Blog主日説教

この目で救いを見たのだから

この目で救いを見たのだから

ルカによる福音書2:25-38

25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31 これは万民のために整えてくださった救いで、32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

悔いなく終われるか

カトリック玉造教会にある「最後の日のガラシャ夫人」(堂本印象作)

 今年の大河ドラマは「麒麟がくる」です。明智光秀が主人公です。
 明智光秀の娘である玉は、細川忠興と結婚しました。そこでキリシタンの教えを聞き、洗礼を受けます。そして細川ガラシャと名乗りました。
 徳川家康と石田三成が対立すると、細川忠興は徳川に味方しました。
 徳川家康たちが東北に兵を出している間、石田三成は細川忠興の家を包囲しました。そこで細川ガラシャは命を落とします。
 最期にガラシャはこのような歌を残しました。
「散りぬべき 時知りてこそ 人の世の 花も花なれ 人も人なれ」
 花は散る季節を知っているからこそ美しい。私もそうありたい。そのような意味です。
 この世を去る時が来たことを悟り、覚悟を決めているようです。

 人生には終わりが来ます。その時に「わが生涯に一片の悔いなし!!」と言えたらいいですね。
 この世を去る時がいつかはわかりません。しかし2020年は今日を入れてあと5日で終わります。
 時が来れば散る花のように、悔いなく2020年を終えることはできるでしょうか。

救いを見たシメオン

 今日の本文はイエス様が生まれた後、神殿でささげられたときの出来事です。
 出産後40日のきよめと、初めての子を主にささげる儀式を受けるためでした。
 ヨセフとマリアは貧しかったので、ハトをいけにえとして持って行きました。
 そこでシメオンとアンナという2人の高齢者に出会います。

安心してこの世を去れる

 シメオンさんは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」と紹介されています。
 メシアが来るのを待ち望み、メシアに会うまでは決して死なないと約束されていたのです。
 そのシメオンさんが聖霊に導かれて神殿の境内に入ってきました。ちょうどそのとき、ヨセフとマリアが幼子イエスを抱いて神殿に来ました。
 それでシメオンさんは幼子を抱いて、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と言います。
 ちょっと話の展開が急すぎますけど、シメオンさんはこの赤ちゃんがメシアだと理解しています。
 彼らに面識はありません。周りの誰も、この子がメシアだと教えていません。赤ちゃんにメシアとしての風格なんてもちろんありません。むしろいけにえにハトしかささげられない貧しい家の赤ちゃんにしか見えません。
 シメオンさんはじっと観察して見極めたわけでもなく、ちょうど同じタイミングで来て、メシアだとわかったのです。
 それはシメオンさんが待ち望んでいたからではないでしょうか。
 たくさんの人がいても、愛する人の姿はすぐわかります。
 ショッピングモールに買い物に行って家族と別行動を取っても、たくさんのお客さんの中から家族を見つけ出すことができます。運動会でたくさんの子どもたちが競技をしていても、親は自分の子どもを見分けます。愛しているからです。
 シメオンは神様を愛していました。だから神ご自身であるイエス様が来たとき、すぐわかったのではないでしょうか。たとえ赤ちゃんの姿でも、この方が救い主だとすぐにわかったのだと思います。

神ご自身に出会った

 シメオンさんは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。」と言いました。「安心してこの世を去れます」と言い換えてもいいでしょう。もっと直接的に言えば、「私はもう死んでもいい」ということです。
 その理由として「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と言っています。
 シメオンさんはイエス様の働きを何も見ていません。奇跡を見たわけでも十字架や復活を見たわけでもありません。イエス様の言葉を聞いたわけでもありません。オギャーという声は聞いたかもしれませんが。
 それでも救いを見たと言いました。神ご自身に出会ったからです。
 神に出会ったなら、「わが生涯に一片の悔いなし!!」なのです。

 人生で何を成し遂げたかが問題ではありません。夢を成し遂げ、したいことをし、ソロモンのように偉大な業績を残したとしても、人生は空しいです。逆に思った通りのことができなかったとしても、突然の事故で財産も家族も健康も奪われたとしても、「主は与え主は奪う、主の御名はほめたたえられよ」と言える人生もあります。
 神に出会ったならそれで十分なのです。救いの神に出会ったなら、私たちの人生は意味あるものになります。

17 いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。18 しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。

ハバクク3:17-18

 収穫がなくても家畜がいなくてもハバククは喜び踊ることができます。
 それは主を知っていたからです。

 2020年が終ろうとしています。
 思い通りに行ったという方はいますか?
 計画通りにいかなかった。苦労が多かった。そのような一年だったかもしれません。
 それでもこの目で救いを見ることができたのなら、感謝をもって一年を締めくくることができるでしょう。
 具体的に状況がよくならなかったとしても、私たちのために十字架で死なれ復活された主に出会ったなら、喜び踊ることができます。

何も持っていなくても喜びあふれる

 もう一人アンナさんというおばあちゃんが出てきます。彼女は84歳でした。7年間結婚していましたが死に別れ、その後は未亡人として暮らしていました。
 何歳で結婚したかはわかりませんが、おそらく10代だったでしょう。仮に17歳で結婚していたとしたら夫を亡くしたのが24歳。それから60年間は独り身です。
 何と孤独な人生でしょう。
 アンナさんもヨセフとマリア、幼子のところに近づき、神を賛美します。
 シメオンさんは幼子を抱きました。しかしアンナさんは近づいたとしか書いてありません。
 もしかすると赤ちゃんを抱いて落としてしまわないかと心配したのかもしれません。84歳ですから、それほど力がなかったということは考えられます。
 彼女には夫もなく、財産もなく、力もありませんでした。
 そんな彼女が幼子イエスに出会い、神を賛美し始めました。そして神殿に来る人々に幼子のことを語り伝えました。
 何も持っていないように見える彼女が、喜びに満たされています。
 それはこの目で救いを見たからです。イエス様に出会ったからです。

神を体験しているか

 神様を知っていますか。
 私たちは教理を学び、洗礼を受けます。信仰告白は、知識があればできます。
 しかし神を知るというのは、ただ知識の問題ではありません。
 主がエゼキエルなどの預言者を通して繰り返し語った言葉があります。「そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる」という言葉です。
 体験をもって、主を知るのです。
 自らの罪を自覚し、そこから救い出してくださる神に出会います。
 そのためには、御言葉を聞いて行うこと、祈ることなど神と交わることが必要です。

祈りと御言葉で神に出会う

 クリスマスの前に共に祈る時間を持ちました。祈りと御言葉でクリスマスを備えた方は、体験したと思います。
 神様が私のために人となって来られたこと、イエスこそ主であること、神様は今日も生きておられることなど。
 先週のクリスマス礼拝で洗礼式もありました。一人の人がイエス様を信じ救われ、洗礼を受けるというのは簡単なことではありません。祈りの支えが必要です。洗礼を受けるまでに色々なことがありました。皆さんの祈りの支えで洗礼式が守られて感謝です。
 一人の魂の救いのために祈るとき、天で大きな喜びがあるということがよくわかると思います。
 祈りと御言葉で神に出会っていきましょう。

 この2020年の終わりの時、今一度御言葉と祈りで神に出会いましょう。
 この目で救いを見た私たちは喜び、証人として歩み出します。

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