エゼキエル書講解7
わたしは生きている
エゼキエル書 5:1-17
1 人の子よ、あなたは鋭い剣を取って理髪師のかみそりのようにそれを手に持ち、あなたの髪の毛とひげをそり、その毛を秤にかけて分けなさい。2 その三分の一は包囲の期間が終わったときに都の中で火で燃やし、ほかの三分の一は都の周りで剣で打ち、残り三分の一は風に乗せて散らしなさい。わたしは剣を抜いてその後を追う。3 あなたはその中から毛を少し取って着物の裾に包み、4 更にその幾らかを取って火に投げ入れ、火で燃やしなさい。そこからまた火が出て、イスラエルの全家に及ぶであろう。5 主なる神はこう言われる。「これはエルサレムのことである。わたしはこの都を国々の中に置き、その周りを諸国が取り巻くようにした。6 しかし、この都はそれらの国々よりも、いっそうわたしの裁きに逆らい、周りの諸国より激しくわたしの掟に逆らった。まことに彼らはわたしの裁きを拒み、わたしの掟に従って歩もうとしなかった。」7 それゆえ、主なる神はこう言われる。「お前たちが周りの国々よりもいっそうかたくなで、わたしの掟に従って歩まず、わたしの裁きを行わず、周りの国々で定められている裁きほどにも行わなかったので、8 主なる神はこう言われる。わたしもお前に立ち向かい、国々の目の前でお前の中で裁きを行う。9 わたしがお前に対して行うことは、わたしが今まで行ったこともなければ、またこれから再び行うこともないようなことである。それはお前が行ったあらゆる忌まわしいことのゆえである。10 それゆえ、お前の中で親がその子を食べ、子がその親を食べるようなことが起こる。わたしはお前に対して裁きを行い、残っている者をすべてあらゆる方向に散らせてしまう。11 それゆえ――わたしは生きている、と主なる神は言われる――お前はあらゆる憎むべきものと忌まわしいものをもってわたしの聖所を汚したので、わたしもまた必ずお前をそり落とす。わたしは憐れみの目をかけず、同情もしない。12 お前の中で三分の一は疫病で死んだり、飢えで息絶えたりし、三分の一は都の周りで剣にかけられて倒れ、残る三分の一は、わたしがあらゆる方向に散らし、剣を抜いてその後を追う。13 わたしは彼らに向かって怒れるだけ怒り、憤りに身をまかせて、恨みを晴らす。そのとき、主であるわたしが憤れるだけ憤り、熱情をもって語ったということを彼らは知るようになる。14 わたしはお前を廃虚とし、すべての旅人の目にも、周りの国々にも、嘲りの的とする。15 わたしが怒りと憤りと激しい懲らしめをもってお前を裁くとき、お前は周りの国々の嘲りとそしりの的となり、教訓となり脅威となる。主なるわたしがこれを告げる。16 わたしは滅びに定められた者に対して悲惨な飢えの矢を放つ。お前たちを滅ぼすためにそれを放つとき、わたしは飢えをますますひどくし、パンをつるして蓄える棒を折る。17 わたしは飢えと狂暴な獣をお前たちに送り込み、子供たちを奪わせる。疫病と流血はお前の中を通り抜ける。またわたしは剣をお前に臨ませる。主なるわたしがこれを告げる。」
意味を知らなければ空しく終わる
昨日、クリスマスの装飾をしました。
クリスマスまであと1ヶ月を切りました。クリスマス楽しみですね。1年の終わりに楽しみがあるというのはとても大事なことです。何の慰めもないとしたら、1年が終わるのが辛くなります。ああ、また1年が終わる、と。
世の中にはクリスマスも虚しい思いで迎える人もいます。クリぼっちという言葉があるそうです。クリスマスをひとりぼっちで迎える人のことです。
街はイルミネーションで彩られ、若いカップルが幸せそうに歩いています。その中でクリスマスを一緒に過ごす人がいないと寂しくなるでしょう。
またクリスマスでも働かなければいけない人たちがいます。
もちろんクリスマスはすべての人のための喜びの日ですから、たとえ一人ぼっちでも、仕事があるとしても、喜ぶことができます。
しかしクリスマスがどのような日か、その意味を知らなければ寂しくなり、虚しくなってしまうでしょう。
これは私たちの人生においても同じです。
主がどのような方かを知れば、私たちの人生は絶望に終わることはありません。
エルサレムに臨む徹底的な裁き
今日の本文は主がエゼキエルに髪の毛とひげを剃り、それを3つに分けなさいと命じる場面です。
剃られた毛は三等分され、火で焼かれたり剣で切られたりしました。これはエルサレムに臨む徹底的な裁きを表しています。そこから逃れられるものはありません。
主はこのような裁きを通して、ご自身がどのような方であるかを見せてくださいます。
今日の本文を通して残りの者を懐で守られる主、正しい裁きを行われる主、約束を必ず守る主が今も生きておられることを知る私たちになることを期待します。
残りの者を懐に守られる
まず今日の本文の1節から4節で『1 人の子よ、あなたは鋭い剣を取って理髪師のかみそりのようにそれを手に持ち、あなたの髪の毛とひげをそり、その毛を秤にかけて分けなさい。2 その三分の一は包囲の期間が終わったときに都の中で火で燃やし、ほかの三分の一は都の周りで剣で打ち、残り三分の一は風に乗せて散らしなさい。わたしは剣を抜いてその後を追う。3 あなたはその中から毛を少し取って着物の裾に包み、4 更にその幾らかを取って火に投げ入れ、火で燃やしなさい。そこからまた火が出て、イスラエルの全家に及ぶであろう。』 また11節12節で『11 それゆえ――わたしは生きている、と主なる神は言われる――お前はあらゆる憎むべきものと忌まわしいものをもってわたしの聖所を汚したので、わたしもまた必ずお前をそり落とす。わたしは憐れみの目をかけず、同情もしない。12 お前の中で三分の一は疫病で死んだり、飢えで息絶えたりし、三分の一は都の周りで剣にかけられて倒れ、残る三分の一は、わたしがあらゆる方向に散らし、剣を抜いてその後を追う。』 とあります。
絶望的な状況の中でも残りの者がいます。
ひげを剃る
エゼキエルが置かれている状況は先の見えない絶望的な状況です。
バビロンに捕囚にされてしまいました。5年経ちましたが、帰れる気配はありません。どのような希望があるというのでしょうか。もちろんクリスマスもありません。
偽預言者たちは希望を語り、民を慰めます。しかしそれは主が語ったことではありません。
主は何と言われるのか。主が語るのは徹底的な裁きでした。
主はエゼキエルに、鋭い剣で髪の毛とひげを剃るように命じます。この当時もカミソリがありました。しかし主はカミソリではなく剣を使うようにと言っています。剣はもちろん髪を剃るための道具ではありません。武器です。人を殺すための道具です。
主は髪の毛とひげを剃るように命じました。ツルツルの顔になります。日本ではひげを剃るのは身だしなみとして大事なことと考えられています。ファッションでひげを伸ばす人もいますが、あまり長いひげは好まれません。しかしユダヤ人にとってひげは大切な物でした。大人の男の勲章のようなものです。
以前、静岡大学で立派なひげの人に会いました。ただ者ではないという雰囲気でした。まだ学生だったそうですが、あのひげを見るともっと年上のような印象も受けました。
ダビデの時代に、ダビデが近隣の王にお祝いの使者を遣わしました。しかしその王はダビデを信用せず、使者のひげを半分剃って追い返してしまいました。これにダビデは激怒し、その国を滅ぼしてしまいます。
そしてダビデはひげを剃られた使者を、ひげが生えそろうまで留まるよう命じました。確かに立派なひげが半分だけなくなっていたらおかしいです。私たちの感覚からすると、全部剃ってしまえばいいじゃないかと思います。しかしユダヤ人にとってひげを剃るということ自体が屈辱なので、わざわざひげが生えそろうのを何か月も待ったのです。
それほど大事なひげを、剣で剃れと命じます。
これはエルサレムがバビロンの攻撃によって屈辱を受けるということを意味しています。
まるで汚いものをそぎ落とすように、エルサレムの全住民は都から追い出されます。
三重の苦しみ
主は剃った毛を秤にかけ、三等分するように命じました。三分の一は都の中で焼き、ほかの三分の一は都の周りで切り刻み、残りの三分の一は風に載せて散らすためです。
これはエルサレムに臨む主の徹底的な裁きを表しています。
三分の一はバビロンに包囲された都の中で疫病で死んだり、食べ物がないために餓死したりします。
耐えきれなくなった民はエルサレムから逃亡しようとします。しかしバビロンの包囲を抜けることはできず、剣で殺されます。こうして三分の一が殺されます。
残された三分の一は最後まで耐え忍びます。とうとうエルサレムは陥落し、捕囚となって世界中に散らされます。
これで安心というわけではありません。散らされた民を主が剣を抜いて追いかけます。恐怖に捕らえられて生きなければなりません。地獄のような苦しみの生活が待っているだけです。
そのような三重の苦しみを告げています。
何が残っていますか。
1パックに3個った納豆があります。3つに分けた1つを火で焼き、もう1つを粉々に砕き、残りの1つを外に投げ捨てたら、何が残りますか。
もはや何も残らない。主の徹底的な裁きです。
残りの者がいる
その中で主はエゼキエルに、最後の三分の一の中から毛を少し取って着物の裾に包みなさいと言います。
エゼキエルの懐に入れられた毛は、風が吹いてきても飛ばされることはありません。
それは全体から見ればほんのわずかな量でしょう。しかし確かに残され、守られる者がいます。
主はこのようにイスラエルの中で残りの者を準備しています。彼らはシオンに帰って来て、イスラエルを建て直します。
主は私たちを御翼の陰で守ってくださいます。どのような嵐がやってくるとしても、主の懐に守られていれば平安です。
どのような絶望的な状況でも守ってくださる主を知る私たちになることを願います。
正しく裁く
また今日の本文の5節から10節で『5 主なる神はこう言われる。「これはエルサレムのことである。わたしはこの都を国々の中に置き、その周りを諸国が取り巻くようにした。6 しかし、この都はそれらの国々よりも、いっそうわたしの裁きに逆らい、周りの諸国より激しくわたしの掟に逆らった。まことに彼らはわたしの裁きを拒み、わたしの掟に従って歩もうとしなかった。」7 それゆえ、主なる神はこう言われる。「お前たちが周りの国々よりもいっそうかたくなで、わたしの掟に従って歩まず、わたしの裁きを行わず、周りの国々で定められている裁きほどにも行わなかったので、8 主なる神はこう言われる。わたしもお前に立ち向かい、国々の目の前でお前の中で裁きを行う。9 わたしがお前に対して行うことは、わたしが今まで行ったこともなければ、またこれから再び行うこともないようなことである。それはお前が行ったあらゆる忌まわしいことのゆえである。10 それゆえ、お前の中で親がその子を食べ、子がその親を食べるようなことが起こる。わたしはお前に対して裁きを行い、残っている者をすべてあらゆる方向に散らせてしまう。』 とあります。
主は正義を行われます。
祝福の源にするために選んだ
なぜエルサレムはこのような苦難を受けることになったのでしょうか。
それはエルサレムが不正を行っているからでした。
主は『わたしはこの都を国々の中に置き、その周りを諸国が取り巻くようにした。』と言われます。まずエルサレムを置いて、その周りに国々を置いた。
これは国々の中心としてエルサレムを選んだということです。
クリスマスツリーを準備するときに、まずツリーを置く場所を決めて、その周りを装飾していきます。
このような順番にするのは、ツリーが大事だからです。
先にプレゼントの箱を置いてしまうと、ツリーを置く場所がなくなってしまうかもしれません。
これでは本末転倒です。
主はまず多くの人々の中からアブラハムを選びました。それはアブラハムの子孫によって全ての国、民族が祝福を受けるためでした。
ですからアブラハムの子孫であるヘブライ人は祝福の源となるべき選ばれた民になるはずでした。
アブラハムの孫であるヤコブは主からイスラエルという名をもらいます。ヘブライ人は出エジプトの後にシナイ山で契約を結び、イスラエル人と呼ばれるようになります。イスラエル人は主が約束したカナンの地に定住し、ダビデの時代にエルサレムを首都とします。ソロモンの死後、王国は北イスラエルと南ユダに分裂します。そしてエルサレムを首都としたユダの人々はユダヤ人と呼ばれることになります。
こうしてアブラハムに与えられた祝福の源としての使命は、ユダヤ人に受け継がれてきました。
エルサレムから周りの諸国へと、祝福が流れるようにしたのです。
不正を行った
主はイスラエルが祝福の源になるように契約を結び、戒めを命じました。
そして主は「わたしが聖なる者であるように、あなた方も聖なる者になりなさい」と言われました。主の品性に似た者になるように。そして神の品性を表しなさいということです。
ところがイスラエルは、神の品性を表すどころか、不正を行ってしまいました。他の国々より悪いとまで言われています。
神様の顔に泥を塗るようなことをしています。
神様は公正な方です。秤で3分の1ずつきっちり分けるくらい、正確に裁きます。主は正義を行う方。しかしイスラエルは不義を行いました。
主が立ち向かう
政治家の息子が痴漢をしたり、芸能人の息子が麻薬に手を出して捕まったりすることがあります。
悪いことをしたのは息子たちです。しかし親が謝罪するということがあります。子どもたちを正しく教え導く責任が親にはあるからです。
今日の本文で不正を行ったのはイスラエルです。しかし主がその責任を取ります。わたしが造った民、わたしが選んだ民が罪をおかした。だから主ご自身が立ち向かいます。
主ご自身が国々の間の前で正しい裁きを行い、主が正義を行う聖なる神であることを示します。
神様は罪を放っておきません。
私たちも罪を犯しました。だから神様は私たちのことも放っておきません。この罪を見過ごしにしません。
神様はまた同時に愛の神様です。その正義と愛を実現するためにイエス・キリストを遣わしました。
神ご自身が自ら人の罪を背負い、十字架ですべての罪を解決してくださいました。
この十字架の愛によって正義が実現しました。
十字架で示された愛と義を感謝して受け取ることを願います。
主が告げる
最後に今日の本文の13節から17節で『13 わたしは彼らに向かって怒れるだけ怒り、憤りに身をまかせて、恨みを晴らす。そのとき、主であるわたしが憤れるだけ憤り、熱情をもって語ったということを彼らは知るようになる。14 わたしはお前を廃虚とし、すべての旅人の目にも、周りの国々にも、嘲りの的とする。15 わたしが怒りと憤りと激しい懲らしめをもってお前を裁くとき、お前は周りの国々の嘲りとそしりの的となり、教訓となり脅威となる。主なるわたしがこれを告げる。16 わたしは滅びに定められた者に対して悲惨な飢えの矢を放つ。お前たちを滅ぼすためにそれを放つとき、わたしは飢えをますますひどくし、パンをつるして蓄える棒を折る。17 わたしは飢えと狂暴な獣をお前たちに送り込み、子供たちを奪わせる。疫病と流血はお前の中を通り抜ける。またわたしは剣をお前に臨ませる。主なるわたしがこれを告げる。」 』 とあります。
主は生きているという教訓
このことは全世界への教訓として行われます。私は生きている、という教訓です。
主は罪を放っておかず、憤るお方です。
しかし現実はそうでないことがあります。正直者がバカを見て、悪い人が繁栄しているということがあります。真面目に生きることが愚かなことのように思えます。
アンパンマンがバイキンマンに顔を汚され、倒れてしまうことがあります。
それでも必ずジャムおじさんが新しい顔を焼いてくれます。それをバタコさんが投げます。アンパンマンの顔は新しいものに入れ替わり、新しい力を得ます。バタコさんは絶対に外しません。
そしてアンパンマンはバイキンマンを退治します。
どんなに現実に悪がはびこっていても、必ず最後に正義が勝ちます。
イエス様が帰って来ます。すべての悪を打ち破り、神様が完全に勝利します。
悪が勝ち誇って終わりではないのです。
なぜなら主は生きているからです。
神は的を外さない
主は生きている。預言者エリヤもそう宣言しました。
ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
列王記上17:1
アハブ王の時代、北イスラエルは繁栄していました。しかし繁栄と同時に偶像崇拝も盛んになりました。そして主の預言者は皆殺しにされ、エリヤだけが生き残っていました。
その状況で単身アハブのところに乗り込むのは勇気がいります。
それでもエリヤはアハブのところに行き、干ばつを預言しました。
なぜそれができたのでしょう。
主は生きておられ、主の約束は必ず実現するからです。
主は滅びに定められた者に悲惨な飢えの矢を放ちます。
矢が的を外すのは正しくないことです。罪を意味するギリシア語ハマルティアには、的を外すという意味もあります。
だから神様は必ず的を射抜きます。
滅びに定められた者は滅びます。徹底的な裁きです。
主はなぜこのようなことを語るのでしょうか。
主は生きておられ、私たちの罪を知っています。
だから私のところに帰ってきなさい、と主は願っています。
主を知るなら絶望しない
エゼキエルと同じ時代にエルサレムではエレミヤが活動していました。主はエレミヤを通しても徹底的な裁きを語りました。それでもエレミヤは絶望しませんでした。主がどのような方であるかを知っていたからです。
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい
エレミヤ書9:23
目覚めてわたしを知ることを。
わたしこそ主。
この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事
その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
主はこの地に慈しみと正義と恵みの業を行います。
たとえ目の前の状況が絶望的でも、主が必ず救い出してくださると信じています。
主がどのような方かを知り、主のもとに立ち返ることを願います。
どんな絶望的な状況の中にも主は希望を残しています。
主を知り、主に立ち返り、主を待ち望みましょう。