主はこの地を見捨てられたのか

エゼキエル書講解11

主はこの地を見捨てられたのか

エゼキエル書 8:1-18

1 第六年の六月五日のことである。わたしは自分の家に座っており、ユダの長老たちがわたしの前に座っていた。そのとき、主なる神の御手がわたしの上に下った。2 わたしが見ていると、人の有様のような姿があるではないか。その腰のように見えるところから下は火であり、腰から上は琥珀金の輝きのように光輝に満ちた有様をしていた。3 彼が手の形をしたものを差し伸べて、わたしの髪の毛の房をつかむと、霊はわたしを地と天の間に引き上げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った。そこには、激怒を起こさせる像が収められていた。4 そこには、かつてわたしが平野で見た有様と同じような、イスラエルの神の栄光があった。5 彼がわたしに、「人の子よ、目を上げて北の方を見なさい」と言ったので、北の方に目を上げると、門の北側に祭壇があり、入り口にはまさにその激怒を招く像があるではないか。6 彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る。」7 彼はわたしを庭の入り口に連れて行った。見ると、壁に一つの穴があるではないか。8 彼がわたしに、「人の子よ、壁に穴をうがちなさい」と言ったので、壁に穴をうがつと、そこに一つの入り口があるではないか。9 彼は、「入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい」と言った。10 入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれているではないか。11 その前に、イスラエルの長老七十人が、シャファンの子ヤアザンヤを中心にして立っていた。彼らは、それぞれ香炉を手にしており、かぐわしい煙が立ち昇っていた。12 彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが、闇の中でおのおの、自分の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている。」13 彼はまた、わたしに言った。「あなたは、彼らが行っている更に甚だしく忌まわしいことを見る」と。14 彼はわたしを、主の神殿の北に面した門の入り口に連れて行った。そこには、女たちがタンムズ神のために泣きながら座っているではないか。15 そこで彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。あなたは、これより更に甚だしく忌まわしいことを見る」と。16 彼はわたしを主の神殿の中庭に連れて行った。すると、主の聖所の入り口で、廊と祭壇の間に、二十五人ほどの人がいて、主の聖所を背にし、顔を東に向けていた。彼らは東に向かって太陽を拝んでいるではないか。17 彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、わたしの鼻に木の枝を突きつけて、わたしを更に怒らせようとしている。18 わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。彼らがわたしの耳に向かって大声をあげても、わたしは彼らに聞きはしない。」

神を見失っている

 今日は大晦日です。2017年の最後の日を迎えました。今年は1月1日が主日で、12月31日も主日です。礼拝で始まり、礼拝で終わる一年でした。
 この年末年始の時期は様々な礼拝がささげられます。
 まずクリスマスがあります。イエス・キリストに礼拝をささげます。
 また今夜は寺で除夜の鐘が鳴らされます。鐘の回数は108回です。これは仏教において人の心を煩わせる欲望が108個あるという考えに基づいています。これらの欲を全て捨て去ることができれば、この苦しみの世界から解放されることができると考えられています。そのために修行に励むわけですが、厳しい修行をしなくても除夜の鐘を聞くことで欲が消えていくというありがたい音なのだそうです。
 そして年が明けると神社に初詣に行きます。早朝に初日の出を見に行く人もいますね。いつもと何も変わらない太陽が昇るのですが、元旦の太陽は特別扱いされます。
 実家に行って墓参りをする人もいると思います。そこで線香をそなえて先祖に礼拝をささげます。
 このように様々な神や人、物に礼拝がささげられます。しかも多くの日本人は、一人でこれら全てをします。
 なぜこんなに様々な相手に礼拝をささげるのでしょうか。信心深いからでしょうか。いいえ、本物の神を見失っているからです。

エルサレムで行われた数々の忌まわしいこと

 今日の本文はエゼキエルが捕囚になって6年目の6月5日のことです。
 捕囚の民の長老たちはエゼキエルの家に集まっていました。エゼキエルはそこで主に出会います。
 主はエゼキエルを幻の中でエルサレムに連れて行きました。エルサレムでは様々な忌まわしいことが行われていました。そこで主は怒り、祈りを聞かないと言われます。
 エルサレムの長老たちは「主はこの地を見捨てられた」と言っていました。本当にそうでしょうか。
 私たちは主に出会っているでしょうか。私たちは本物の神を捨て、偽物の神を造ってしまいます。私たちがこのようにこの地を不法で満たしたので、神が見えなくなってしまっています。
 神がこの地を見捨てたのではありません。主なる神は変わらない愛をもって私たちを救い出します。
 今日の本文を通して、御言葉に聞き従い、生きておられる神に出会い、罪で汚れたこの地を洗い清める私たちになることを期待します。

御言葉中心の礼拝

 まず今日の本文の1節から4節で『1 第六年の六月五日のことである。わたしは自分の家に座っており、ユダの長老たちがわたしの前に座っていた。そのとき、主なる神の御手がわたしの上に下った。2 わたしが見ていると、人の有様のような姿があるではないか。その腰のように見えるところから下は火であり、腰から上は琥珀金の輝きのように光輝に満ちた有様をしていた。3 彼が手の形をしたものを差し伸べて、わたしの髪の毛の房をつかむと、霊はわたしを地と天の間に引き上げ、神の幻のうちにわたしをエルサレムへと運び、北に面する内側の門の入り口に連れて行った。そこには、激怒を起こさせる像が収められていた。4 そこには、かつてわたしが平野で見た有様と同じような、イスラエルの神の栄光があった。』 とあります。
 私たちはどのようにして神と出会うことができるでしょうか。

神殿での礼拝

 今日の本文も年末の話です。第6年の6月5日。全然年末じゃない感じですが、ユダヤの暦では7月が正月です。7月1日に新年の祭りをします。
 太陽暦で言うと大体9月中旬です。秋の始まりがユダヤの新年になります。ですから6月5日というと私たちの感覚では8月下旬くらいで、暑さのピークを過ぎてきた頃になります。
 このときエゼキエルは自分の家にいました。バビロンの捕囚の地にある家です。そこにユダヤ人の長老たちが集まっていました。彼らは何をしに来ていたのでしょうか。忘年会でしょうか。
 20章でも長老たちはエゼキエルの家に集まっています。そこには、主の御心を問うためとあります。
 民の代表である長老たちは主の御心を聞くために預言者エゼキエルのもとに来ていました。主と出会うための仲介者の役割を、預言者に求めていたわけです。
 これはもともと祭司が行っていたことです。
 主の家である神殿の奉仕は祭司の役割です。人々は神殿に来ていけにえをささげました。いけにえを民から受けとって主にささげるのも祭司の役割です。
 また祭司は民のために主からの祝福を祈り、律法を教えました。神と人との仲介者は祭司だったのです。
 ところが人々はその意味を忘れ、いけにえをささげるという行為そのものが礼拝の目的になってしまいました。律法を教えるべき祭司自身が律法を忘れてしまいました。主に出会うという礼拝の目的を見失い、決まった時間に決まった場所で、決まった方法でささげる形式的な礼拝になっていました。

会堂での礼拝

 バビロンにいる捕囚民たちはもうエルサレムの神殿に行っていけにえをささげることができません。神に出会う方法が断たれてしまいました。
 そこで主の御言葉を伝える預言者エゼキエルのもとに来たわけです。
 主なる神様に出会う方法、礼拝の形式が変わりました。神殿での儀式から御言葉へ礼拝の中心が変わりました。これはやがて会堂で御言葉を聞く形式に変わっていきます。
 新約時代にはそれが教会に引き継がれました。初代教会がまず熱心にしたことは使徒の教え、キリストの言葉を聞くことでした。
 しかしやがて礼拝はパンを裂くこと、儀式が中心になってきました。そこで500年前にマルティン・ルターは宗教改革を行い、聖書のみ、御言葉中心の礼拝に立ち帰っていきました。
 今でも礼拝は御言葉を聞くことが中心になっています。
 私たちがささげる礼拝はどうでしょうか。特定の時間、場所、方法に捕われてはいないでしょうか。
 主日に教会でささげるこの1時間半だけが礼拝で、他の時間や場所では神など知らないという生活になっていないでしょうか。
 主は主日だけ生きているのではありません。主は教会だけにいるのではありません。
 御言葉中心の礼拝ということは、わたしたちがいつどこにいるとしても、主の御言葉に聞き従うなら、それが礼拝になるのです。
 仕事をしていても、学校で勉強していても、正月に家で家族とテレビを見ていても、主と共に歩むならそれが礼拝になります。
 もちろん主日の礼拝は重要です。基礎です。基礎ができていないのに応用はできません。
 主日の礼拝を誠実に守る人が生活全体を通して礼拝者になることができます。

神に喜ばれるいけにえ

 エゼキエルは自分の家で座っていました。そこで主なる神の御手に捕らえられました。そしてかつてケバル川の河畔で見たような主の栄光を見ました。
 特別な場所にいたわけではありません。おそらく祈っていたと思いますが、いけにえをささげるなど特別なことはしていません。
 私たちも御言葉と祈りの中で神に出会う生活を送ることができます。
 例年、年末には断食祈り会をしてきました。昔は3泊4日でしていた時期もありました。なぜ断食をするのか。集中して祈るためです。
 しかしつい私たちは痩せるためとか、健康になるためとか、空腹に苦しむことで祈りを聞いてもらおうとか、間違った目的で断食するようになってしまいます。
 もちろん正しい心で断食するならいいです。断食そのものを否定するわけではありません。
 しかし集中して祈るためなら、実は2日も3日もいらないです。そこで今日は一日だけにプログラムを集約しました。短い時間でしたが、御言葉と祈りに専念でき、よい時間になったと思います。
 これを生活全体を通して行っていきたいものです。生活の中で、御言葉と祈りで主と出会うのです。それは職場でも、学校でも、家でもできます。
 パウロはこう勧めています。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

ローマの信徒への手紙12:1

 もうすぐ新しい年を迎えますが、新しい年も日々の生活の中で主と出会う私たちになることを願います。

偽物の神

 また今日の本文の5節から16節で『5 彼がわたしに、「人の子よ、目を上げて北の方を見なさい」と言ったので、北の方に目を上げると、門の北側に祭壇があり、入り口にはまさにその激怒を招く像があるではないか。6 彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか。しかし、あなたは更に甚だしく忌まわしいことを見る。」7 彼はわたしを庭の入り口に連れて行った。見ると、壁に一つの穴があるではないか。8 彼がわたしに、「人の子よ、壁に穴をうがちなさい」と言ったので、壁に穴をうがつと、そこに一つの入り口があるではないか。9 彼は、「入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい」と言った。10 入って見ていると、周りの壁一面に、あらゆる地を這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれているではないか。11 その前に、イスラエルの長老七十人が、シャファンの子ヤアザンヤを中心にして立っていた。彼らは、それぞれ香炉を手にしており、かぐわしい煙が立ち昇っていた。12 彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが、闇の中でおのおの、自分の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている。」13 彼はまた、わたしに言った。「あなたは、彼らが行っている更に甚だしく忌まわしいことを見る」と。14 彼はわたしを、主の神殿の北に面した門の入り口に連れて行った。そこには、女たちがタンムズ神のために泣きながら座っているではないか。15 そこで彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。あなたは、これより更に甚だしく忌まわしいことを見る」と。16 彼はわたしを主の神殿の中庭に連れて行った。すると、主の聖所の入り口で、廊と祭壇の間に、二十五人ほどの人がいて、主の聖所を背にし、顔を東に向けていた。彼らは東に向かって太陽を拝んでいるではないか。』 とあります。
 私たちは忌まわしい偶像を作っていないでしょうか。

香を焚く

 主はエゼキエルの髪の毛の房をつかみ、エルサレムへ連れて行きました。
 雲に乗って飛んでいくとか、魔法の粉をかけるとか、どこでもドアとかメルヘンな方法もあったでしょう。髪の毛をつかむ。すごく強引な感じがします。これだけで神の怒りが伝わってきそうです。
 主はなぜこのような方法でエゼキエルを連れて来たのでしょうか。エルサレムで行われている忌まわしいことを見せるためです。
 まず主は神殿の北側の門へ連れて行きました。そこで北の方を見ると、激怒を招く像がありました。神殿の周りにまで偶像が置かれていたわけです。
 さらに主は壁に穴を開けるように命じました。壁の向こうには部屋があります。部屋にはどこかに入り口があるわけですから、そこから入ればいいでしょう。しかし主は壁に穴を開けよと言っています。これは普通の入り口から入ることはできない、隠された部屋に入るためです。エゼキエルが壁に穴を開けてできた入り口から入ると、部屋の壁一面に地をはうもの、獣、群衆が拝んでいたあらゆる偶像が彫られていました。
 そしてシャファンの子ヤアザンヤを中心にして70人の長老たちが香を焚いていました。彼らは何をしていたのでしょうか。暗い部屋で火を持って、キャンドルサービスでしょうか。
 香を焚くというのは、その香りや煙によってささげる礼拝行為です。イスラエルでも香を焚いて主に礼拝をささげました。カトリックのミサでも香を焚きます。香を主に対して焚くならいいですが、他のものに焚くなら偶像を礼拝することになります。エルサレムの長老たちは偶像に香を焚き、礼拝していたのです。
 しかもシャファンはヨシヤ王の前で律法の書を朗読した優れた書記官でしたが、その子が率先して偶像崇拝をしている。
 また香炉を持つことができるのは祭司だけでした。この場面は様々な問題を含んでいます。
 線香や焼香も香の一種です。これは死者に対して礼拝をささげることになります。もちろん葬式は通過儀礼であり、墓は家族の財産ですから、大切にしなければなりません。
 私たちは神の前で、また遺族の前で、どう振る舞うべきかよく気をつけなければなりません。

偶像を造る

 エゼキエルが再び門のところに戻ると、女の人たちが泣きながら座っています。
 なぜ泣いているのでしょうか。タンムズ神が死んだからです。
 タンムズというのは元々はシュメール人の神の一つです。死と再生の神として崇められていました。また水の神でもあります。
 ユダヤの暦を見ても、4月のところにタンムズと書いてあります。太陽暦で言うと6月中旬から7月中旬までです。ちょうど暑くなり、夏が始まる時期ですね。中東では乾季になります。
 雨が降らなくなり、野菜が枯れてしまう。これはタンムズ神が死んだからだと考えました。それでタンムズ神のための葬式をしたのです。
 エルサレムは今バビロンによって滅ぼされようとしているというのに、バビロンの神を取り入れて偶像崇拝をするという有様です。
 さらに神殿の中庭、東側に回ってみると、25人ほどの人たちが聖所の前にいました。しかし彼らは主の聖所に背を向けています。そして東に向かって太陽を拝んでいます。
 太陽というのは私たちが生きていくために不可欠な存在です。ですから太陽が神のような存在に思えてきます。太陽を神とする民族は多いです。
 日本もそうです。中国から見て太陽の昇る方にあるということを誇りとして、国の名前を日の本、日本としました。
 特に元旦の朝に昇る太陽は特別な感じがします。日本人はこの太陽を見ながら、何となく手を合わせて、今年もよろしくお願いしますと祈りたくなってしまうのです。
 実際にはいつもと同じ太陽があるだけです。
 確かに太陽は大事ですが、創造の4日目に造られた被造物の一つです。私たちのために造られたものの一つに過ぎません。
 私たちは便利な時代に生きています。よいもの、よいサービスを簡単に手に入れることができることができます。インターネットで注文すれば、何でもすぐ自宅まで届けてくれる。その陰でそれを作ったメーカーや配送業者の存在を忘れてしまいます。それで配送が遅れたりすれば腹を立ててしまう。造られたものを賛美するけれど、造り主を侮る時代に生きています。
 このような偶像崇拝が主を激怒させています。

隠れた行い

 エルサレムの長老たちは壁に囲まれた部屋の中で偶像に香を焚いていました。
 主は、闇の中でと言っています。長老たちは隠れて罪を行い、誰にも見られていないと思っていました。
 私たちはこのように隠れて罪を犯します。誰も見ていないという思いが私たちを罪に誘います。

 2017年12月23日、大阪の寝屋川で娘を10数年間監禁していた両親が逮捕されました。娘は33歳でしたが、体重が19㎏しかありませんでした。死因は室内にいながら、凍死だったそうです。

プレハブに娘を十数年間閉じ込めか 遺棄容疑で両親逮捕

 なぜ自分の子どもにこれほど残酷な仕打ちをしたのでしょうか。
 この家族は近所付き合いがほとんどありませんでした。高い塀で囲まれ、外の世界と断絶されていました。
 誰も見ていない、誰とも関わりがないという環境で、猟奇的な事件が起こります。
 住民同士がよく挨拶を交わす地域では犯罪が少ないそうです。いつも地域の誰かの目があるからでしょうか。

 私たちはいつも主から見られています。全てのことは主の目に明らかであり、何も隠すことはできません。醜いこの心まで全て見られています。
 ある意味では恐いことです。監視されているようで苦しくなります。
 主はどのような目で私たちを見ているのでしょうか。
 主は私たちを裁くために冷たい目で見ているのではありません。親が愛する子を見つめるように、温かい目で見てくださっています。

わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」

詩編139:11

 私たちは神に知られている。髪の毛の数まで、心の奥に秘めた誰にも言えない悩みも知られている。
 もう偽物の神を作ってさまよう必要はありません。本物の神の愛が、私たちの心に注がれています。

この地を不法で満たした

 最後に今日の本文の17節18節で『17 彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、わたしの鼻に木の枝を突きつけて、わたしを更に怒らせようとしている。18 わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。彼らがわたしの耳に向かって大声をあげても、わたしは彼らに聞きはしない。」』 とあります。
 神はこの地を見捨てたのでしょうか。

主への挑発行為

 エルサレムの長老たちは「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられた」と言っています。
 確かにエルサレムはバビロンの脅威にさらされていますが、主は助けてくれません。それは主が見捨てたからでしょうか。
 彼らのしていることを見れば、真相は明らかです。彼ら自身が忌まわしいことをし、主を激怒させています。
 主ご自身、「わたしを聖所から遠ざけるためにしていること」だと指摘しています。
 私たちは偽物の神を作ることで、本物の神に敵対しています。
 イスラエルの民は主の力強い御手に導かれてエジプトを脱出しました。本物の神を見ながらシナイ山まで来ました。山に満ちる主の栄光を見ました。ところが指導者モーセが山に登ったまま帰って来ない。そこでアロンは金の子牛の像を作り、それを神としました。
 私たちはそのような過ちを繰り返しています。本物の神を見失い、偽物の神を造って崇める。
 偽物の神は世界中に満ち溢れています。どれかは私たちの心を満たしてくれるかもしれない。しかし偽物は私たちを決して満足させてくれません。
 それはのどが渇いたときに海水を飲むようなものです。海に行けば海水はたくさんあります。これでもう渇く心配はないでしょうか。海水を飲めば、もっとのどが渇きます。
 偽物は私たちを傷つけ、飢え渇かせます。
 この世界は私たちの罪のために壊れています。この地を不法で満たしているのは私たち自身です。私たち自身が神から離れ、神の栄光を受けられなくしたのです。

神を見失った長老たち

 エルサレムの長老たちは主を怒らせました。主は「わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。彼らがわたしの耳に向かって大声をあげても、わたしは彼らに聞きはしない。」と言い放っています。
 私たちは主に見捨てられたと思うことがあるかもしれません。主は私たちを助けてくれない。祈りに答えてくれない。
 それは主が見捨てたのではなく、私たちが神を見失ったからではないでしょうか。
 携帯電話にカメラがつくようになり、最近はビデオカメラをあまり使わなくなりました。久しぶりに使おうと思っても使い方を忘れています。電源を入れても、画面が真っ暗なのです。あれ、壊れたかなと思って見回してみたら、レンズにカバーがついたまま。
 レンズに覆いがかかっていたり、汚れていたりすればよく見えません。
 私たちの目は開いているでしょうか。霊の目が閉じていたり、汚れていたりすれば本物の神が見えなくなってしまいます。
 神が見捨てたので神が見えないのではありません。まず私たち自身が罪で汚れているので、神が見えなくなってしまうのです。

神に出会ったエゼキエル

 一方でエゼキエルは主の栄光を見ました。
 エゼキエルは何をしたのでしょうか。何もしていません。ただ信じました。
 彼の上に臨んだ主の御手を信じ受け入れたので、見えたのです。
 主は罪によって汚れた私たちを洗い清めます。

論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。

イザヤ書1:18

 たとえ私たちの罪が緋のように赤くても、キリストの十字架の血潮によって雪のように白くなることができます。
 浜松にいると雪と言われてよくわからないかもしれませんが、とにかくきれいに洗われるということです。
 レンズがきれいになるとよく見えます。今まで気づかなかった汚れまで見えるようになります。
 清められた人ほど、罪に対して敏感になります。
 この世界を見渡してみてください。この世界の罪と悲惨が見えるでしょうか。飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている人々が見えるでしょうか。
 見えるものには見えるものの責任があります。
 汚れを洗い流すためには水が必要です。
 水はどこから来ますか。水の神タンムズは死にました。またタンムズのために泣きましょうか。
 その必要はありません。イエス・キリストは枯れることのない命の水を価なしで飲ませようと約束しました。その命の水、聖霊が私たちを洗い清めます。

わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。

エゼキエル書36:25

 まず私たちが命の水によって洗われ、そして私たちから命の水をこの世界に流し、この世を清めていきましょう。
 神はこの地を見捨てていません。私たちを通してこの地が贖われることを、主は願っておられます。

 この世界は壊れています。主が見捨てたのではありません。私たちの罪のために汚れているのです。
 まず私たちが主の御声に聞き従い、この地を命の水で潤していく私たちになることを願います。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください