クリスマスの時期、街の中はイルミネーションが輝いています。暗闇の中で光を放っています。イルミネーションといえば神戸のルミナリエというイベントが有名ですが、これは1995年から始まりました。同じ年の117日に阪神淡路大震災が起こり、神戸も壊滅的な被害が出ました。その神戸の復興のシンボルとして明かりを灯そうと始まったのが神戸ルミナリエです。暗闇の中に輝く光は希望の象徴ですね。今、私たちの現実も暗闇のようです。しかし暗闇を照らす光があります。

 1 それから、彼はわたしを東の方に向いている門に導いた。2 見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から到来しつつあった。その音は大水のとどろきのようであり、大地はその栄光で輝いた。3 わたしが見た幻は、このような幻であった。それは彼が町を滅ぼすために来たとき、わたしが見た幻と同じであった。その幻は、わたしがケバル川の河畔で見た幻と同じであった。わたしはひれ伏した。4 主の栄光は、東の方に向いている門から神殿の中に入った。5 霊はわたしを引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。6 わたしは神殿の中から語りかける声を聞いた。そのとき、かの人がわたしの傍らに立っていた。
 7 彼はわたしに言った。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。二度とイスラエルの家は、民も王たちも、淫行によって、あるいは王たちが死ぬとき、その死体によって、わが聖なる名を汚すことはない。8 彼らがその敷居をわたしの敷居の脇に据え、彼らの門柱をわたしの門柱の傍らに立てたので、わたしと彼らとの間は、壁一つの隔りとなった。彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした。9 今、わたしのもとから、淫行と王たちの死体を遠ざけよ。そうすれば、わたしは彼らの間にとこしえに住む。(エゼキエル書43:1-9)

 今日の本文は、エゼキエル書40章から語られる新しい神殿の幻の中にある話です。エゼキエル書40章を見ると、これはエゼキエルたちが捕囚になって25年、都が破壊されて14年目のことです。青銅のように輝く姿の人が案内してくれています。

主の栄光が帰って来る

 エゼキエルたちは捕囚になり、バビロンに連れて来られました。それから11年後、南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされました。そしてそのまま14年の歳月が流れています。あわせて25年。四半世紀です。かなり長いですよね。だんだん希望が持てなくなります。もう自分たちの国には帰れない。そもそも自分たちの国はもうないし。エルサレムは焼き尽くされ、神殿も破壊された。
 エゼキエル自身、絶望的なことを幻で見せられていました。エゼキエル書11章で、主の栄光が神殿から去り、東の山の方に出て行ってしまったのです。ユダヤ人にとって、神殿が破壊されてしまったということは、主から見捨てられてしまったかのような絶望的な状況です。

 そんなとき、主は回復の希望を語ります。
 ユダヤ人が思い描く回復とはどのようなものでしょうか。ただユダヤに帰り、エルサレムに住むだけでは回復とは言えません。自分たちの国が欲しい!自分たちの王を立て、その方に治めてもらいたい!そのシンボルになるのが神殿でした。ヘロデ大王は神殿を改修してユダヤ人からの支持を得ました。異邦人のヘロデ大王を王と認めさせるほど、神殿というのはユダヤ人にとって大事なものだったわけです。主はそのような政治的な思惑からではなく、真実な約束として神殿の回復を約束します。

 エゼキエルの幻の中で青銅のように輝く人が現れ、神殿の東の門に連れて行きました。すると、神の栄光が東の方から到来しつつありました。まだ神の栄光が来たわけではありません。来ようとしているところです。しかし神の栄光がすぐそこまで来ていることはわかります。大水のとどろきのような音が聞こえ、大地が輝いていたからです。
 外でピーポーピーポーと音がすると、何が来ているかわかりますね。姿が見えなくても、救急車が近くに来ているとわかります。夜が明けるとき、まだ太陽が見えなくても、これから昇ろうとしていることがわかります。清少納言さんは「枕草子」にこう書いています。「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山際。少し明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる。」夜明けの様子ですね。太陽は見えなくても、東の山や雲がその光を受けて輝くので、太陽が来ているのだとわかります。
 だからその音と輝きから、東の方から主の栄光が来ているのだとわかるのです。
 エゼキエルが幻の中で見た主の栄光は、町を滅ぼしに来たときと、ケバル川の河畔で見たときと同じだとあります。ケバル川の河畔で見たのはどんな幻だったでしょうか。それは王座のようなものの上にいる人のような姿のものでした。「~のような」が連発していて、すごく曖昧な表現です。表現する言葉が見つからなかったようです。うまく説明できないけど、とにかく栄光に輝く、王にふさわしい存在だったということなんですね。

 その方が東の方からエルサレムに来る。
 福音書のある場面が思い出されます。イエス・キリストのエルサレム入城です。イエス様はイスラエルの王としてエルサレムに入りました。そのとき来た方角が、エルサレムの東でした。このときイエス様はロバに乗っていました。その姿には、王としての栄光はありません。しかし群衆がナツメヤシの枝を持ち、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と叫んで歓迎したことで、これが王としての入城だったのだとわかります。ファリサイ人たちはイエス・キリストに、群衆を黙らせるよう言いました。しかしイエス・キリストは答えます。「この人たちが黙れば、石が叫び出す。」
 神の栄光が来たなら、この自然は主を賛美せずにいられません。その栄光に照らされ、石ころも大地も輝かざるを得ないのです。
 今、私たちの現実は悲しみと惨めさに満ちています。病気、突然の事故、自然災害が私たちを襲います。突然、愛する家族を失うこともあります。その悲しみが癒されないうちに、さらなる悲しみが続くこともあります。絶望の谷底に落とされ、枯れた骨のように力を失います。真っ暗で、希望が持てなくなります。しかし、夜明け前が一番暗いです。そして明けない夜はないことを私たちは知っています。その暗闇の中に輝く光があります。
 『8 わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして
  あなたに賛美の歌をうたいます。
  9 目覚めよ、わたしの誉れよ/
  目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
  わたしは曙を呼び覚まそう。』(詩編57:8-9)
  
暗闇のこの世界に、光が来ました。まだこの世界に暗闇が残っていても、声と輝きによって光が来たことを知らせることができます。
 目を覚まし、起き上がり、この光が来たことを賛美するとき、主の栄光で大地が輝きます。

神の国が来た

 主の栄光が神殿の中に入ると、神殿は主の栄光で満たされました。旧約聖書の中で同じような場面が2回ありました。モーセが幕屋を建てたときと、ソロモンが神殿を建てたときです。幕屋や神殿はこの地上に目に見える形で存在していましたが、そこに主の栄光が満ちていました。
 エゼキエルは神殿から語りかける声を聞きました。幕屋や神殿は主の栄光で満ちていただけではありません。そこは神と人が出会う場所でもありました。モーセは臨在の幕屋で、まるで友だちが話すように、神と顔と顔を合わせて語り合いました。主の栄光がこの地上に来ると、神は人の間に住み、親しく語り合うのです。
 神殿から語る声は、「ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である」と言います。主ご自身が王となって、民を治めるわけです。
 そして天におられる神が、この地の上に立つ。
 すると神はどこにいますか?天にいるし、地上にもいます。イメージできますか。上半身は天で下半身は地、あるいは頭は天で体は地、みたいに切り離してはいけません。神がいるところは天であり、地である。神殿において、天と地が一つになっているのです。
 だから主は、地上のあらゆる支配、権威、勢力、主権の上に立っています。今はまだバビロンの支配下にあるとしても、主はネブカドネザル大王のさらに上に立っています。この世界が暗闇に支配されても、主はその上に立ちます。

 この神殿はイエス・キリストの体を指し示しています。
 『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。』(ヨハネによる福音書1:14)
  
神が人の間に住み、人々と語り合いました。そのお方には父なる神の栄光が満ちていました。
 エルサレムに入城したイエス様は神殿に行き、「この神殿を打ち壊してみよ、3日で立て直してみせる」と宣言しました。ところがイエス・キリストは人々の手で十字架につけられ処刑されてしまいます。神の独り子としての栄光は見る影もありません。まるでこの世の国に敗北してしまったかのようです。しかしイエス・キリストは死んで3日目に復活しました。イエス様が話した神殿とは、ご自分の体のことだったわけです。
 イエス・キリストは死の力をも打ち破り、高く上げられ、あらゆる名に勝る名を与えられた王の王、主の主です。

 キリストの体とは、教会を表す言葉でもあります。
 『教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。』(エフェソの信徒への手紙1:23) 
 主の栄光は私たちの間に満ちあふれています。私たち一人一人の内にも、神の栄光は満ちています。驚くべき約束ですね。インマヌエルの神が、私たちの間に共にいます。今も私たちがいるところに、神の栄光が満ちています。私たちが存在するところで、天と地が一つにされています。
 そしてそこは主の王座のあるべき場所、主が治めるべきところです。私たち一人一人を通して御心が天で行われるように、地で行われます。
 私たちがイエスを主として受け入れるとき、この地に神の国が臨むのです。

神は永遠に共に住む

 主は、なぜ神殿から離れ、イスラエルを滅ぼしたのかを語ります。「彼らは忌まわしいものを造って、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって彼らを滅ぼした。」
 かつて南ユダ王国で、人々は神を捨て、偶像に従いました。オホラとオホリバの話を覚えていますか。夫を捨てて他の男とみだらなことをした人のように、北イスラエルも南ユダも、主を捨てて人の作った神や他の国を頼りにしました。さらに南ユダのマナセ王は、偶像を神殿の中に置くことさえしました。エゼキエルが幻で見たときにも、神殿の壁に動物を描き、それを拝む人々がいました。神殿の中の至聖所と呼ばれる部屋には、契約の箱とケルビムがいました。そのケルビムの上に主が臨在すると信じられていました。ところがその至聖所のすぐ隣で、偶像が拝まれていました。かなりショックでしょう。となりの部屋で浮気しているわけです。
 想像してみてください。彼女とレストランにごはんを食べに行きました。ちょっとトイレに行って帰ってきたら、彼女は隣のテーブルに行って他の男と楽しそうにごはんを食べている。どうですか。どういうつもりなの?もうこの人とはつき合ってられない!と思いますよね。怒って店を出て行ってしまうでしょう。こうして主の栄光は去り、エルサレムは破壊されました。

 このことを忘れてはいけません。主の栄光が来ても、私たちは自分でそれを捨ててしまうのです。壁を作り、壁の中でこっそり楽しみたい。暗闇がいい。光はまぶしすぎる。朝が来ても、布団の中にいたいですね。布団の中にもぐってしまったら、朝が来たこともわかりません。ずっと暗闇です。
 クリスチャンは光を持っています。しかしクリスチャン自身が、この光を隠してしまうこともあります。これは大事な光だ。汚れたものに触れないように、大切に守ろう!そして壁を作り、自分たちの建物の中だけで楽しむ。教会が教会員だけのクラブになってしまうことはありませんか。そして世の人、今まさに光を必要とする人を排除してしまってはいないでしょうか。

 イエス・キリストは、ともし火をどこに置くように言ったのでしょうか。升の下に隠すようには言いませんでした。燭台の上に、家中を照らせるところに置くように言いました。
 だからあらゆる壁を壊し、光を輝かさなければなりません。
 この光を最初に受け取ったのは誰でしたか。立派な宗教指導者たちでしたか。いいえ、ベツレヘムの郊外で野宿をしていた羊飼いたちを、主の栄光が照らしました。東の国から旅をしてきた異邦人の学者たちは、輝く星を見つけました。福音は教会員だけの特権ではありません。すべての人のための喜びの知らせなのです。
 壁を壊し、光を輝かせるためにこそ、イエス・キリストは十字架で血を流し死なれました。
 この世界には悲惨があります。問題があります。しかし全ての問題に解決を与える光が来ています。私たちはその光を持っています。ここに留まっていてはいけません。
 『1 起きよ、光を放て。
  あなたを照らす光は昇り/
  主の栄光はあなたの上に輝く。
  2 見よ、闇は地を覆い/
  暗黒が国々を包んでいる。
  しかし、あなたの上には主が輝き出で/
  主の栄光があなたの上に現れる。』(イザヤ書60:1-2)
  目を覚まし、起きて、立ち上がり、壁の外に出て行こう。壁を壊しに行こう。壁の中に隠された悪を明るみに出そう。
 私たちの上に主の栄光が輝いています。私たちはこの栄光を反射し、この世の暗闇に光を輝かせるのです。

 暗闇の世の中で、私たちはイエスを主として迎えます。主の栄光は私たちの間に満ちています。これを持ってこの世に出て行くとき、主の栄光で大地が輝きます。

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