ローマ書講解28 神の慈しみと厳しさ

宗教改革記念主日

ローマ書講解28

神の慈しみと厳しさ

ローマの信徒への手紙 11:11-24

11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。21 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。24 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

自分と教会の改革を続ける

 今日は教会のカレンダーで宗教改革記念主日となっています。
 私たちプロテスタント教会はルターの宗教改革がきっかけで生まれてきました。
 教会は神の言葉である聖書だけでなく、人の教えや伝統を大事にしてきたことがあります。そうすると間違った方向に進みます。
 そこで改革が必要です。
 これはルターの宗教改革だけでなく、何度も何度も繰り返されてきました。
 私たちも聖書に照らし合わせ、自分の歩みや教会の姿を顧みていく必要があります。

神の慈しみで救われた異邦人

 先週、イスラエルは神様を信頼しなかったので頑なになってしまったと言いました。
 主の食卓に招かれていながら、心の扉を開けなかった。だからその食卓が罠となりつまずくのだと。
 それでは、つまずいたユダヤ人は倒れてしまったのか。もう立ち直れず滅びが確定してしまったのか。
 そうではありません。

ユダヤ人に代わって異邦人が主の食卓に招かれた

婚宴に来ない招待客

 イエス様は婚宴のたとえで、王子の婚宴に招かれた人たちがその招待を拒んだので、別の人が招かれたという話をしました。
 最初に招かれたのはユダヤ人。後で招かれたのは異邦人です。
 ユダヤ人が主の食卓に着くことを拒んだので、異邦人が招かれ、主の食卓に着いています。
 ユダヤ人が主を信頼しないという罪を犯した結果、異邦人に救いがもたらされたわけです。
 パウロは、その目的はユダヤ人に妬みを起こさせるためだと言います。

異邦人の救いが進んでユダヤ人も救われる

 パウロは異邦人の使徒として遣わされ、その務めを光栄に思っています。
 しかし同胞イスラエルの救いを諦めてはいません。
 ユダヤ人の罪過ちが異邦人の富、世の富となった。
 これはあくまで通過点に過ぎない。
 異邦人の救いが進んでいくなら、ユダヤ人の救いも起こる。
 キリストの福音はエルサレムからユダヤ、サマリアを通り地の果てに向かう。
 そして全世界を駆け巡った福音は、ユダヤ、エルサレムへと帰って来る。
 福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
 パウロは世界規模の世代を超えた神の計画に目を留めています。

イエスが死んで復活したようにイスラエルは回復する

 これはパウロの妄想ではありません。キリストの十字架の死と復活に基づく神の約束です。
 イエス・キリストは私たちの罪を背負い十字架で死なれました。
 神と人とを隔てていた罪は償われ、神と和解することができます。
 またイエス・キリストは律法の要求をすべて満たし、イスラエルと異邦人との間にあった敵意という隔ての壁も取り壊したのです。

十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。

エフェソの信徒への手紙2:16

 そしてイエス・キリストは死者の中からの復活によって力ある神の子とされています。
 このキリストの十字架の死と復活になぞらえて、 ユダヤ人が神から離れることが世界の和解となるならば、受け入れられることは死者の中からの命だと言います。
 神はイスラエルを回復させてくださると、パウロは信じているのです。

救いの喜びに生きる

 そのために重要なのが、ユダヤ人に妬みを起こすこと。
 異邦人が救われているのを見て「いいな。私たちも救われたい。」と思わせる。
 私たちが主の食卓に着いているのを見て、キリストの招きを拒んだ人が外の暗闇で泣きわめいて歯ぎしりする。

 私たちの信仰生活はどうですか。
 救われた私たちを見て、いいなと思う人がいるでしょうか。
 「あの人は感謝と喜びに溢れているな。」と思わせるほど、主を喜んでいますか。
 礼拝の度に、主を喜び、力を得てほしいのです。
 主を喜ぶことこそ、あなたたちの力の源です。
 そして神様の大きな計画を見上げて、神からのビジョンに生かされてほしい。聖霊は老人にも夢を見させ、若者に幻を見せます。
 そして聖霊は私たちを栄光から栄光へとキリストの似姿に造り変え、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の実を結ばせます。
 他の人がうらやむほどに、私たちは新しくされます。
 先に救われた私たちの生き方を通して、神の慈しみが示され、世界が祝福されます。

神の慈しみと厳しさを考えなさい

アブラハムという信仰の根に支えられたユダヤ人

 この神の民によって世界が祝福されるというのは、神が信仰の父アブラハムに約束したことでもありました。
 麦の初穂が聖ければ、そこから生まれた練り粉全体も聖い。
 根っこが聖ければ、それに支えられる枝も聖い。
 同じように信仰の父アブラハムから生まれたユダヤ人も聖なる民であるはずでした。
 これをパウロは、神に手入れされたオリーブの木にたとえています。
 異邦人は神と関係なく生きてきた野生のオリーブです。

神の慈しみによって接ぎ木された

 神様はこのオリーブの木がよく実を結ぶように手入れをします。
 小学校1年生のときにアサガオの間引きとかやったことあるでしょう。
 同じように、実を結ばない枝があれば切り取ります。
 そして良い実を結ぶ枝を接ぎ木します。
 こうして不信仰だったユダヤ人は切り取られ、異邦人が信仰によってつながげられています。
 そして異邦人が救いの喜びに生かされている。

 だからといってユダヤ人に対して「どうだ、いいだろ。そこで泣きわめいて歯ぎしりしてろ。」と言ってはいけません。
 あくまで私たち異邦人は、アブラハムからの信仰の根に支えられているに過ぎません。

福音はまずユダヤ人のため

 マタイによる福音書15章で、異邦人の女性がイエス様に助けを求めました。
 しかしイエス様は無視。
 それでも女性は叫びながらついてきます。
 耐えかねた弟子たちがこの女性を追い払ってくださいと願うと、イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とだけ答えます。
 追い払うことすらしない。異邦人は関係ないという態度です。
 それでも諦めない女性にイエス様は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」と言います。
 異邦人は犬だと。
 ここまで言われても女性は「小犬も食卓から落ちるパンくずはいただきます」と引き下がりません。
 ここでようやくイエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と答え、女性の願いが叶えられたことを伝えました。

 厳しい話だなと思いますが、これが秩序です。
 福音はまずユダヤ人に与えられた。食卓に招かれたのは彼ら。
 しかし彼らが拒んだので、私たちが招かれた。
 本来は私たちのものではないのです。
 ただ神の慈しみによって主の食卓に着いています。
 この慈しみに留まらないなら、私たちも切り取られるでしょう。
 元の枝を容赦しないなら、後付けされた枝には当然容赦などありません。

キリストにつながる

 神様は農夫のように手入れをします。その目的はよい実を結ばせることです。
 しかし私たちは古い生き方を続けてしまいます。
 もう神と関係なく生きてきた野生のオリーブではありません。
 信仰によって生きる神のオリーブになったのです。
 ユダヤ人は行いによって実を結ぼうとした。しかしそれではよい実を結べない。だから切り取られました。
 私たちは聖霊によって実を結ぶものです。

 イエス様も同じような話をしています。オリーブではなくぶどうですが。

私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。

ヨハネによる福音書15:5

 聖霊によってイエス・キリストにつながるとき、私たちは実を結ぶ枝になります。

間違った道から決別する

「信仰」という名の虐待からの解放

 私たちは日々自分の信仰を点検して、自分の力で生きようとしていないか点検する必要があります。
 教会も過去の過ちを繰り返してはいないか点検しなければなりません。
 もし間違った道へ進んでいるなら、改革し神の慈しみに立ち帰るのです。

 かつて教会は人々を騙して支配しました。
 聖書を知らない人々に煉獄という恐怖を教え込み、贖宥状を買わせました。
 教会が人を支配してはいけません。

 現代もカルト宗教が問題になります。
 私たちの教団もかつては間違った方向に進みました。一人の牧師が権威を持って、人の上に立つ不健全な関係があった。マインドコントロールという手法を使って人々の考えを支配した。
 マインドコントロールされると、人は変わります。あたかも聖霊の働きであるかのように、教会は錯覚してしまう。これは罠です。
 そのような間違った支配を行っていた牧師たちは神の厳しい手で打たれ追放されました。
 それから私たちは神の慈しみに留まり、神に喜ばれる教会を建て上げようとしてきました。
 それなのに昔の教えを肯定したり、間違った方法で人を支配するような過ちを繰り返すことがあってはいけません。

教会健康度チェック(日本異端・カルト対策キリスト者協議会)

神の大いなる救いの計画に共に加わろう

 私たちが神の慈しみに留まるなら、ただ恵みによって聖霊の実が結ばれます。
 かつて神と関係なく生きてきた野生のオリーブの枝も実を結ぶなら、元々の枝が実を結ぶのは当然です。
 ユダヤ人も信仰を持つなら、簡単に元の木につながることができます。
 パウロはそのような神の大きな計画に目を留めています。
 私たちも神の救いの壮大な計画に共に加わろうではないかと、共にその実現を見ようではないかとイエス様に招かれています。
 神の慈しみに留まり、恵みをいただき、神の御心をこの地で行っていきましょう。

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