なす術なくても主を見上げる

歴代誌講解55

なす術なくても主を見上げる

歴代誌下 20:1-19

1 その後、モアブ人とアンモン人が、メウニム人の一部と共にヨシャファトに戦いを挑んだ。2 人々が来て、ヨシャファトに、「死海のかなたのエドムから大軍が攻めて来て、ハツェツォン・タマル、つまりエン・ゲディにいます」と告げると、3 ヨシャファトは恐れ、主を求めることを決意し、ユダのすべての人々に断食を呼びかけた。4 ユダの人々は主を求めて集まった。ユダのすべての町から人々が主を求めて集まって来た。5 ヨシャファトは主の神殿の新しい庭の前でユダおよびエルサレムの会衆の中に立ち、6 こう祈った。「わたしたちの先祖の神、主よ。あなたは天にいます神、異邦人の国をすべて支配しておられる方ではありませんか。御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません。7 わたしたちの神よ、あなたはあなたの民イスラエルの前からこの地の先住民を追い払い、この地をあなたの友アブラハムの子孫にとこしえにお与えになったではありませんか。8 彼らはここに住み、ここにあなたの御名のために聖所を建てて言いました。9 もしわたしたちが裁きとして剣、疫病、飢饉などの災いに襲われたなら、この神殿にこそ御名がとどめられているのですから、この神殿の前で御前に立ち、苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます。あなたはそれに耳を傾け、救ってください。10 今、アンモン人、モアブ人、セイルの山の人々を見てください。かつてイスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、あなたは彼らの土地に入って行くことをお許しになりませんでした。そのためイスラエル人は、彼らを避け、滅ぼさずにおきました。11 御覧のように、今彼らはわたしたちに報いて、あなたがわたしたちにお与えになったこの土地から、わたしたちを追い出そうと攻めて来たのです。12 わたしたちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか。わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」13 ユダのすべての人々がその幼子も、妻も、息子と共に主の御前に立っていた。14 その会衆の中で、アサフの子孫のレビ人ヤハジエルに主の霊が臨んだ。ヤハジエルの父はゼカルヤ、祖父はベナヤ、更にエイエル、マタンヤとさかのぼる。15 彼は言った。「すべてのユダよ、エルサレムの住民とヨシャファト王よ、よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。16 明日敵に向かって攻め下れ。見よ、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたたちはエルエルの荒れ野の前、谷の出口で彼らに会う。17 そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。』」18 ヨシャファトは地にひれ伏し、すべてのユダとエルサレムの住民も主の御前に伏して、主を礼拝した。19 レビ人のケハトの子孫とコラの子孫は立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。

カルトに注意

怪しい儀式のイメージ

 統一教会が話題になっています。
 現在は世界平和統一家庭連合という名称になっていますが、かつては世界基督教統一神霊協会と言いました。
 文鮮明が韓国で創設した新興宗教です。基督教という名がついていますし聖書も使います。しかし文鮮明が書いた原理講論という本を重視し、文鮮明を再臨のメシアであると教えます。ですからキリスト教ではない、異端の宗教ということになります。
 キリストについて間違った教えを広める異端は、キリスト教会から見ると悩ましい存在です。しかし世間一般で問題になることはありません。信教の自由は保障されていますから、どのような教えを信じようが自由です。
 統一教会は異端というだけでなく、カルトというところに問題があります。
 カルトとは、構成員の自由を侵害し、構成員の自律した思考や行動を制限することによって破滅的な被害を生じさせる団体です。
 統一教会の活動も様々な被害を生じてきました。大学内の一般的なサークルや街頭インタビューを装った偽装勧誘、霊感商法で高額なツボや印鑑を買わせる、合同結婚式など。
 私が子どもの頃にも話題になり、危険な宗教団体ということが広く知られました。
 私の親の世代の人たちは、私が韓国系の教会に行き始めたと知ると「統一協会じゃないだろうね!?」と聞いたものです。
 カルトはその構成員だけでなく周囲の人にも影響を与えます。
 親がカルトの活動にのめりこむことで子どもが、経済的な苦しみ、ネグレクト、暴力、教育の機会を奪われる、信仰を強制されるなどの被害を受けることもあります。
 そんなときにカルト団体や家族の外につながりがあれば、助けを求められるでしょう。
 しかしカルトは外部との接点を制限します。
 さらに、外の世界、たとえば政府がカルトとつながっていたとしたらどうでしょう。この世界のどこにも助けはないのだと絶望するかもしれません。
 政治家個人がどのような信仰を持とうが自由です。しかしカルトの集会に政治家がメッセージを送れば、カルトの被害をさらに広げることになります。

 新興宗教だけでなくあらゆる団体がカルト化する危険性があります。伝統宗教も、学校も、職場も、家庭も。
 私たちの教団もカルト化した過去があります。
 目を背けてはいけない問題に直面しています。

苦難の中でも神を見上げる

 今日の本文は南ユダ王国4代ヨシャファト王の話第3部の前半です。
 ヨシャファトの治世最大の危機が迫ってきました。
 モアブ・アンモンの連合軍が大軍で攻めてきました。敵はすでにヨルダン川西岸のエン・ゲディまで来ています。首都エルサレムまで約40㎞の場所です。
 浜松からだと島田や豊橋くらいの距離です。頑張れば1日で歩けます。
 敵の大軍が首都の目前まで迫っています。ヨシャファトは恐れました。
 しかし恐れて終わりではありません。主を求めることを決意し、ユダの人々にも断食し主を求めることを呼びかけました。

苦難の経験から学んだこと

 ヨシャファトは戦争で痛い目にあっています。
 アハブとの同盟で参加したラモト・ギレアド奪還戦で敵の集中攻撃を受けて死にかけました。それはヨシャファトが自分の考えに従って行動した結果でした。
 そこで神に叫び祈ったところ、ヨシャファトは奇跡的に無事に家に帰ることができました。
 ヨシャファトはこの経験から、人間的にはなす術がない状況になっても、主を見上げることができると学んだのでしょう。
 だからヨシャファトは大軍が目前に迫る中でまず主を求めました。
 そしてそれを王一人で行うのではなく、民全体に呼びかけました。

苦難を経験したから同じ経験をする人を慰められる

 苦難の経験は私たちを成長させます。

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

コリントの信徒への手紙二1:4

 苦難を経験することで、同じような苦難を経験する人を慰めることができるようになります。

 ペトロはイエス様のことを知らないと言ってしまいました。大きな挫折です。
 その後、復活のイエス様に出会って立ち直ったペトロは、他の弟子たちを立ち直らせるようになります。
 挫折から立ち直ったことで、神の羊の群れの世話をするようになりました。

人間の苦難を知っているイエス

 イエス様も様々な苦難を経験しました。
 ゲツセマネでイエス様は汗が血のように滴るほど苦しみながら祈りました。
 弟子たちにも共に祈ってほしいとお願いしました。ところがイエス様が祈って戻ってくると、弟子たちは寝ていました。
 「私がどれほど苦しんで祈っていたかわかるか!?」と怒りはしませんでした。
 心は燃えても肉体は弱い人間の弱さを知っていたからです。
 イエス様は人間としてあらゆる痛み、悩み、苦しみを経験しました。
 だから弱い私たちに同情できない方ではなく、むしろ時宜にかなった助けを与えることができます。

どんな時も主を見上げる

 神はいつもよいお方です。
 なす術ない状況にあっても私たちは神様を見上げることができます。
 神様はすべてを益に変えます。だからどんな時も主を見上げましょう。

神がどのような方か知る

 ヨシャファトの祈りはまず神の偉大さへの賛美から始まります。
 「わたしたちの先祖の神、主よ。あなたは天にいます神、異邦人の国をすべて支配しておられる方ではありませんか。御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません。」
 そしてなす術がなく、どうすればいいかわからない自分たちの無力さを打ち明けます。
 神の偉大さを知って人間の無力さを知ると、神の救いの必要性がわかります。
 高ぶる人は神を必要としません。自分の無力さを知っても神の偉大さを知らないなら、神に助けを求められません。

主を見上げることに専念する

 ヨシャファトはソロモンの祈りも引用しながら神に訴えます。そして最後に「何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」 と言います。
 ただ主を見上げるしかできないと言いますが、ヨシャファトはなす術がないと絶望しているのではありません。
 主を見上げることはできるのです。唯一の希望である主に集中しています。
 武力、富、知識など人間の力を頼れないからこそ、最も大事なことに専念できます。

神がどんな方か知っているから頼れる

 ヨシャファトは神様の恵みを体験しているので、確信を持って主を見上げることができます。
 神様がどういうお方であるか知ってください。知識的に知るのではなく、生きておられる神様と人格的に出会うのです。
 それは神様の言葉に従うときに体験できます。

神と出会う

 礼拝で語られるメッセージは、牧師を通して神様が語るのだと言います。
 そのように聞いていますか。牧師のつまらない話を聞かされていると思っていたら、神様の声は聞こえません。
 神様、今日オレにその声聞かせてくれよ!と求めてください。
 求める心があれば、子どもが聖書を読んでいるだけでも神の言葉を聞けます。

 7月はエレミヤ書と哀歌の通読月間ですね。1日2章読むのに数分しかかかりません。自分の読みやすい訳でいいですから、続けて読んでみてください。
 読んでみたらわかります。平日の間に聖書を読んで日曜日を迎えるのと、聖書を読まずに日曜日を迎えるのとでは、受ける恵みが違います。体験してみてください。

 エレミヤ書で神様が「わたしを呼べ」と言います。
 呼んでください。どんなことでも祈ってみてください。
 したいことや欲しい物。悩んでいること。うれしかったことや悲しかったこと。

 聖書は愛を命じます。
 でも愛せないときがあります。自然に愛することなんてできないから、愛を命じるのです。
 これも神の助けが必要です。
 愛せないのは仕方ないと思わず、嫌でも相手の祝福を祈ってみてください。
 愛せない野郎を愛そうとするとき、神の愛の大きさがわかります。
 そうやって神様を求める時に、主が今も生きておられるとわかります。

神の招きに応答する

 イエス様は招きます。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイによる福音書11:28

 疲れた時、重荷を負わされた時、なす術なく倒れそうになる時、この言葉を思い出してください。
 私たちは絶望させられそうになることがあります。
 家族も友人も、この社会も頼れないと思うようなことがあっても、まだ終わりではありません。
 私たちにはイエス様がいます。
 このお方が来なさいと招いています。
  その招きに従ってみてください。そのとき、生きておられる神様と人格的に出会います。

自由な聖霊の働きで自由な礼拝者になる

 ヨシャファトの呼びかけに応えてユダの人々が集まりました。男性だけでなく女性も子どもも、赤ちゃんも。
 そこでレビ人ヤハジエルに聖霊が臨みます。そして預言を始めました。

聖霊は共に礼拝するよう招く

 この時代、エリヤやエリシャ、ミカヤ、イエフのようなプロの預言者たちがいました。
 ヤハジエルはそのような預言者ではありません。しかし聖霊が臨み、主の言葉を語りました。
 これを聞いた人たちは主の御前にひれ伏し、礼拝しました。賛美の奉仕者たちは立ち上がって主を賛美しました。

 聖霊は私たちを呼び集め、礼拝するように招きます。
 老若男女、子どもも赤ちゃんも、あらゆる違いをもった人たちが集まります。
 その一人一人に聖霊は賜物を分け与え、共に主に祈り、賛美するようにさせます。

これは神の戦い

 ヤハジエルの預言の中で繰り返し語られるのは「これは神の戦いである。恐れず出て行け。なぜなら主が共にいる。」ということです。主が共にいるという言葉は日本語だと1回出てきませんが、原語のヘブライ語ではこの言葉も2回繰り返されています。
 大事なことだから2回言います。
 これは出エジプトを思い起こさせます。

13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

出エジプト記14:13-14

 これは神の戦い。静かにして主の救いを見よ。

神と共に歩む人は黙っていられない

 神の戦いにおける人の役割は何でしょう。ただ黙って従えばいいのでしょうか。
 いいえ、主を見上げる時、人は静かにしていられなくなります。
 葦の海を渡りながら民は主を賛美し、ミリアムは太鼓を叩いて踊りました。誰かに命じられたわけではなく、自然に賛美せずにいられなくなったのです。
 神の箱をエルサレムに運んだとき、レビ人でないダビデにできることは何もありません。それでも喜びのあまり裸になって踊りました。

エルサレム入城

 イエス様がエルサレムに入るとき、群衆は上着を脱いで道に敷き、ホサナと叫んで歓迎しました。
 ファリサイ派の人たちは黙らせようとしましたが、イエスは「彼らが黙っても石が叫びだす」と言いました。

 神様が前進するとき、神と共に歩む人は黙っていられません。
 共に主を見上げようとする聖霊の働きがあります。
 一人一人に現れる自由な聖霊の働きを妨げてはいけません。

自由を制限されていないか

 カルトとは構成員の自由を侵害し、構成員の自律した思考や行動を制限することによって破滅的な被害を生じさせる団体。
 カルトは人の自由を制限します。

 指導者の言うことが絶対で、自分の考えは間違ってると思い込まされる。
 組織や指導者に対する批判や疑いを持つことを禁じる。
 組織に批判的な人をサタンなどと呼び、自分たちが正しいから敵の攻撃を受けているなどと言う。
 外部の情報を得ることを禁じる。
 献金を強要し経済的にも支配する。
 集団生活をさせられプライバシーがない。
 就職や結婚などの自由までも制限する。
 脱会すると地獄に落ちるなどと脅す。

 もしこの中の1つでも当てはまったら、その組織はヤバいです。

 私たちの教会はどうでしょうか。問題があったら遠慮なく言ってください。
 教会はキリストを頭として、互いに体の部分とされた人々が集まって造り上げられていきます。
 皆さんの自由な意見が大事です。

安心して自分の人生を歩む

 神様は人に自由を与えました。
 もちろん人は間違えることがあります。間違った道を選択しても神の愛は変わりません。
 安心して自分で自分の人生を選択してください。

 主を見上げる時、こうしたいという思いが与えられることがあります。
 こういう奉仕がしたい。教会でこういう活動がしたい。あの人にイエス様を伝えるためにこういうイベントがしたい。生きづらさを抱えたあの人を助けに行きたい。
 それは神が与えた思いかもしれません。それを大事にしたいです。

 どんどん新しいことに挑戦してきましょう。
 浜松は出世の街。神が導くのであれば、ここからさらに広い世界に出て行くのは良いことです。
 自分が出て行ったら誰が教会を支えるのか、なんて心配しなくていいです。
 教会という組織のために自分の人生を犠牲にしてはなりません。
 教会のためにあなたの人生があるのではなく、あなたの人生のために教会があります。教会を利用してもらってもいいです。必要は神様が満たしてくださいますから。

共にいる主に目を留める

 この世界を見渡すとき、私たちの力を失わせようとする現実があります。
 人がいない、お金がない、時間がない。
 それでも私たちは主を見上げることができます。
 イエス様は天に上げられる前に約束しました。
 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
 なす術なくても、この主を見上げて歩んで行きましょう。

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