主の祈り6 日ごとの糧を求める

主の祈り6

日ごとの糧を求める

箴言 30:8-9

8 むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。9 飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。

生きていくために必要なものを求める

 今日は主の祈りの6回目。主の祈りの第4の願い「我らの日用の糧を 今日も与えたまえ」について見ていきます。
 第1から第3の願いは、御名、御国、御心について祈りました。神様の栄光のための願いです。
 第4から第6の願いは私たちの必要についての願いになります。

日曜の糧とは

 日用の糧とは何でしょうか。
 日用というのは毎日使うもののことで、糧というのは食べ物です。だから言葉そのものの意味としては、毎日の食べ物のことです。英語でもdaily bread 日ごとのパンと訳されています。
 しかし「人はパンだけで生きるのではない」とか「何を食べようかと思い悩むな」と言われたイエス様が、毎日の食べ物のために祈りなさいと教えるでしょうか。
 もちろん私たちが生きていく上で食べ物は必要ですが、生きていくために必要なものは食べ物だけではありません。
 住む家、着る服も必要です。
 社会で生きていくためにはお金もいります。
 孤立しては生きていけないので、人とのつながりも大切です。
 安全が守られることも必要でしょう。
 そして希望や、心に楽しみや喜びを持つことがなければ、人は生きていけません。
 これら命を支えるものが、日用の糧です。

神は人の必要を満たし心を喜びで満たす

 神様は日用の糧を与えてくださいます。
 食べ物を与え、心を喜びで満たしてくださいます。

しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」

使徒言行録14:17

 神様はこのようなお方ですから、自分の必要のために大胆に祈ることができます。
 神様、食べ物を与えてください。
 食欲の秋ですね。何を食べたいですか?
 サンマ?焼き芋?ぶどう?モンブラン?松茸?
 今は色々なものの値段が上がっていっていますね。
 それ自体が問題ではないのですが、問題は私たちの使えるお金が増えないことです。
 神様、経済的な必要を満たしてください!
 他にも皆さんの人生で必要なことがあるでしょう。
 家庭に平安を与えてください。健康を守ってください。一緒に信仰生活を送る友だちを与えてください。結婚できるようにしてください。
 あなたは何を求めていますか?
 もし何かを求める気持ちすら起きないなら、心を動かされるものに出会わせてくださいと祈ってみてください。

生きるために労苦が絶えない

 第4の願いはこの世の良いものを求める祈りです。
 私たちが生きていくために必要なものはたくさんあります。
 それは健康で文化的な最低限度の生活を維持するだけのものではなく、一見無駄に思えるものも必要です。
 それらを満たすために、労苦が絶えません。
 人が生きていくというのは大変なことです。

必要が十分に満たされていたエデンの園

 最初はそうではありませんでした。エデンの園では、人が生きていくために必要なものは十分満たされていました。
 その辺の果物などを自由に食べることができました。
 どんな家に住んでいたかはわかりませんが、仮に家がなかったとしても安全で快適に暮らせる環境でした。
 服を着る必要もなかったのです。
 問題はただ一つ。人が独りでいたこと。
 そこで神様は彼に合う助ける人を与えてくださいました。

人の罪のために人生は苦しみになった

 こんなにも十分な恵みに満たされていたのに、人はヘビにそそのかされ、何か足りないものがあるかのように思わされました。
 それで食べるなと命じられた木の実にまで手を伸ばし、食べてしまったのです。
 その結果、地は呪われ、食べ物を得るために一生苦しまなければならなくなりました。

 罪によって生じた問題は食べ物だけではありません。人間同士の争いもあります。
 助け合うべき人同士が相手を責め、妬み、命を奪います。
 労苦して食べ物を収穫しても、それを一部の力ある人たちが奪います。
 今日本で、食べられるのに捨てられる食べ物の量は約500万トンにもなります。国民全員が毎日おにぎり一個分の食べ物を捨てているくらいの量です。
 これはWFPが世界で食べ物を必要としている人に援助している量を超えています。
 日本を含む一部の力ある国が世界中から食料を集めて捨てています。
 その食料を生産した国では食べ物がなくて苦しむ人がいるのに。
 富も、世界のほんの一握りの人が独占し、貧しい人々を支配し搾取しています。

 また呪われてしまった大地は時に災害を発生させます。
 人々の生活が危険にさらされ、汗水流して生産した農作物も被害を受けます。
 この世界で生きていくために苦労が絶えません。

貧しくなることも豊かになることも危険

貧窮し生きるために盗む

 もし生きるか死ぬかの状況に追い込まれたらどうしますか。
 今日食べるパンがない。
 それならお菓子を食べればいいじゃない。いやいや、お菓子などあるはずがありません。
 自分が食べる分は我慢すればよいが、幼い子ども、弟や妹がお腹を空かせている。
 そうすると食べ物を捨てるほど持っている人に対して怒りがわきます。
 彼らから盗んで飢えている子どもたちに食べさせることは正義ではないかと思えてきます。
 もちろん盗んではいけません。それでも生きるために、不正な方法で食べ物を得るしかないと思ってしまいます。

 お金は生きていくために必要なものですが、お金を得ること自体が目的になることがあります。
 お金を得るために手段を選ばない、あるいは選んでいられない人がいます。
 それで盗んだり、自分の体を売ったりします。
 闇バイトに応募し、詐欺グループに捨て駒のように利用される人たちもいます。簡単に高収入が得られるという甘い話に騙されてはいけません。

飽き足りて神を捨てる

 富は偶像になりやすいです。
 人は神と富とに仕えることはできません。
 日本のように豊かな国にいると、神など必要ないと思ってしまいます。

 金持ちになることも貧しくなることも罪の原因になります。今日の本文にある通りです。

私たちを養う神

 今日の本文はアグルという人の言葉だと伝えられています。
 アグルは祈ります。「貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。」
 自分に定められたパンで養う。それをするのは子どもにとっての親であり、羊にとっての飼い主のような存在です。
 そう、父なる神様、羊飼いであるイエス様が、私たちを養ってくださるお方です。
 イエス様は約束しました。

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

ヨハネによる福音書6:35

 4つの福音書は4人の記者がそれぞれの観点でイエス様のことを記録しました。 だから書かれた記事はそれぞれ違います。
 イエス様がなさった多くの奇跡の中で、ただ1つ4つの福音書すべてに記録された奇跡があります。
 それは5000人の給食です。
 イエス様が養ってくださるというしるしは、それほど人々の心に感動を与えたのでしょう。

それぞれの必要を十分に満たす

 旧約聖書にも父なる神様が民を養ってくださった話が出てきます。
 何もない荒野で、民は天からのパン、マナを食べました。
 マナは毎朝地面にありました。それを集めてきます。早起きした人や健康な人は多く集められそうですね。

 先日、大河ドラマ館でモチまきがあったので子どもたちと行ってきました。
 子どももたくさんいましたが、大人たちの執念がすごかったです。
 より多く集めようと、周りの人を押しのけながらモチを奪い合っていました。

 最初にマナが現れたときも争奪戦だっただろうなと思います。
 ところがテントに戻ってみると、皆それぞれが必要な分だけ集めていました。
 神様は私たちの必要をご存じで、それを十分に与えてくださいます。

恵みに感謝し求める

 これは恵みです。
 この世界を呪われたものにし、食べ物を得るために労苦しなければならなくなったのは私たちの罪のせいです。
 それにも関わらず神様は太陽を昇らせ、恵みの雨を降らし、養ってくださいます。
 そして根本的な罪の問題を解決するために、イエス様は十字架で死なれ復活しました。
 だから、独り子さえも惜しまず与えてくださった神が、私たちに必要なものを与えてくださらないはずがありません。
 この恵みに感謝し、求めているものを神に打ち明けてください。

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

フィリピの信徒への手紙4:6

働く喜び分け与える喜び

 神様が必要を満たしてくださるのだから、思い煩わなくていい。私たちは何もしなくてもいいのだ。
 ということにはなりませんよね。
 マナが降ったのは荒野だったからです。
 カナンの地に入ってからは自分の手で働いて農作物を収穫したり魚をとったりしました。
 何もしなくてもカラスが食べ物を運んでくれたり、エニシダの木の下で寝ていたらパン菓子が置かれているということはありません。

自分の手で働いて収入を得る

 可能なら自分の手で働いて正当な収入を得るべきです。

盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。

エフェソの信徒への手紙4:28

 働くことも本来は喜びです。
 仕事も神様が人に与えてくださった祝福でした。罪のために仕事が労働になっていますが。

分け与える

 人がそれぞれ神に任された仕事をすると、収入を得ます。
 これをどう使うかはその人の自由です。
 パウロはその使い方の一つとして、困っている人々に分け与えることを勧めています。
 どうしても自分の手で働けない人がいます。
 食べものが得られない貧しい状況にある人々、病で働くことができない人々がいます。
 旧約時代のレビ人のように、神様に仕えることに専念するために他の仕事をしない人たちもいます。
 そのような人々の生活を支えるために、持っているものを分け与えることは大事です。
 それは持っている人の責任です。

 自分のために使うことも喜びです。
 ささげることも私たちの心を喜びで満たします。ささげた人だけが体験できる喜びがあります。
 より多く分け与えられるように、より多くささげられるように、祈ってください。

私たちの必要のために祈る

 主の祈りは我らの祈りです。
 「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るとき、自分の必要のためだけでなく他の人の必要のためにも祈ります。

 祈りで大事なのは主の御心との一致です。
 神様はあなたを祝福し、心を喜びで満たしたいです。だからまず自分の必要のために祈っていいです。
 しかし自己中心的ではいけません。
 神を愛すること。誰かを愛することのために祈ってください。
 神様のためにもっと多くささげられる信仰と、ささげる力を与えてください。
 私たちの周りで食べもののない人がいます。居場所のない人がいます。寒くなってきましたが暖かい服のない人がいます。友だちがおらず寂しがっている人がいます。戦争の危機の中、安全を失っている人がいます。心に楽しみや喜びがなく病んでいる人たちがいます。
 神様、彼らの必要を満たし、心を楽しみと喜びで満たしてください。
 そのように人々の必要のためにも祈ってください。

 神様は私たちに日用の糧を与えてくださいます。その日その日に必要なものを十分満たしてくれます。
 神様に必要なものを正直に打ち明け、神様の恵みに満たされ、人生を共に楽しみ喜んでいきましょう。

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