聖書の知識ではなく、主の心を知る

 最近、ひとりの若者と対話する機会がありました。彼は教会にも行ったことがあり、聖書も読んだことがあり、洗礼も受けたそうです。日本でクリスチャンというのはなかなかレアな存在なので、うれしかったです。私は彼と聖書の話をしました。共通の話題なので盛り上がるだろうと思いました。しかし反応がどうも変です。「うん、それね。知ってる知ってる。」「あー、聞いたことあるやつだ。」私は彼に、罪について聞いてみました。「○○さんは自分に罪があると感じたことがありますか?」と。すると彼は「昔ね、聞いたことあるんですよ」と言いました。どうやら彼は聖書の話を聞いたことがあるだけ、罪があるということも知っているだけのようでした。
 私たちは神さまを、イエスさまを知らなければなりません(ヨハネ17:3)。ここで求められている「知る」ということは、ただ知識として知るということではありません。相互の信頼関係に基づく全人格的な交わりを指します。イエスさまを信頼し、人格的な出会いを体験するのです。しかし私たちは聖書をただの知識で終わらせてしまうことがあります。神さまは私たちを愛しています。はい、聞いいたことがあります。私たちは罪人です。はい、知っています。イエスさまは私たちの罪のため十字架で死に、復活しました。はい、学びました。そこで止まってしまえば意味がありません。果たして神の愛に撃たれ、自分の罪に悶え、復活の主に生かされる体験をしているでしょうか。イエスさまの時代の律法学者たちは聖書をよく知っていました。しかし彼らは聖書を知りませんでした。主の心を知らなかったからです。
 ソロモンは民に対して「あなたたちはわたしたちの神、主と心を一つにし、今日そうであるようにその掟に従って歩み、その命令を守らなければならない。」と命じました。キーワードは「主と心を一つに」するということです。律法の知識や形式的な行いが求められているのではありません。主と心を一つにし、主と共に歩むのです。ただ聖書を読むだけではなく、日々イエスさまと共に歩んでいきたいです。
あなたたちはわたしたちの神、主と心を一つにし、今日そうであるようにその掟に従って歩み、その命令を守らなければならない。(列王記上8:61)

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