ローマ書講解25 主を呼ぶ者は救われる

ローマ書講解25

主を呼ぶ者は救われる

ローマの信徒への手紙 9:30-10:13

9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

10:1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

堅固な岩の上に立つ人生

 先週は神様が怒りの器を耐え忍び、憐れみを示されたことを聞きました。神から離れていた異邦人も神の民とされたのです。
 パウロはこのことについて「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。」と言っています。
 ここで言う義というのは、神様との正しい関係を意味します。
 異邦人は律法を知らず、主なる神様との関係を築こうとしていませんでした。一方イスラエルの民は律法を守ることで神様を喜ばせようとしました。
 それなのにイスラエルの民は神様との関係を築くことができず、むしろ異邦人の方が神様との正しい関係に招き入れられ、神の民とされています。
 なぜでしょう。
 イスラエルの民は信仰によってではなく、行いによって救いを勝ち取れると考えていたからです。

神が置いた石

 ただ信仰で義と認められるという話はすでに3, 4章で話しました。
 パウロはここで、このことも神の言葉の成就なのだと言います。神の言葉はむなしく地に落ちることはありません。
 パウロが引用したのはイザヤ書の預言。28章16節と8章14節を組み合わせています。
 神様はシオンに一つの石を置きます。
 シオンとはエルサレムがある丘の名前。イスラエルの民が帰って来るべきところです。
 イザヤ書28章14節では、この石は固く据えられた礎、隅の親石だと言われています。
 神を信頼し、神が置いたこの土台の上に立つならば、失望することはありません。
 しかし神を信頼しない者にとって、この石はつまずきの石、妨げの岩となります。

 どういうことでしょう。
 皆さんが中田島砂丘を歩いていたら深い穴に落ちてしまったとします。すり鉢みたいな穴です。
 勢いよく駆け上がったら上にあがれそうだけれど、砂なので斜面が崩れて滑り落ちてしまいます。
 そのとき上から声が聞こえました。「この手につかまれ」
 上に行けば助かるんだ。そう思ってまた斜面を駆け上がろうと努力します。
 しかしうまく行きません。

仲間の一人が「もうダメだ。ぼくには上に行く力がない。」と嘆きます。
 すると、ドスン!上から大きな岩が落ちてきました。
 危ね。
 しかも邪魔。これでは助走がつけられません。
 妨げの岩が現れました。

 ところがさっき嘆いていた人はこの岩を登っていきます。
 決して揺るがない堅固な土台の上に立ちました。
 そして救助隊の手をつかみ、助け出されました。

 自分の力で救いを勝ち取ろうとすれば必ず失敗します。そして神が置いた石を邪魔だと思います。
 しかし神を頼るなら、その石の上に立って救われるのです。

イエス・キリストが人生の土台

 神が置いた石とはイエス・キリストのことです。
 ペトロはこう言います。

この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

ペトロの手紙一2:4

 この堅固な土台の上に立ち、神の民としての人生を建て上げていくことが求められています。
 ところが私たちはこの石につまずきます。私たちのこれまでの生き方と衝突するからです。
 正しくよい行いによって救いを勝ち取ろうとする。
 自分の力でより高い所に上りたい。
 神が求めていることを無視して自分なりの人生を貫く。
 これでは結局、砂の上に立つ人生です。すぐに崩れます。
 ただ神を信頼し、堅固な土台の上に人生を建て上げてください。

恵みにあふれた関係性における正しさ

 パウロは9章の初めに語ったように、同胞に対する思いを打ち明けます。
 「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」
 パウロはユダヤ人が熱心に神に仕えていることを知っています。よく聖書を読み、よく祈り、断食もし、儀式を守る。
 だからこそ悲しい。
 その方向性が間違っているから。

律法を守ること自体が目的になる

 彼らは神の民として、神に喜んでもらおうと思いました。
 それで神が与えた律法を守ろうとしました。
 そこまではいいです。神の言葉を聞いて行う人は、岩の上に家を建てた賢い人に似ています。
 しかしユダヤ人は、律法を守ること自体が目的になってしまったのです。
 そして律法を守るために、さらに細かいルールを作りました。
 安息日を守るためにあれはダメ、これもダメ。それはここまでなら良い。
 そして安息日に人々を癒したイエス様を非難しました。

律法の指し示すゴールはイエス・キリスト

 神が律法を与えたのは、神の民としてどのように生きるかを指し示すためです。
 堅固な土台の上に立ち、神の民としての人生を建て上げていってほしい。
 しかし人には律法を守る力はありません。
 律法の行いによっては罪の自覚が生じるだけ。
 そこで人は自分の人生に救い主が必要だと知ります。
 律法はそうして私たちをキリストのもとに導きます。

 律法の目標、律法が指し示すゴールはイエス・キリストです。
 イエス・キリストは律法の要求をすべて満たしました。
 そして神の子羊として私たちの罪のために十字架で血を流して死なれ、救いを成し遂げました。
 このイエス・キリストを信じるとき、私たちは神と和解し、神との正しい関係に招き入れられます。
 信じる者すべてに義をもたらすのです。

受け入れがたい神の正しさ

 義という言葉には正しさという意味も含まれます。
 ユダヤ人は自分の思う正しさを追い求め、神の正しさを受け入れなかったのです。

 皆さんも考えてみてください。
 たくさんよい行いをしてもイエス・キリストを信じないなら救われない。
 たくさん悪い行いをしても死ぬ直前にイエス・キリストを信じれば救われる。
 これが正しいことですか?
 日給1万円で雇われた人たちがいる。
 遅れてきて1時間しか働かなくても1万円。
 朝から8時間働いた人も1万円。
 これが正しいことですか?
 私たちはそう思います。
 しかし神様はこれが義だと言います。
 ルールに縛られた正しさではなく、恵みにあふれた関係性における正しさです。

神の正しさには人を生かす愛の交わりがある

 ある夏の日、バスに小学生の男の子が乗りました。
 降りるときにカードの残高が足りませんでした。
 バスの運転手はこの子を叱責しました。
 その子は帰るとき、お金がないので2時間、炎天下の中を歩いて帰りました。

 皆さんはどう思いますか?
 お金が足りなかったのはこの子の過ち。また十分なお金を持たせなかった保護者の責任です。
 歩いて帰ったのはこの子自身の選択。
 バスの運転手はルールに従って正しいことをしただけですね。

 ではこのようにすることは間違いでしょうか。
 誰か周りの大人が、代わりにバス代を支払い、帰りのバス代も持たせてあげる。
 そして「これからは気をつけてね」と笑顔で立ち去る。

 恵みにあふれた関係性における正しさ。そこには人を生かす愛の交わりがあります。

イエスは主であると告白する

 イエス・キリストによって律法の役割は果たされました。
 しかし律法がすべて不要になったわけではありません。

神の言葉は手の届かないところにあるのではない

 聖書には「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。」と書かれています。
 やっぱり律法を守ることで命が得られるのかと、律法による義を求める人は受け取ります。
 しかしこの言葉も神を信頼し生きるために与えられたものです。
 律法の行いで救いを勝ち取ろうとする人は思います。
 「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」
 あるいは
 「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」
 律法はどこか人の手の届かないところにあると思うのです。

 しかし申命記30章でモーセは言います。
 「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」
 神の言葉はあなたのすぐ近くにあるよ。
 なぜですか。
 神の言葉は天から降り、人となって私たちの間に宿られたからです。
 海のかなた、深海の底よりも深い陰府にまで下り、よみがえられたからです。
 そう、受肉し復活したイエス・キリストが、私たちと共にいます。
 神の霊が私たちの心に住んでおられます。
 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」

愛の交わりの中で信仰を表現する

 パウロのこの言葉も覚えておいてほしいです。
 「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

 信じれば救われるはず。口で告白する必要がある?
 確かに心で信じた時点で救われています。
 しかしイエス様との恵みにあふれた関係性、愛の交わりがあるならば、告白することは当然でしょう。
 誰かと恋人になったとします。
 それなのに家族や友だちに「この人が私の彼女/彼氏です。」と紹介できないのはおかしいでしょう。何か後ろめたいことがあるのかなと思ってしまいます。
 心でイエスは主であると信じるなら、それを口で言い表すことができますね。
 話すことができない人もいますが、他の形でも自分の信仰を表現したらいいです。
 私たちは洗礼式でそれを行っています。

主イエスの名を呼ぶ者は皆救われる

 心で信じ口で言い表す。
 ただそれだけです。他の条件はありません。
 「主を信じる者は、だれも失望することがない」
 9章の最後に引用したイザヤ書の預言に、「だれも」という言葉が付け加えられ、強調されています。
 そう、イエス・キリストという堅固な土台の上に立つならば、誰も失望させられることはないのです。

 シオンに置かれたその石に、私たちは立ちます。
 そして土の器である私たちも火で錬り清められたレンガとなり、神の国を建て上げていきます。
 この世で生きていくと揺さぶられることは多くあります。
 家庭の問題、仕事の問題、お金の問題、健康の問題、将来の不安が押し寄せてくる。
 しかし主に望みを置くなら揺るがされることがない。
 堅い岩の上に立っているから。
 人生に疲れることがあります。
 勇士もつまずき倒れる。
 しかし主に望みを置くなら鷲のように翼を張って上る。
 聖霊の息吹が押し上げてくれるから。

 そして聖霊は老人に夢を見させ、若者に幻を見させます。
 神様が与えてくださるビジョンです。
 たとえ目の前の現実がどのようであっても、私たちは堅固な神の約束の上を生きます。
 決して揺るがないシオンの石の上に立ちます。

しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

ヨエル書3:5

 神は御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになります。
 さあ、主の御名を呼びましょう。
 イエスは主であると告白しましょう。
 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 

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