むので、神は蛇にかむことを許した。
民もそのことに気付き、神の恵みを拒んだ罪を悔い改めます。
青銅の蛇を見上げると命を得る
すると神はモーセに青銅の蛇を造り、旗竿の先につけさせました。
蛇にかまれても、この青銅の蛇を見上げると命は助かりました。
民を苦しめる蛇を木に架ける。木に架けられたものは神に呪われたものとなったことを意味します。
たとえ蛇が人のかかとにかみついても、神が蛇の頭を砕くのです。
青銅の蛇を見上げることで、主が救い主、癒し主であることを思い起こさせます。
イエス・キリストを見上げる
イエス様が「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」と言ったのは、まさにこの青銅の蛇の話です。
人の子イエスが罪人の頭となって木に架けられる。
私たちの罪をすべて背負い、イエス・キリストは十字架で死なれる。
これによって人を苦しめる罪の償いは完了し、サタンの頭は打ち砕かれるのです。
イエス様を見上げ、この方こそ私たちの救い主、癒し主であることを思い起こしてください。
見える物に力があるのではない
カトリック教会の十字架にはイエス様が架けられていますね。
十字架が何であるのかを思い起こさせてくれる、わかりやすいシンボルだと思います。
しかしこのシンボルが偶像化してしまうこともあります。
十字架を見たら悪魔が退くとか、魔よけのお守りみたいになってしまう。
十字架という形そのものに力があるわけではないです。
十字架で救いを成し遂げてくださった救い主こそ力あるお方です。
モーセが造った青銅の蛇も、後の時代には偶像化されました。
ネフシュタンと呼ばれ、この青銅の蛇に病を癒す力があると信じられ礼拝の対象になったのです。
青銅の蛇じゃなくて主を礼拝しろと、ヒゼキヤ王はこれを壊しました。
モーセが造ったものが残っていたら歴史的な価値はものすごく高いですが、形あるものはいつか失われていきますね。
生きておられる主に目を留める
見えるものは過ぎ去っていきます。
見えないものにこそ目を留めてください。
十字架という形ではなく、救い主に目を留めるのです。
あの方は十字架の上にいません。
墓に葬られましたが、墓の中にもいません。
復活し、天に上げられました。
今も生きておられるイエス・キリストこそ私たちの救い主、癒し主です。
約束の地を目の前にして荒れ野に戻らなければならないなど、信仰生活は同じことの繰り返しのようです。
苦難が襲い、希望が打ち砕かれてしまう。
それでも神を信頼して進みましょう。この方こそ救い主、癒し主です。
家族や友人の救いのために祈り続けてください。何年かかったとしても、神はその祈りにこたえてくれます。
癒しを願っているなら、神が与えてくださる助けを受けつつ、祈り続けてください。
また聖書を読み、礼拝をささげ、兄弟姉妹との交わりを大切にし、自らをささげる。
この一年も主を見上げて歩んで行きましょう。
希望は失望に終わることがありません。