救い主到来のしるし

救い主到来のサイン

イザヤ書 7:10-14

10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

本当かどうか確かめてみる

コラッツ予想

 頭の中に適当な数字を思い浮かべてください。自然数なら何でもいいです。

 その数が奇数ならば、3をかけて1を足します。
 偶数ならば、2で割ります。

 計算して出た数字に対して、同じ操作を繰り返します。

 何回か繰り返すと1になります。

 たとえば、5は奇数なので3をかけて1を足します。5×3+1=16です。
 16は偶数なので2で割ります。16÷2=8。
 8も偶数なので、8÷2=4。
 4÷2=2。
 2÷2=1。
 1になりました。

 皆さんが想像できるような数はすべて、この操作で1になります。

 ただし、すべての自然数について成り立つかはわかっていません。
 コラッツ予想という、数学の未解決問題の1つです。
 もしすべての自然数で成り立つと証明するか、1にならない数を見つけることができたら、賞金がもらえます。

 この話を聞いて、本当だろうかと疑問に思いましたね。
 それで実際に適当な数字で試してみましたか?試してみた人とはお友だちになれそうです。

信仰でも疑問を持つことは大事

 本当だろうかと疑問を持つことは大事です。
 牧師の話を鵜呑みにしてはいけません。
 信仰というのは、現実に目をつぶって教会で教えられたことを信じ込むことではありません。
 目を見開いて、目の前の現実を超えた神の約束の上を歩くことです。
 聖書の言うことは本当だろうか、神の約束は真実だろうかと確かめてみるとき、私たちは奇跡を体験します。

しるしを求めよ

 今日の本文はイザヤがアハズ王の時代に語った神様の言葉です。
 アハズ王はユダを堕落させ主に甚だしく背いた王だったと歴代誌の著者は評価しています。
 神様はアラム王レツィンと北イスラエル王ペカを送って南ユダ王国を攻めさせます。特に北イスラエルからの攻撃は激しく、勇士12万人が戦死、市民20万人が捕虜として連れ去られるというとてつもない被害が出ました。
 さらにレツィンとペカは同盟を結び、エルサレムを包囲します。このときは攻撃を仕掛けられず撤退しますが、南ユダ王国は滅亡の寸前まで追いつめられました。
 アハズ王も南ユダの民も、木が風に揺れ動くように動揺します。

災いは実現しないという神の約束

 そのような時に主はイザヤを遣わし、レツィンとペカの計画した災いは実現しないと約束します。
 そして主はさらにアハズに向かって言います。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
  神の約束が真実であることを確かめてみなさいと言うのです。

約束の真実さを示す超自然的なサイン

 神様は超自然的な出来事を通して、神の約束の真実さを示してくれることがあります。

 神はモーセを通してイスラエルの民をエジプトから救い出します。
 エジプトから逃げ出し口下手なモーセのことを誰が信じるでしょう。
 心配するモーセの杖を神はヘビに変えます。

 ミディアン人を恐れ隠れていたギデオンを、主は勇士と呼びます。
 臆病な自分が勇士と呼ばれることに納得できないギデオンは、しるしを求めます。すると彼が置いた羊の毛だけビショビショにぬれ、地面は乾いていました。弱気なギデオンはさらにしるしを求めます。次の日は羊の毛は乾いているのに地面は濡れていました。

 神様はアハズの息子ヒゼキヤのために、太陽を戻す(地球の自転を逆転させる?)ということさえしました。
 神様は救いの約束を示すために、天を揺り動かし宇宙の法則を覆すことさえします。

 神様はこのようにも語ります。

十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。

マラキ書3:10

 神様は必ずこうすると約束しています。
 本当でしょうか。天の窓を開くってどういうこと?と疑問がわきますね。
 神様が、試してみよと言っています。試してみた人はわかります。

神と向き合うことを避ける

 ところがアハズ王は断ります。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

主を試してはならない

 申命記6章でも「主を試してはならない」と命じられています。
 イエス様が荒野で誘惑されたときに引用した御言葉の1つです。
 詩編に、足が石に当たらないように天使が守ってくれると書いてあるからと言って、屋上からダイブしてはいけません。毒を飲んでも害を受けないかどうか試さないでください。
 神様の言葉が自分に都合よく成し遂げられるかどうか試すのはよくありません。
 それは神への信仰ではなく、神への挑戦です。
 かつてイスラエルの民がマサで「神は我々の間にいるのか」「水を与えよ」と言ったように主を試してはならないのです。

神を信頼せず逃げているアハズ

 律法に照らすとアハズ王が「主を試すようなことはしない」と言ったのは正しいことのようにも見えます。
 しかしアハズ王は神を信頼していません。
 神がしるしを求めよと言うのは、神を信頼してほしいからです。「アハズ、わたしを信じろ。お前のためなら深い陰府からでも高い天からでも奇跡を起こす。だからわたしを信じろ」と神様が言っているようです。
 それなのにアハズはしるしを求めず、神と向き合うことを避けています。
 アハズはただ神から逃げているだけです。

神を求め神に出会ったトマス

カラバッジョ「トマスの不信」

 聖書の御言葉と向き合ってみてください。べレアの人々のように御言葉が本当かどうか調べてみてください。
 そうやって聖書を読んでいくと、好きな登場人物に出会いませんか?
 私の好きな登場人物の1人はトマスです。
 イエス様が復活したなんて、手の釘跡に指を入れ、わき腹の槍の痕に手を入れないと信じないと言ったトマスです。
 彼はイエス様の言葉を鵜呑みにはしませんでした。
 イエス様が「わたしがどこへ行くのか、あなたがたは知っている」と言ったとき、トマスは「わかりません」と言います。正直でいいです。
 彼はイエス様の復活が真実かどうか知りたいと求めました。
 その求める心にイエス様は応え、トマスの前に現れます。
 そしてトマスの口から「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白が出てきます。
 神を知りたいと求めるとき、真実な神との出会いを体験します。

神と向き合うことは恐ろしい

 私たちはなかなかトマスやべレアの人々のように御言葉に向き合おうとしません。
 聖書の言葉を知識では知っていても、生きておられる神様と人格的に出会うところまではいきません。
 御言葉と向き合うとき、生きていて力ある神の言葉が、両刃の剣のように自分を突き刺します。痛いです。
 神と向き合うとき、その光に照らされて自分の汚さ罪深さを見せられます。聖霊が、自分でも忘れていた罪、忘れようとフタをしていた問題まで掘り返してきます。

19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

ヨハネによる福音書3:19-20

 アハズのように神と向き合うことを避けていませんか。

神ご自身が与えてくださった救いのサイン

 神は救いの約束を与えているのに、それと向き合おうとしない。神にもどかしい思いをさせるアハズ王に、主自らがしるしを与えます。
 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」
 インマヌエル預言です。

アハズに示された救いのサイン

 「おとめ」と訳されている言葉は未婚の若い女性を指す言葉です。
 結婚していない女性が子どもを産むというのは、当時の社会ではあってはならないことでした。
 この預言はまずアハズに向けて語られています。だからアハズの周囲でこのようなことが起きたのでしょう。
 ただし超自然的な何かによって身ごもったのではなく、暴力的な不適切な関係によっておとめが妊娠させられた。神は我々の間におられるのだろうかと、周囲の人々が嘆きたくなるような事件だったかもしれません。
 ところがこの女性は生まれた子をインマヌエルと名付け、ナジル人として神にささげた。
 インマヌエルとは「神は我々の間におられる」という意味です。
 周囲の人々を驚かせたこの事件の数年以内に、神が約束した通りレツィンとペカは倒れるのです。

キリスト降誕によって成就したインマヌエル預言

 聖書の約束は、まず当時の人々に語られたものです。
 そして聖書は、イエス・キリストについて証しをするものです。
 インマヌエル預言は、イエス・キリスト誕生によって決定的に成就しました。
 おとめマリアが聖霊によって身ごもり、男の子を産んだのです。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

マタイによる福音書1:23

 神の救いの約束がしるしとして示された瞬間でした。
 いやむしろ、神の約束そのものが形となって現れたのです。神が人となって私たちの間に生まれてくださったのですから。
 まさにイエス・キリストこそインマヌエルの神です。
 神は我々の間におられるのです。

神は私たちと共にいる

 聖書の言葉は、今を生きる私たちに向けた神様からのラブレターでもあります。
 木が風に揺れ動くように動揺せざるを得ない状況にある人もいるかもしれません。
 それでも神は救いを約束しています。
 天使がマリアに告げたように「主があなたと共におられる」「恐れるな」と聖書は私たちに告げます。
 聖書の約束は本当だろうかと向き合ってください。
 神は私たちを救うために来ました。
 おとめマリアが聖霊によって身ごもって男の子を生むという奇跡を通して、神の救いの約束が真実であると知ることができます。御言葉と向き合う人は体験します。
 御言葉は私たちの心を突き刺します。それは手術のメスのように、悪い部分を取り除いて治療するためです。
 光に照らされて浮かび上がる罪汚れは、イエス・キリストの十字架によって既に赦されています。闇はこの光に打ち勝てません。
 御言葉と向き合うとき、私たちは知ります。
 神は私たちと共にいるのだと。

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