いのちある教会

いのちある教会

使徒言行録 2:1-4, 42-47

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

教会は生き物のよう

アメンボだって生きているんだ

 私たちの教会は生きているだろうか。そのような問いをもって、教会とは何かということを神様の言葉から聞いてきました。
 しかしそもそも教会は生き物でしょうか。
 教会という名の動物も植物も菌も存在しません。のんほいパークに行っても教会は展示されていません。
 生き物ではないのに教会が生きているかというのは、的外れな問いのように思えます。

 ここで一度、生き物とは何かということを考えてみます。
 生き物の持つ基本的な特徴として

  • 自分と外との隔離がある
  • エネルギーを変換する能力を持つ
  • クローンや子孫を作って増えることができる

の3つがあげられます。
 人は皮膚で覆われ、呼吸や食事をし、子どもを産んで増えます。
 細菌も膜で覆われ、栄養を取り込み、分裂します。
 教会はもちろん生き物ではないのですが、これらの特徴を当てはめることができます。
 教会はキリストの体であり、いのちを持っているのです。

教会を形作る膜

 今日は教会の誕生の場面から見ていきます。まさに教会が産声をあげ、この地上で生命活動を始めた場面です。
 それは五旬祭、ペンテコステの日に一同が一つになって集まっていたところで起こりました。
 120人ほどの弟子たちが心を合わせ熱心に祈っていたのです。
 彼らはイエスを主と告白する人たちです。
 教会がただの人の集まりと違うのは、「イエスは主」という信仰告白の土台の上に建てられているということだと先週話しました。この信仰告白によって教会は他の組織と区別されます。

キリストの言葉から信仰の共同体が形作られる

 この「イエスは主」という信仰告白はキリストの言葉によって形作られます。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

ローマの信徒への手紙10:17

 神の言葉そのものであるキリストの言葉によって信仰が与えられる。
 その人たちが一つになって集まる。こうして教会が形作られます。
 信仰告白を皮膚のようにして、教会は外と区別されます。

あらゆる生き物が神の言葉から生まれる

 神の言葉によって生き物が形作られるというのは、教会だけの特殊な話ではありません。聖書はあらゆる生き物が神の言葉によって生み出されたと語っています。
 創世記1章で神が命じると植物が芽生え、水、空、陸の生き物が生み出されました。

膜によって体を守る

 人間の体は皮膚で覆われています。口などから体内に入り込むことができても、やはり体は膜で覆われています。
 もし異物が皮膚や膜を通過して体に侵入しようとするなら、免疫が働いて排除します。
 花粉などに過剰反応してしまうこともありますが…。

 皮膚が破られ異物が体に入り込むと大変なことになります。
 ある寄生虫はカタツムリに寄生します。
 カタツムリの体に入り込むと触覚に移動し、行動を支配します。
 そして宿主をわざと目立つところに行かせ、鳥に食べさせます。
 寄生虫がカタツムリの体を支配し、滅ぼさせるのです。

 もし教会がイエスではないものを主としてしまうなら、キリストの体は寄生虫に支配されます。
 イエスを主とし、キリストの体を保護しなければなりません。

 キリストの言葉を聞いた者から生まれる「イエスは主」との信仰告白、それが教会を形作る膜です。

教会の原動力

 弟子たちがエルサレムに留まっていたのは、キリストの言葉があったからです。

わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

ルカによる福音書24:49

 またイエス様は、聖霊が降ると力を受けると約束されました。
 そしてペンテコステの日に、約束された聖霊が降ったのです。
 この聖霊の力なしに教会は活動できません。

 逆に聖霊が降ると、教会は産声をあげ、生き生きと生き始めます。
 聖霊に満たされた弟子たちは他の国々の言葉で神を賛美しました。
 ペトロは大胆にキリストの十字架の死と復活を証ししました。
 彼は50日前までイエスを知らないと言い、引きこもっていました。別人のように人が変えられました。
 聖霊の力で人は新しく生まれ、生き始めます。

呼吸によって活動する力を得る

 生まれたばかりの赤ちゃんがオギャー!と産声を上げるのは、肺で呼吸をし始めた証拠です。
 母親のお腹の中ではへその緒から酸素と栄養をもらっていました。そこから出てこの世界で生きるために息を吸って吐きます。
 初めて息を吸った赤ちゃんはオギャー!と叫ばずにはいられません。

 次男の出産に立ち会ったとき、生まれてから産声を上げるまでがものすごく長く感じました。
 命を与えてくださる神様が次男に息を与え、産声を上げさせてくださいと祈りました。

 日本語の「命」という言葉は「息の内」から来ているという説があります。
 命は息を与えられて始まり、息を引き取って終わります。

神の霊によって本当に人は生きる

 エゼキエルの目の前に枯れた骨がありました。それはカルシウムの塊で無機物です。命はありません。
 エゼキエルが神の言葉を語ると、枯れた骨に肉がつき皮膚が覆いました。
 しかし命はありません。有機物ではありますが、ただのたんぱく質の塊です。
 次に「霊よ吹き来たれ」と命じると、肉の中に霊が入りました。
 霊が入ったとき、たんぱく質の塊は生き返って立ち上がりました。

 神が人間を造られたとき、神は人を形づくった後に仕上げとして命の息を吹き入れます。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

創世記2:7

 この息という言葉は霊と訳すこともできます。
 神の霊によって、人間は生きる者になりました。
 人を本当に生かすのは聖霊です。

 教会が聖霊の力を求めずに活動しようとするなら、それは息を吸わずに生きようとするようなものです。すぐに行き詰まり、倒れます。
 教会の原動力は聖霊です。

教会は新しい命を生み出す

 聖霊に満たされたペトロはイエス様を証しせずにはいられませんでした。
 その説教を聞いて3000人が弟子に加わります。
 今日の本文の46,47節に「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とあります。
 教会は迫害によって散らされますが、その先々で弟子たちはキリストの福音を伝え、聖霊が働き、教会が生み出されていきました。
 エルサレムで誕生した教会は新しい弟子を産み、新しい教会を生み出し、地に満ちていきました。

産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ

 神は生き物が子を産み増えることを願っています。
 人を造るときはこう言いました。

神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

創世記1:28

 子を産み増えることはあらゆる生き物への神の祝福です。
 特に人間には世界を治める役割が委ねられています。

 しかし人間は罪を犯し堕落しました。
 罪ある人間に神の御心を行うことはできません。
 子を産むことは苦しみとなり、80億人にまで増えた人間は世界を破壊しています。

罪赦され神の子とされた者たちが地を治める

 神の言葉によって造られたこの世界を治めるためには神の言葉に従う必要があります。そして壊れたこの世界を回復するためにも神の言葉が必要です。
 神から離れ滅びへ向かう人間を救うために、神の言葉であるイエス・キリストが人とりました。
 イエス・キリストの十字架の死によって罪赦された私たちは、復活のキリストと共に新しい命に生かされています。そしてキリストの体として神の御心を地上で行っていきます。
 神の子たちを産み増やし、世界を祝福し、すべてが生きる神の国を建て上げるのです。

 だから教会は産み、増えていきます。教会は新しいキリストの弟子を生み、育てます。
 教会は弟子を派遣し、新しい教会を生み出していきます。

教会は限りなく新しい命を生む

妊婦さん

 人間には子を産むことができる時期があります。それを過ぎると子どもを産むことはできません。
 自分たちの教会は新しい命を産める時期ではないなどと考えないでください。
 サラは子どもを産めない年齢でした。しかし神が命を与え、90歳でイサクを産みました。
 おとめマリアは聖霊によってみごもりました。
 人間の場合は様々な事情で子どもを産めない人もいますし、産まないという選択も尊重すべきです。
 教会の場合、生きている教会が新しい命を生み出すのは自然なことです。
 キリストの花嫁である教会は、限りなく新しい命を生み出すことができます。

 教会は新しい命を生み出します。

 このように教会も「自分と外との隔離がある」「エネルギーを変換する能力を持つ」「クローンや子孫を作って増えることができる」という生き物の特徴を持っています。
 これがキリストの体の健全な状態です。
 イエスを主とし、聖霊の働きを求め、新しい命を生み出す。健全な教会を建て上げていきましょう。

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