Blogビジョンと使命主日説教

あなたの神に出会ったか

教会のビジョンと使命1

あなたの神に出会ったか

ヨハネによる福音書20:24-29

24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

一人一人が神様と親密に出会う教会になる

 今日から教会のビジョンと使命についてのシリーズを7回語っていきます。
 週報の表紙に「一致・調和・宣教」と書いてあります。これがヨハン浜松キリスト教会に与えられたビジョンです。

 一致とは何か。教会が一致するということです。
 まず一人一人が神様とつながる一致。そして教会の中で互いに一致する。それから他の教会と一致する。

 調和とは私たちの信仰と生活が調和するということです。
 それぞれが教会から派遣され、生活の場所でキリストのかおりを放っていきます。

 宣教はこの社会・世界に影響を与えていきます。
 次の世代の若者や子どもたちに信仰を受け継ぎ、キリストの弟子を立てていきます。

 私たちの教会はこのようなことを大事にしています。
 そのビジョンを成し遂げていくための教会の使命7つを、神様の言葉から受け取っていきましょう。
 まずは「一人一人が神様と親密に出会う教会になる。」ということです。

健全な疑いを持つ

 皆さんの信仰は何を土台にしているでしょうか。
 教会や牧師から教えられたことを素直に信じているでしょうか。あるいはお父さんお母さんが信じているものをそのまま信じているでしょうか。そのような純粋さもいいです。
 しかし親も牧師も人間であり、教会は人間の集まりです。間違えることがあります。
 教会が、地球が宇宙の中心で太陽も地球の周りを回っていると教えていた時代がありました。しかし実際は地球が太陽の周りを回っています。そういう間違ったことを教えてしまうこともあります。
 牧師が間違ったことをすることもあります。
 尊敬するお父さんお母さんが、教会と家で態度が違う。
 そのとき、信仰の土台がガラガラと崩れてしまうかもしれません。人間に依存した信仰は危険です。

 これは信仰だけではありません。学校で教えられることもそうです。
 三角形の内角の和は180°だと教えられます。しかしそれはユークリッド幾何学という世界の中の話で、三角形の内角の和が180°より小さい世界や大きい世界も考えることができます。
 これは長い間数学の教科書として使われていたユークリッドの「原論」に疑いを持った人たちによって解明されてきました。
 歴史の話や進化論なども、本当にそうなのだろうかと疑問を持つと違った視点が見えてくるかもしれません。
 テレビやインターネットで見聞きする情報も、本当にそうなのだろうかと疑いを持つことは大事です。
 疑いを持ち、真実を探求しようとしていくとき、変わることのない真理に出会うかもしれません。

本当かどうか確かめてみる

 今日の本文はイエス様の弟子トマスが疑いを持ち、神様に出会った話です。
 イエス様は十字架につけられ、死んで葬られました。
 弟子たちはエルサレムのある部屋に閉じこもっていました。ユダヤ人に捕まり、自分たちも処刑されるかもしれないと恐れていました。部屋の入口には鍵をかけていました。
 ところが3日目の夕方、その部屋の真ん中にイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。
 そして手とわき腹を見せてくれました。そこには十字架につけられた時の釘の跡と、槍で刺された時の傷跡が残っていました。まさしくイエス様です。
 しかしどうやって部屋の真ん中に来たのでしょう。入口には鍵をかけていたのです。
 イエス様は新しい体、栄光の体をもって復活されたのです。

 そのときトマスは一緒にいませんでした。
 トマスが帰って来た時、イエス様はもう姿を消していました。それで他の弟子たちが口々に言います。「おいトマス、どこに行ってたんだ?すごいニュースがあるんだ」「私たちは主を見た!」「部屋の真ん中に現れて、平和があるようにって挨拶したんだ。」「嘘じゃない、手とわき腹を見せてくれた!」
 ところがトマスは言います。「勘弁してくれよ。そんな冗談笑えない。ストレスでおかしくなっちゃったんじゃないか。イエス様は確かに死んで葬られたんだ。鍵のかかった部屋の真ん中に現れるなんてありえない。手とわき腹を見たって?見ただけ?俺はこの目で見るだけじゃなくて、釘の跡に指を入れてわき腹に手を入れないと絶対に信じないよ。」
 これがトマスという弟子の性格です。仲間の話も無条件には信じません。疑いを持ちます。わからないことは正直にわからないと言います。
 イエス様が十字架につけられる前、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言ったときにもトマスが「いやいや、どこに行くつもりですか?道って何ですか?」と聞きました。そこから「わたしは道であり、真理であり、命である。」という重要な言葉が出てきました。
 イエス様が弟子たちの間に現れたとき、トマスはどこにいたのでしょうか。ユダヤ人に捕まるかもしれないという危険を冒してまで、トマスはなぜ出かけたのでしょうか。聖書には詳しいことは書かれていません。
 この日の朝、マグダラのマリアが復活したイエス様に出会っていました。そして弟子たちのところに来て「私は主を見ました」と報告しました。
 もしかしてトマスは、それを確かめに行っていたのではないでしょうか。本当のことはわかりませんが、トマスは疑いを持ち、それを確かめるために質問をしたり調べたり行動を起こす人でした。

聞いた話を確かめに行き神に出会う

 健全な疑いを持つことは大事です。
 教会で教えられたこと、牧師が言ったこと、聖書に書いてあることは本当だろうか?
 牧師が説教で語ったことを無条件に信じ込むのではなく、聖書を開いて自分でも読んでみる。そして自分の生活の中で確かめてみる。
 わからなければ牧師に質問してもいいし、他の人に聞いたり本で調べたりしてもいいです。
 天使たちから「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と聞いた羊飼いたちは、「ああそれはありがたいお話だ。ハレルヤアーメン。」で終わりませんでした。

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。

ルカによる福音書2:15

 聞いた話が本当がどうか確かめに行き、彼らはイエス様に出会ったのです。
 自分で行動を起こしてください。自分で聖書を読んでみてください。
 牧師が言ったから信じるではなく、あなたの神に出会うのです。
 親の宗教だから信じるではなく、あなたの神に出会うのです。

わたしの主、わたしの神との出会い

 イエス様が復活したと聞いてから、トマスは色々調べたと思います。旧約聖書から死んだ人が生き返る話を調べたり、復活に関する預言を調べたりしたでしょう。空になった墓に行ってみたり、エマオ村に行く途中でイエス様に会ったクレオパたちからも話を聞いたかもしれません。祈りもしたでしょう。しかし本当のことはわからない。
 そういう悩みの時期を過ごしました。
 そして8日後、弟子たちはまた同じ部屋に集まっていました。入口には鍵がかかってあります。前と同じ状況です。
 1つ違うのは、トマスもいたということだけです。
 そこに再びイエス様が現れました。そして前と同じように「あなたがたに平和があるように」と言われました。8日前にも同じことしましたよね。
 これは、本当かどうか疑っていたトマスただ一人のためだけに現れてくださったと言えます。
 そしてトマスに言います。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」ご自分が本当に復活したということを示してくださいました。
 もう疑いをはさむ余地はありません。
 トマスは自分で出会いました。復活のイエス様に。
 そして告白します。「わたしの主、わたしの神よ」と。

 イエス様を「わたしの主、わたしの神」と告白できますか。
 外国の神ではない。親の神ではない。私の神。そのような個人的な出会いをしていますか。
 今世界中には20億人以上のキリスト教徒がいます。神様はあなたを20億分の1として見ているのではありません。あなたただ一人のために出会いに来てくださいます。
 イエス・キリストは私のために十字架で死なれ、私のために復活されたのだ。

聖書や祈りを通して神に出会う幸い

 私たちは直接この目でイエス様を見ることはできません。
 しかし聖書を通して、祈りを通して、神様に出会います。
 礼拝において私たちは神に招かれ、神に出会い、神によって遣わされていきます。
 イエス様は言いました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 私の主、私の神に出会いたい。そのように求め、見ないで信じる幸いを得てほしいです。

決して揺るがない信仰の土台

 教会はエクレシア。人の集まりです。共同体としての意識はとても大事です。
 しかしそれを形づくるのは私たち一人一人です。
 聖書の中でイエス様が最初に教会という言葉を使ったのはどのような場面だったでしょうか。
 それはイエス様が弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞き、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたときでした。
 それに対しイエス様が

わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。

マタイによる福音書16:18

と言いました。
 「イエスは主」この信仰告白の上に教会が建てられると言えます。
 これは決して揺るがない土台です。
 試練が襲ってきても誘惑にあっても、牧師が間違ったことを言っても、罪に倒れることがあっても、揺るぎません。
 あなたの神に出会ってください。

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