この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)

私たちには自由が与えられています。

自由なら、何をしてもいいのでしょうか。
もし自由に使える時間や、富や、力があったら、あなたは何に使いたいですか?

自由を得た

聖書は、キリストが私たちを自由の身にしたと言っています。

私たちには神様に従って生きる力がありません。
律法を見れば、罪の自覚が生じるだけです。
たとえば十戒には「あなたは隣人に関して偽証してはならない」とあります。
ウソをつかない人がいますか?私たちは見栄を張るためにウソをつき、自分の過ちをごまかすためにウソをつき、より大きな悪を避けるためにウソをつきます。どうしてもウソをつかなければ仕方がないという状況もあります。それでウソをつくことを正当化することさえします。
このように律法に背かざるを得ない私たちは罪人、罪の奴隷です。

律法はこのような罪人について、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と言います。死の呪いです。

そこでイエス・キリストは私たちの罪を背負い、十字架で死なれました。

「木にかけられた者は皆呪われている」とあります。
キリストは死ぬべき私たちに代わって十字架で血を流し、律法の要求をすべて満たしました。
キリスト自身が呪いとなることで、私たちは死の呪いから解放されました。

さらにキリストは死んで葬られ、3日目に復活しました。
キリストを信じる者は、信仰によってキリスト・イエスに結ばれて神の子です。
もはや罪の奴隷ではなく神の子。
キリストと共に、新しい命、永遠の命の希望をもって生きることができます。

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマの信徒への手紙8:34)

だからキリスト者は、完全に自由なのです。
聖霊によって、すべてが可能です。

しっかりしなさい

キリスト者はこの自由をキリストからいただきました。
行いと関係なく、プレゼントとして与えられました。

私たちは、自分の力で得たものなら好きな時に手放すことも可能でしょう。
たとえ捨てても、また自分の力で手に入れればいいからです。

では自分に全くふさわしくないプレゼントが与えられたらどうでしょうか。
似合わないものというわけではなく、自分の力では手に入れられない素晴らしいものです。
大切にするしかないですね。そのプレゼントはかけがえのないものだからです。
うっかり手放してしまわないように、しっかりしていなければなりません!

キリスト者の自由は、神がキリストの血潮という代価を支払って、私たちにプレゼントしたものです。
まさにかけがえのないプレゼントです。

だから私たちが再び罪の奴隷になって自由を捨ててしまうということは、絶対にあってはならないことです。
しっかりしなさい!

罪の機会にしてはいけない

もしキリスト者が、与えられた自由を罪を犯す機会にしてしまったらどうでしょうか。

完全に自由なので、もちろん罪を犯す自由もあります。
しかもその罪は既に赦されている。
だから何をしてもいい?

しっかりしなさい!

もし人が罪の方へ流れていくなら、それは罪の奴隷になっていることを意味します。
罪という名の奴隷の軛につながれ、的外れな方へ惑わされていくのです。

また注意しなければならないのは、律法という名の奴隷の軛です。

キリスト者はただ恵みにより、信仰によって救われました。
でもそんな都合のいい話がありえるでしょうか。
やっぱり私たちもよい人間にならなければならないのではないか。
聖書をよく学び、熱心に祈り、多くささげる。
そのようなよい行いによって、神に喜ばれようとする。

そうすると、私たちは必ず自分自身の弱さにぶつかります。
しかしその弱さを隠し、もっとよい行いをしようとする。
それでも上手く行かない。
そしてだんだん、喜びも感謝もなくなってしまいます。

しっかりしなさい!

キリストが十字架によって与えてくださった自由は、どこに行ってしまったのですか?
律法という名の奴隷の軛につながってしまうと、信仰生活から自由がなくなってしまいます。
パウロは、私たちが律法で義を得ようとするならキリストの死が無意味になるとさえ言っています。
そんなことがあってはいけないですね。

キリスト者に与えられた自由は、決して罪を犯すためにあるのでもないし、キリストの死を無駄にするためでもありません。

キリスト者の生き方は、罪の奴隷か、義の奴隷、二つに一つです。

知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。 (ローマの信徒への手紙6:16)

それならば、与えられた自由を神に従うために用いていこうではありませんか。
食べるにしろ飲むにしろ、生きるにも死ぬにも、すべてを神の栄光のために用いていく。
自分の力ではなく聖霊の助けを求める。
聖霊により頼み、神に従おうとするとき、私たちはキリスト者の本当の自由を知ることになります。

 

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