Blogエゼキエル書講解主日説教

主と共に嘆き悲しむ

エゼキエル書講解12

主と共に嘆き悲しむ

エゼキエル書 9:1-11

1 彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」2 すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。3 すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。4 主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」5 また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。6 老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。7 主はまた彼らに言われた。「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ。」彼らは出て行き、都の人々を打った。8 彼らが打っているとき、わたしはひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて言った。「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」9 主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。10 それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」11 そのとき、亜麻布をまとい腰に筆入れを着けている者が報告して言った。「わたしは、あなたが命じられたとおりにいたしました。」

忌まわしいことが起こるこの世界

成人式に振袖を着る女性たち

 先週の月曜日は成人の日でした。全国の多くの町で成人式が行われました。一生に一度の記念の日です。
 特に女性は成人式のために髪の毛を長く伸ばしておいたり、きれいな振袖を着たりする人が多くいます。一生の記念ですね。成人式の時の写真は10年以上たっても大切な宝物です。お見合い写真としても使われます。
 この振袖というのは着るのが難しく、専門的な技術を持った着付け師さんの助けが必要です。そのため、事前に予約して、当日の朝早く着せてもらうのです。女性は大変ですね。男性はだいたいスーツなので楽です。私は成人式のためにネクタイを1本買っただけです。キュッと締めて終わりです。
 成人式のニュースと言えば、だいたい新成人が暴れたとか改造車を乗り回してきたとか、男性の新成人が事件を起こすことが多いです。
 今年の成人式では逆に、女性の新成人が事件に巻き込まれてしまったニュースが大きく取り上げられました。
 横浜出身のある女性も、朝早く着付け会場のホテルに行きました。ところが予約した業者がまだ来ていません。予約の時間になっても来ません。前日にも電話で確認しておいたので間違いありません。業者に電話をしてみましたが、電話もつながりません。業者はとうとう姿を現しませんでした。
 会場のホテルによると、その業者は会場代も支払っていなかったそうです。
 横浜だけではなく、その業者の全国の支店で同じように予約した人たちが、当日になって先方からキャンセルされる被害に遭いました。
 中には祖母からいただいた振袖を預けたまま返してもらっていないという人もいます。
 成人式は一生に一度の喜びの日です。それを共に喜ぶべき人が、ただ金だけもらって逃げてしまいました。

「はれのひ」振り袖業者の行方不明トラブル 100万円超、支払った新成人も「成人式出たかったな…」

 この世界にはこのような忌まわしいことが起こります。
 この世の中で、私たちが隣人を愛するとしたら、どのような反応をすることができるでしょうか。
 一緒に悲しんだり、不義のために憤ったりするのではないでしょうか。
 同じ心をもって接するとき、私たちは彼らの隣人となり、この地に平和を作る者になっていきます。 

印をつける者と破壊する者

 今日の本文はエゼキエルが捕囚になって6年目の6月5日、エルサレムの幻の続きです。
 人のような姿をした者はエゼキエルに神殿の周囲で行われていた偶像崇拝を見せます。そして6人の破壊する者を呼びました。その内の1人は書記のような筆入れを腰に付けています。
 主の栄光は筆入れを持つ者に呼びかけ、エルサレムの中で行われていることのゆえに嘆き悲しむ者の額に印をつけるよう命じます。
 そして他の5人には破壊を命じます。ただし印のある者には手を出してはいけません。主が命じた破壊は神殿から始められました。

 主の御心は何でしょうか。
 主が嘆き悲しんでいます。同じ心で、主と共に嘆き悲しむ者には特別な印が記されています。それは死を過越し、命を得る印です。
 また主は憤っています。不正に満ちた神の民に対して、主とともに憤る者は主の御心を成し遂げます。
 今日の本文を通して、主と共に嘆き悲しみ、主と共に憤り、この地に主の御心を成し遂げていく私たちになることを期待します。

忌まわしいことのゆえに嘆き悲しむ

 まず今日の本文の1節から4節で『1 彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」2 すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。3 すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。4 主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」』 とあります。
 私たちはこの世界で行われているあらゆる忌まわしいことを見ながら、主と共に嘆き悲しんでいるでしょうか。

あらゆる忌まわしいこと

 第6年の6月5日、自分の家で主の御言葉を求めたエゼキエルに、幻の中で人のような姿をした者が現れました。彼はエゼキエルの髪の毛をつかみ、エルサレムに連れて行きます。エゼキエルがそこで見たものは、エルサレムの人々がしていた様々な偶像崇拝でした。神殿の北の門の側には偶像が置かれていました。それは主の激怒を招く像でした。また神殿の壁に穴を開けると、隠された部屋の中でエルサレムの長老たちが偶像に向かって香を焚いていました。また北の門に戻ると、女たちがタンムズ神のための葬式をしています。そして神殿の東側では男たちが神殿に背を向け、太陽を拝んでいました。
 これは忌まわしいことです。人々が造られたものばかり追い求め、造り主を忘れているのです。
 子どもが、親の作るごはんや買ってくれたゲームばかり追い求めて、親に少しも感謝しないとしたらどうしますか。
 これは忌まわしいことですね。その子は懲らしめを受けなければなりません。ただし体罰はいけませんよ。
 旧約時代のユダヤでは、反抗する息子は石で打ち殺しなさいと律法で命じられていました。今はもうイエス・キリストによって律法は廃棄されたので大丈夫です。現代の日本に生きていてよかったですね。
 しかし今日の本文は旧約時代のユダヤの話です。子が親を忘れれば石で打ち殺されなければなりません。まして人がその造り主を忘れたなら、ただでは済まされません。

都を罰する者が来る

 人のような姿をした者は都を罰する6人の者を呼びました。すると北から6人の男たちが来ました。翻訳によっては7人になります。
 彼らは突き崩す道具を持っています。これで忌まわしいことを行う人々を打つのです。
 その内の1人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていました。
 筆は何に使いますか。先週は私たちも筆を使いました。それぞれの決意や好きな言葉を書きました。そこで書いたことを忘れずに一年間歩んでいけたら良いですね。
 筆は書く道具です。破壊するための道具ではなく、記録をつけたり色を塗ったりする道具です。大切なことを忘れないように、書記は筆をもって記録をつけるのです。
 主のもとには全人類のことが記録された命の書があります。
 全ての数学の答えが書かれた本もあると言われています。関係ないですが。
 命の書に名前が記された者だけが神の国に入ることができます。
 この書記の筆入れを持った人は命の書を記録する者でしょうか。主はエルサレムを破壊しようとしながら、その中で命の書に名を記される者を区別しようとしているのです。主の裁きが始まろうとしています。

主が悲しむ者を悲しむ

 主の栄光は至聖所のケルビムの上から出て来て、筆入れを持つ者に呼びかけます。そして「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」と命じます。
 これが主の御心です。忌まわしいことのゆえに嘆き悲しむ者を主は探しています。
 私たちは主と同じ心を持つことができるでしょうか。主が愛するものを愛し、主が嘆くものを嘆くのです。

 聖書を研究すれば主の御心を学び、同じ心になることができるでしょうか。
 聖書を研究していたファリサイ人たちは罪を犯す者たちを憎み、徴税人や罪人を嫌いました。
 イエス・キリストは罪を憎み、徴税人や罪人を愛しました。主は失われた魂を愛しているからです。

 イエス・キリストは群衆を見て深く憐れまれました。
 群衆は飼い主のいない羊のように主を忘れ、弱り果て打ちひしがれていました。彼らがたとえ経済的には満足した生活を送っているとしても、宗教的に正しい生活を送っているとしても、主を忘れているならそれは憐れむべきことなのです。
 主が彼らを見て心を痛めています。

 この日本の99%の人は主を知らずに生きています。駅に行って見てみてください。忙しく行ったり来たりする人のほとんどが、虚しいことのために忙しくさせられ、滅びへと向かって行くのです。

救世軍 社会鍋

 年末に救世軍の方々が駅前で社会鍋をしていました。福音を社会の中で実践していくプロテスタント教会です。
 浜松では珍しく雪が降った日に、賛美歌を歌いながら募金を呼び掛けていました。ほんのわずかなおばあちゃんたちが募金をしていきました。

 福音がそこにあるのに、福音は私たちのところに来たのに、人々は無視して通り過ぎていきます。
 目を開けて、よく見てください。あなたの家族はどうですか。仲の良い友だちはどうですか。
 彼らのことも主は愛しています。しかし彼らが主を知らずさまよっているなら、主は嘆き悲しんでいます。
 まことの羊飼いであるイエス・キリストを信じること、そして互いに愛し合うことこそ、御心に適うことです。

22 神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。

ヨハネの手紙一3:22-23

 どうしたら主の心で愛することができるでしょうか。
 私たちには神の霊、聖霊様が与えられています。私たちの心を主の心で満たしていただくのです。私たちの霊の目を開いてもらうのです。
 この世を見ながら、主が愛するものを愛し、主が嘆くものを嘆く者を主は探し求めています。

神殿を汚せ

 また今日の本文の7節から11節で『7 主はまた彼らに言われた。「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ。」彼らは出て行き、都の人々を打った。8 彼らが打っているとき、わたしはひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて言った。「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」9 主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。10 それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」11 そのとき、亜麻布をまとい腰に筆入れを着けている者が報告して言った。「わたしは、あなたが命じられたとおりにいたしました。」』 とあります。
 私たちは教会が教会であるために憤っているでしょうか。

主の激しい怒り

 主の栄光は他の5人に対して「打て」と命じます。打つときには慈しみの目を注がず、憐れみをかけてはならないと言っています。
 エゼキエルは一人残されて祈りますが、その祈りはもう聞かれません。
 主はもはやエルサレムを祝福することを喜ぶ方ではなく、滅ぼすことを喜ぶ方になってしまいました。
 それはイスラエルが契約に背き、この地に不正を満たしたからです。

主は、かつてあなたたちを幸いにして、人数を増やすことを喜ばれたように、今は滅ぼし絶やすことを喜ばれる。あなたたちは、あなたが入って行って得る土地から引き抜かれる。

申命記28:63

神殿の庭を殺された者で満たせ

 主は「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ。」と言います。
 主がその名を置くと言われた神殿は、打ち殺された人々の死体によって汚されていきます。律法では死体に触れると汚れるので、神殿の庭に死体が置かれれば神殿そのものが汚れてしまいます。
 主の栄光は既に至聖所から出てきてしまいました。
 なぜ主はこのようなことをするのでしょうか。主ご自身が神殿を荒らすなどということがあり得るでしょうか。

アントニオ・ヴァッシラッキ「キリストの宮清め・キリストの生涯」

 イエス・キリストも神殿で暴れました。祈りの家と呼ばれるべき神殿で金儲けが行われ、強盗の巣と化していました。そこでイエス・キリストは縄で鞭を作り、牛や羊を追い出し、両替人の台をひっくり返していきました。
 人々の怒鳴り声や悲鳴、牛や羊たちの鳴き声が入り乱れ、机や銀貨など様々なものが散らかっています。
 イエス・キリストがそのように神殿を荒らしたのです。そこで不義が行われていたので、憤ったのです。

義のために憤る

 私たちが主から離れて行くなら、神殿であっても主が汚します。
 教会も同じです。黙示録の中で主はエフェソ教会に、初めの愛に立ち帰らなければ燭台を取り除けると言われました。それは教会が教会でなくなるということです。ただ建物だけが残り、聖霊の炎は消えて冷たくなっています。
 これが主の御心です。もし私たちが主から離れているなら、憤らなければなりません。私たちが主を忘れているなら、主に立ち帰れと呼びかけるのです。
 祈りの家に祈りがなくなってしまったなら、一緒に祈ろうと呼びかけるのです。教会に愛がなくなってしまったなら、互いに愛し合おうと呼びかけるのです。

 教会の形、制度にばかり心を奪われてしまうと、いつ何をするかと表面的な話ばかりになってしまいます。それでは何を食べようか何を着ようかというこの世の思い煩いに心を奪われた人と変わりません。
 御言葉を通して何を教えられたかとか、この問題のために一緒に祈ってくださいとか、失われた魂の救いのために何ができるかとかいうことは話題に上らない教会は、果たして教会と言えるでしょうか。聖霊の火はもう消えてしまったのでしょうか。
 まず神の国と神の義を追い求めましょう。空の鳥を主が養い、野の花を主が彩るように、この世の必要は全て主が十分に満たしてくださいます。

 まず神殿が神殿として清められるとき、そこから命の水が川となって流れ、全てが生き返ります。
 捕囚から帰還した民はまず自分の家や畑を再建しましたが、不作に悩まされました。預言者ハガイによって、まず神殿を再建するべきであることを教えられます。
 裁きは神の家から始まります。順序を間違えてはいけません。まず教会が教会として建て直されなければならないのです。
 そのために憤る者を主は探し求めています。

印のある者に近づくな

 最後に今日の本文の5節6節で『5 また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。6 老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。』 とあります。
 主の御心に適う人は死から命に移り、この地に神の国を立て上げていきます。

災いが過越す

 打つ者たちは印のある者には近づいてはならないと命じられました。主と共に嘆き悲しむ者は死の裁きを免れたのです。年齢や性別は関係ありません。
 かつてエジプトでも印を見て死が過越していったことがありました。頑ななファラオのために、主は10の災いを下しました。10番目の災いは、エジプト中の長子を打つというものです。それは徹底的な裁きで、ファラオの子も、民衆の子も、奴隷の子も、家畜の子も死ななければなりません。しかしイスラエルの家は小羊を屠り、その血を門と鴨居に塗りました。死の災いは、その血を見て過越していったのです。
 当時のイスラエル人が御心に適っていたというわけではありません。主の命令に従って血を塗ったので、その信仰のゆえに救われました。
 イエス・キリストは私たちのために十字架で死なれました。神の小羊イエスの血潮により、死ぬべき私たちは命を得たのです。
 私たちが御心に適う者だからではありません。イエス・キリストこそ主の愛する子、御心に適う者です。その正しいお方が私たちのために死んでくださいました。その名を信じる信仰によって救われます。
 そして復活し天に上げられたイエス・キリストは私たちに約束の聖霊を送ってくださいました。
 ですから父なる神は私たちをご覧になるとき、御心に適う者として扱ってくださいます。

聖霊の証印

 私たちにも印が押されています。それは聖霊の証印です。

神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。

コリントの信徒への手紙二1:22

 これは神の国の市民としてのパスポートのようなものです。
 黙示録の中で額に印が記された忠実な者たちは永遠の命を得ます。
 この世にあって私たちは神の命を持った神の子とされているのです。それは神の内に生きる人、御心に生きる人です。
 古い私たちはもうイエス・キリストと共に十字架で死んでしまいました。今私たちが生きているのは、私たちのために死なれた神の子に対する信仰によるのです。
 この心を明け渡し、主の心をくださいと求めましょう。

平和御心に適う人にあれ

 私たちは主の祈りの中で、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈っています。
 それは神の国の民である私たちを通して成し遂げられていきます。
 天の神の右の座におられるキリストは教会の頭であり、教会はキリストの体です。ですから私たちがこの地で主の御心を行っていくとき、そこに神の国が介入します。天と地が一つになるのです。
 イエス・キリストが生まれたとき、天使たちは「天には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しました。
 私たちが主の御心を行うとき、この地に神の平和が訪れます。
 主の愛をもって互いに愛するようになっていきます。そして驚くべき御業が起こされていきます。
 主の御心をこの地に成し遂げ、神の国を立て上げていく者を主は探し求めています。

 御心に適う者、神の小羊イエスが私たちのために死んでくださいました。
 死ぬべき私たちは命を得、命の書にその名が記されています。私たちは主のものです。
 私たちの心を主に明け渡し、聖霊様で満たしていただきましょう。
 その時私たちは主が愛するものを愛し、主が嘆くことを嘆く者になります。義のために憤り、教会を建て直していきます。そして御心が天で行われるように、この地に御心を成し遂げていきます。
 主の御心に従い、神の国を立て上げていく私たちになることを願います。

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