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主はわれらの救い

アドベント

主はわれらの救い

エレミヤ書23:1-6

1 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。2 それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。3 「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。4 彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。6 彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

倒れた人にムチを打つ世界

 熊本市に慈恵病院という病院があります。慈しみと恵みで慈恵です。カトリックの神父さんたちによって開設されました。
 慈恵病院には「こうのとりのゆりかご」という事業があります。こうのとりのゆりかごでは、妊娠・出産・育児などの相談窓口になったり、親が育てることのできない赤ちゃんを預かったりします。
 親が育てることのできない赤ちゃんたちがいます。親が経済的に貧しいとか、病気や事故で育てられない場合もあるでしょう。あるいは虐待してしまうとか、親が事件を起こしたとかいう事情で赤ちゃんを保護しなければならないかもしれません。
 場合によっては、望まない妊娠をしてしまったということもあります。
 こうのとりのゆりかごに赤ちゃんを預けたお母さんの4人に1人は15歳未満で、強姦の被害者もいました。
 望まない妊娠をしてしまった女性たちは、どれほど苦しまなければならないことでしょうか。私には想像もできません。
 妊娠しているという事実を受け入れることも難しいし、誰かに打ち明けることも難しい。出産したとしてもシングルマザーになるケースが多いです。一人で育てていけるのかという不安もあるでしょう。
 中絶という方法もあります。親が望んでいなかったとしても、自分のお腹の中に新しい命が宿っているのです。それを絶つというのは、簡単なことではないはずです。
 このような何重もの苦しみを抱える女性たちに対する支援は、十分にないのが現状です。
 一人で悩みを抱え、孤立する女性が多くいます。
 中には隠れて出産し、赤ちゃんを殺してしまう事件も起こります。

 今月7日にも死産した赤ちゃんをマンションに遺棄したとして、東京に住む20代の女性が逮捕されました。
 警察はこの女性について慈恵病院から連絡を受けていました。
 6日の深夜にこの女性が病院にメールを送っていました。そのメールの中には、「朝7時ごろに死産をしてしまった。両親とも死別しており頼れる人もいない。身分証も保険証もない。どうしたらいいか」とありました。
 7日になって電話でやり取りをしたところ、女性が「少なくない出血がある」と話したため、院長は女性の保護が必要だと判断して警察に連絡しました。
 ところが警察が取った対応は、女性の保護ではなく死体遺棄容疑での逮捕でした。

乳児遺棄容疑で母逮捕 相談受けた慈恵病院、警察に苦言「女性保護すべきだ」

 確かに女性は死産した赤ちゃんの遺体を放置しました。しかしこの女性の置かれた状況を考えるとき、逮捕というのは妥当でしょうか。
 倒れた人に必要なのはムチでしょうか。正義や恵みはどこにあるのか。

民を顧みない指導者は災いだ

 今日の本文はエレミヤの預言です。南ユダ王国が滅亡しようとする時代に預言しました。今日の個所は南ユダ王国最後の王、ゼデキヤ王の時代に語られたものと考えられます。
 牧者たちとは、王や祭司のような指導者たちです。彼らは、国が滅びようとするのに民を守りませんでした。
 他の個所ではこう言われています。

群れを養う者は愚かになり/主を尋ね求めることをしない。それゆえ、彼らはよく見守ることをせず/群れはことごとく散らされる。

エレミヤ書10:21

 一番の問題は主を尋ね求めなかったことです。
 エレミヤが何度も主の言葉を告げたのに、主に立ち返ることがありませんでした。
 エレミヤはゼデキヤ王に言いました。主はあなたの前に命の道と死の道を置いた。エルサレムに留まる者は剣と飢饉と疫病で死ぬ。しかしバビロンに降伏する者は生き残る。どちらかを選ばなければならない。
 しかしゼデキヤ王は降伏することを拒みました。エルサレムはバビロンによって包囲され、多くの人が飢饉と疫病で死にました。ついにエルサレムが陥落するとまた多くの人が剣で殺されました。
 ゼデキヤ王はちゃっかり逃走しましたが、捕まり、目の前で家族を殺され、目を潰されてバビロンに連れて行かれました。死よりも苦しい結果になりました。
 王が民を取り扱わなかったので、王が神によって取り扱われることになりました。
 王はなぜエレミヤの言葉に従わなかったのでしょうか。
 ゼデキヤは個人的にエレミヤに相談に行ったこともありました。そのときもエレミヤは、降伏せよという主の言葉を告げました。
 王は、降伏したら先に逃げ出した国民に何をされるかわからないと恐れていました。
 結局王にとって大事なのは民の命ではなく、自分の立場でした。
 民のことを顧みない王は災いです。

正義と恵みの業を行う若枝

 主は、「見よ、このような日が来る」と言います。
 それは散らされた群れを牧場に帰らせる日です。
 羊たちは主が立てる羊飼いによって守られます。
 その羊飼いは若枝と呼ばれています。
 若枝は旧約聖書の中でメシアを意味する言葉として出てきます。イザヤはこのように預言しました。

1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち 2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。

イザヤ書11:1-5

 エッサイはダビデの父の名前です。その切り株から若枝が出てきます。
 ですからダビデ王朝は一度切り倒されるけれど、再びダビデの子孫が王になるという約束です。
 そしてこの王は、正義と恵みの業を行うのです。

正義と恵みは両立し得るか

 正義と恵みの業とはどのようなものでしょうか。
 正義は、正しいものは正しく、悪いものは悪いと区別されることです。正しい人が損をしたり、悪い人が繁栄したりするのは正義ではありません。
 恵みとは、受ける資格がないものを受けることです。正しい人が正しく扱われたり悪い人が悪く扱われるのは当然の報いであって、恵みではありません。
 この2つは両立するでしょうか。
 悪い人が恵みを受けて正しい人のように扱われたら、それは正義でしょうか。

イエスが行った正義と恵みの業

 イエス・キリストのところに姦淫の現場で捕らえられた女性が連れてこられました。
 律法に従えば、この女性は死刑になります。それが正義でしょう。
 あるいは、これまで恵み深く振る舞ってきたイエスは、この女性を弁護するかもしれません。それが恵みです。ところがそれでは律法を無視することになります。
 そこでイエスはこう答えました。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
 これを聞いた人たちは、年上の人から一人また一人と立ち去っていきました。そしてイエスと女性だけが残りました。イエスと女性はこのような会話を交わしました。

10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕

ヨハネによる福音書8:10-11

 これが正義と恵みの業です。

 私たちは罪人です。正しく生きることができません。
 羊飼いの声を無視して逃げ出した逃亡羊たちです。
 このような悪い羊は、ムチで打ち叩くのが正義でしょう。
 もちろん羊飼いに従わないのは悪いことです。しかし羊飼いから離れて滅びへと向かう羊に本当に必要なのは、探し出され、保護されることです。
 そのような恵みを受け、もとの牧場に帰って来て、正しい道に導かれることで正義が実現します。

 イエス・キリストは正義と恵みの業をこの女性だけに行ったのではありません。
 私たちは皆、神から離れた羊たちです。この背きの罪をイエス・キリストは背負い、十字架で死にました。そして復活し、新しい命に生きています。
 私たちがこのイエス様につながるとき、私たちは義と認められます。ただイエス様を信じる信仰によって義とされるのです。
 そして私たちの背きの罪は十字架の死で償いが完了し、新しい命に生きることで正しい道へ導かれていきます。
 切り株から生えた若枝のように、新しい命に満ちあふれて上へ上へと伸びていくのです。
 こうしてイエス・キリストの十字架と復活によって正義と恵みの業が行われました。

恵みで贈られるべきクリスマスプレゼント

 クリスマスが近づいてきました。子どもたちはサンタクロースからのプレゼントを待ち望んでいます。
 しかし親からこのようなことを言われることが多くあります。「いい子にしていないとプレゼントがもらえないよ。」
 クリスマスはすべての人のための喜びの知らせなのに、条件をつけてしまいます。
 それでは恵みではなくなってしまいます。
 むしろクリスマスのプレゼントも期待できないような状況にいる子どもにこそ、プレゼントが必要です。
 正しく生きることができない問題を抱えた子どもたち。自分にはプレゼントをもらう資格なんてないと落ち込んでいる子どもたち。そもそもクリスマス?何それ?と思っている子どもたちがいます。
 神はそのような子たちにもプレゼントを備えています。恵みが注がれています。
 そしてその恵みがあるから、あなたは神に愛されている子どもなのだから、ふさわしく生きようと言うことができます。
 イエス・キリストの正義と恵みの業を受け取り、私たちもクリスマスに正義と恵みの業を行う者にさせていただきたいです。

神は私たちの帰りを待っている

 若枝である方は、「主は我らの救い」と呼ばれます。この救いという言葉は正義とも訳されます。主はわれらの救い、われらの正義です。
 しかし正義は行われているのでしょうか。
 イエス様が十字架で正義を行いました。もう正義が行われたのだから、悪い人がそのままでも仕方ないのでしょうか。
 いや、神は悪を放っておきません。終わりの時に裁きがあります。
 恵みで救われたのだから、もう罪を犯してはならないと願っています。
 じゃあその裁きはいつなの?いつまで正しい人が損をしなければならないのか。いつまで悪人がふんぞり返っているのを我慢しなければならないのか。
 遅いんじゃないの?!
 遅いんじゃないんです。神様は待っています。
 もし今すぐイエス様が帰って来て審判が行われたとしたらどうでしょう。
 冷や汗をかく人が多いのではないでしょうか。ちょっと待って、まだ神様のところに帰っていない。家族が、友だちがまだ神様のところに帰って来ていない。
 恵みの神は、そのような人たちに猶予を与えているとも言えます。
 正義の神は、私たちが滅びることを願っていません。
 神が願っているのは、私たちが生きることです。

31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

エゼキエル書18:31-32

 神は誰の死も喜びません。死ぬな、わたしのところに帰って来て生きよ、と呼びかけています。

 私たちも、誰の死をも喜ぶことはできません。
 年を取って死ぬ方もいますが、適切に対処すれば助かる命もあります。
 感染症の拡大を防げば守られる命があります。適切な保護を受ければ守られる小さな命があります。
 若い女性が望まない妊娠をさせられ、苦しんでいます。小さな命が捨てられ、殺されています。
 孤独の中で、自ら命を絶つ人もいます。
 そのような人たちに対してこの世界は、自己責任だとかお前が悪いんだとか言って裁きます。石を投げ、ムチで打ちます。
 死産になった赤ちゃんをどうしたらいいかわからず、家に置いておいた。それは死体遺棄です。逮捕するのが正義かもしれない。
 しかしそれで何が守られるのでしょう。
 私たちはよく考えなければなりません。

 神は誰の死をも喜ばない。どうしてお前は死んでよいだろうか、死ぬな、立ち返って生きよ、生きよ。
 私たちを滅びから救い、命を与える方がイエス・キリストです。
 主はわれらの救いです。主はわれらの正義です。
 私たちはこの方から恵みを受け取りました。そして神様のところに帰ってきました。
 イエス・キリストの正義と恵みの業を受け取った私たちも、正義と恵みの業を行う者になっていきたいです。
 クリスマス。この恵みを、救いを必要としている人たちに届けていきましょう。

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