主は我らの救い
エレミヤ書 23:5-6
5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。6 彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
いい子にしないとクリスマスは来ない?
この社会は正しい生き方を提示します。
学校で勉強していい成績を取り、大学に進学する。卒業したら就職してお金を稼ぎ、税金を納める。結婚して子供を産む。資産運用をして老後の蓄えを作る。こうあるべきだ。こういう人生が幸せだ。
学校では先生の教えた通りにしなければ、×をつけられます。
男性はこうあるべき、女性はこうあるべきという考え方も根強くあります。
子どもが保育園でうたっていた歌に、エビやカニのことを「日本人なら大好きさ」という歌詞がありました。見た目が苦手な人やアレルギーで食べられない人もいるでしょう。多様なルーツを持った子どももいるのに、幼い頃からそんな歌をうたわされるのかと驚きました。

こうあるべきという正しさに縛られた社会の中で、そのままの自分を受け入れてもらえる場は重要だと思います。
せめて誕生日とクリスマスくらいは、その人の存在が無条件で認められ、愛される日であってほしいと私は思います。
ところがそのクリスマスでさえ、家族や恋人と温かく過ごす時間にしなければならないと思わされる。
そして子どもたちに「いい子にしないとクリスマスは来ないよ」などと言ってしまう。
クリスマスはいい子ちゃんのためにあるのでしょうか。
いいえ、むしろ悪い子ちゃんのためにこそ、クリスマスはあります。
罪人を救うためにキリストが来たクリスマス
今日の本文はエレミヤを通して語られた神様のことばです。
エレミヤは南ユダ王国の終わりごろに活動した預言者です。特に今日の本文は南ユダ王国最後の王、ゼデキヤ王の時代に語られた預言ではないかと思われます。
この頃南ユダ王国はバビロンのネブカドネザル大王によるバビロン捕囚を経験していました。先代の王を連れ去ったので、代わりにバビロンによって任命されたのがゼデキヤ王です。
ゼデキヤ王はエレミヤを訪ねて神の言葉を求めたこともありました。
しかし最後には神の言葉を無視してネブカドネザルに反逆し、国の滅亡を招きます。
私たちは神に背いた罪人
先週も話したように、国のリーダーの責任は大きいです。悪い羊飼いによって羊たちは滅ぼされ、散らされてしまいます。イスラエルは枯れ木のように、役に立たないものになってしまいました。
しかしリーダーだけの責任ではありません。たとえ国のリーダーが神に背くとしても、そこに流されるかどうかは民一人一人の選択です。周りの99%の人が神に背くとしても、その流れに逆らって神に従うのが生きた信仰者です。
イザヤはこのように言います。
わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
イザヤ書53:6
神の言葉に背いて道を踏み外したのは、民自身の罪。
そして私たちの罪です。
私たちもこの世に流されて神に背き、枯れ木のようになっています。
正しい若枝

この冬の時期、森や林を見ると、葉っぱが抜け落ちて枯れてしまったような木があります。そこに命の存在は感じられません。
しかし春になると新しい芽が出たり花を咲かせたりします。
国を失い枯れ木のようになったイスラエルですが、神様はそこに正しい若枝を起こすと約束します。
この若枝という言葉は、ダビデの子として来るメシアを象徴する言葉として、預言書にたびたび出てきます。
メシアによって羊たちは呼び集められて安らかに住み、イスラエルは実を結ぶものになります。
神の正義をもって治める王
そのメシアの名は「主は我らの救い」と呼ばれます。
この救いと訳されている言葉は、正しいを意味するツェダカから派生した言葉が使われています。「主は我らの正義」と訳すこともできます。
実はゼデキヤという王の名前も「主は正義」という意味があります。
ゼデキヤのようにではなく、本当に神の正義をもって治める王が来るという皮肉も込められているのかもしれません。
民を罪から救うために生まれたイエス
正しい若枝、正義と恵みの業を行う王、良い羊飼いによって民は正しい道に導かれます。罪から救うのです。
主は我らの正義であり、主は我らの救いです。
さて、若枝にたとえられるダビデの子、ユダヤ人の王として生まれた方、民を罪から救う救い主は誰でしょう。
そう、イエス・キリストです。
イエス様が生まれる前、天使はヨセフにこう伝えていました。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
マルコによる福音書1:16
天使が指定したイエスという名前は、イエシュアという名前のギリシア語形です。イエシュアには「主は救い」という意味があります。
救い主が来られたことを喜ぶクリスマス。
いい子ちゃんだけにクリスマスが来るのではありません。
罪人を救うためにイエス様が来てくださったのです。
悪い子ちゃんのためにこそ、クリスマスはあります。
クリスマスはすべての人のための喜びの知らせです。
正しく生きられないものを赦し生かす国
エレミヤはメシアが正義と恵みの業を行うと言います。
正義は、間違ったものを放っておきません。
恵みは資格がないのに受け取るプレゼントです。
正義と恵みが両立できるでしょうか。
間違った道を歩む罪人に、神の愛を受ける資格はありません。
道を踏み外した羊は打たれるべきであり、実を結ばない枝は燃えるゴミに出すべきではありませんか。
しかし神は失われた羊を探して救い出します。
何の役にも立たなかった枝を接木し、実を結ぶものに作り変えます。
これは恵みです。
では罪人が受けるべき罰はどうなったのか。
イエス様が私たちの罪を背負って十字架で死なれました。
私たちの背きの罰を主はすべて彼に負わせられました。
死んで3日目に神はキリストを復活させ、新しい命に生かしました。
私たちの罪は赦されています。
イエス・キリストを主と信じる人は、聖霊によってキリストに結ばれます。
ぶどうの木と枝のように結び合わされ、愛の実を結ぶものに作り変えられます。
正義を追い求める社会の行く末
この社会の中で、社会が提示する正しい生き方から外れると、見捨てられます。
正義は大事です。
しかし正義ばかりを追い求める社会は危険です。

先日ニュースで、私人逮捕系ユーチューバーが逮捕されたとありました。
女性がチケットを違法に転売したと決めつけて執拗に追い回したり、男性が痴漢をしたと決めつけて暴力的に抑えつけたりしていたようです。
そのユーチューバーの1人が逮捕される前に行ったクラウドファンディングに支援した男性が、嫌がらせを受けたというニュースもありました。
もちろん不正転売、痴漢は悪いことです。犯罪者に資金提供をすれば共犯です。
しかし自分なりの正義を振りかざして相手を悪人と決めつけ、石を投げる社会は恐ろしいです。
正しさを追い求める社会では、間違ってはいけません。
間違っても、間違いを認められなくなります。
政治家の人たちは、不正に関与したのではないかという疑惑に対して「答弁を差し控えさせていただく」と言って謝罪も説明もしません。
正しいことを求めることによって、その社会を引っ張る人たち自信が縛られています。謝ったら負けなので、ごまかすしかありません。
愛も赦しもなく、不誠実な社会です。
正義と恵みのある社会へ
この社会が提示する正しさではなく、本当に正しいお方、主なる神様に目を留めてください。
正義と恵みの業を行う主は、正しく生きられない私たちを赦し、生かしてくださいます。
赦しがあるから、私たちは正しくない自分のありのままを素直に認め、謝れます。
そして神は、罪深く汚く壊れた私たちを、新しい人に造り変えます。
主はこの国に正義と恵みの業を行います。
新しくされた私たちを通してこの国に、正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせるのです。
私たちを罪から救う救い主が来ました。
クリスマスは、どのような人にも、その存在が無条件で認められ、愛される日です。
たとえ悪い子ちゃんでも愛を受けられるように、正義と恵みを両立させるキリストの愛を伝えていきたいです。
どのような人でも愛され喜ばれるクリスマスを、共に喜び祝いましょう。