使徒信条4
聖霊による処女懐胎
マタイによる福音書 1:18, 21-23
18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
聖霊によって身ごもると告げられたマリア
今年3月、岡山県倉敷市にある大原美術館に行きました。
別の用事で岡山に来ていたのですが、一緒に来ていた学生さんが帰りに寄りたいところがあるということで駅まで送ることにしていました。車で駅に向かいながら、どのような用事か聞くと、大原美術館に行くと。大原美術館には私も見たい絵がありました。なので皆で一緒に大原美術館まで行き、そこで解散することにしました。
大原美術館もその周辺の倉敷の街並みもとても良かったです。また行きたいです。
私が大原美術館で見たかった絵は、エル・グレコの「受胎告知」です。
マリアに天使ガブリエルが現れ、聖霊によってメシアを身ごもるということを告げられるという場面です。
このときマリアはヨセフと婚約していましたが、まだ夫婦ではありません。
男女の関係なく赤ちゃんを身ごもるというのは、人間にはあり得ないことです。
しかし神にできないことは何一つありません。
マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白しました。
中央に描かれたハトは聖霊を象徴します。同じエル・グレコの聖霊降臨の絵にも、聖霊がハトのように降る様子が描かれています。
今日は使徒信条の4回目。「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生れ、」というところです。
完全な神である主イエス・キリストは私たちを救うために人になりました。そのことを見ていきます。
真実な肉体を持っている
前回、私たちを救うために神が人間にならなければならなかったと話しました。
ただ人間になるだけなら、大人の姿で現れてちゃちゃっと救いの計画を実行すればいいですよね。
もしコアラにならなければならないなら、大人のコアラになればいい。赤ちゃんコアラになってお母さんの袋の中から始めなくてもいいではないですか。
しかし神はマリアのお腹に身ごもり、赤ちゃんとして生まれ、30年かけて育っていきました。
なぜそんな回りくどいことをしたのでしょう。
キリストは仮の体で現れたのだという間違い
仮現説という間違った考え方があります。イエス・キリストはただ人間のフリをしているだけで、人間の真実な肉体は持っていないという考え方です。
旧約聖書の中には神様や天使が人間の姿で現れる場面があります。そこでは仮の肉体で現れ、人間のフリをしていただけなのでしょう。
神が人になるというのはそういうこと。キリストも仮の体で現れたのだ。
このような間違った考え方は古くからありました。
マリアの胎内で形作られた真実な体
福音書を見ればこの考えが間違っていることがわかります。
イエス様は私たちと同じようにお腹を空かせ、食事をしました。疲れて眠り、痛み苦しみ血を流されました。人間の真実な肉体を持っていたのです。
その肉体は無から有を創造するように何もないところから現れたのではありません。
私たちと同じように、お母さんのお腹の中で形作られた肉体です。母マリアのお腹の中でへその緒でつながれながら、10ヶ月間育って生まれてきました。
私たちと違うのは、聖霊によって身ごもったということです。
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
ルカによる福音書1:35
神にしかできないこと
聖霊によって身ごもったということは、イエス様が確かに神であるということの証拠になります。
先日、ワニの単為生殖が初めて確認されたというニュースがありました。
動物園で他のワニと隔離されていたメスのワニが卵を産んだ。孵化はできなかったが、卵の中で胎児は十分に成長していた。
この赤ちゃんにはお母さんはいるけれど、お父さんはいません。
処女懐胎!
このようにお母さんだけで赤ちゃんを産むというのはサメや爬虫類、鳥類でも見られます。奇跡でも何でもありません。
しかし哺乳類ではあり得ません。
人間も同じです。
時々お母さんが生まれたばかりの赤ちゃんを棄ててしまい逮捕されるというニュースを見聞きします。
大体お父さんは出てきません。不思議ですね。人間もお父さんなしに妊娠できるのでしょうか。
そんなはずはありません。どこかに無責任な男がいます。
もし人間の母親が男性と関係を持たずに赤ちゃんを産んだら、奇跡です。
そう、マリアの妊娠は奇跡。神様にしかできないことです。
神の約束の成就
おとめが身ごもるということは、神様の約束でもありました。
それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書7:14
神様の救いが起こる証拠として、おとめが身ごもると約束されています。
マリアの婚約者ヨセフはダビデ王の子孫でした。
そのためイエス様はメシアを意味するダビデの子と呼ばれます。
住民登録のためにダビデの故郷ベツレヘムに行ったときにイエス様が生まれることも、預言の成就でした。
罪なき神の子
そしてイエス様の生まれ方は、イエス様に罪がないことの証拠でもあります。
初めの人アダムが罪を犯してから、普通の生まれ方で生まれてくる人はすべて罪の中で生まれてくることになりました。
私たちは生まれながらの罪人であり、罪を犯さずに生きることはできません。神のかたちとしての人間性が壊れてしまっているのです。
この生まれ持った罪の性質を原罪と言います。
イエス様は普通の生まれ方ではなく、聖霊によって身ごもりました。
だから原罪を持っていないのです。
神のかたちそのものであり、完全な人間性を持っておられます。
イエス様は私たちを罪から救うために来られました。そして罪人の代表として十字架刑になります。
しかし罪ある人が十字架で死ぬなら、それは自分の罪のための刑罰であって、他の人の罪を負うことはできません。
罪のない人間だけが人間の罪を負えます。
そして人の罪によって壊れたこの世界にあって、罪のないお方はただ創造主、神しかいないのです。
だから聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れたイエス・キリストだけが救い主です。
人間としての本性を持っている
人性はなかったという間違い
もう1つ間違った考えがあります。単性説という考えです。
イエス様には神としての本性(神性)だけを持っていて、人としての本性(人性)はなかった、あるいは神性に融合されたという考え方です。
肉体は人間だとしても、その魂の部分は人間ではなかったというわけです。
名探偵コナンくんは体は小学生だけれど、その意識の部分は高校生です。
体は子ども頭脳は大人みたいに、イエス様は体は人間、頭脳は神だったのでしょうか。
神性と人性を持つ
いいえ、普段のイエス様は普通の人間でした。
しかし時々、神の子としての振る舞いを見せていました。
イエス様が12歳の時に迷子になりました。
神殿にいるのを見つけたとき、少年イエスは学者たちと語り合っていました。
地方の田舎町で育って特別な教育を受けたわけではない少年イエスが、神学の学者たちと語り合うほどの知識をどこから得たのでしょう。
そして心配するヨセフとマリアに「わたしが父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言います。
生意気言うなとヨセフから殴られそうな言い方ですが、イエス様が神の子だということを考えれば当然の発言です。
しかしマリアにもこの言葉の意味はわかりませんでした。普段のイエス様は普通の子どもだったからです。
イエス様が神性だけでなく人性も持っていた証拠です。
イエスは人間の苦しみの中で共に生きている
イエス様は私たちと同じ真実な肉体と意識を持っていたということは、私たちと同じ弱さを抱えていたということです。
イエス様が公の働きを始めるまでの30年間のことは聖書にあまり書かれていません。
しかし私たちと同じように幼少期を過ごし、思春期を迎え、成人し働きます。色々なことで泣いたり笑ったり、腹を立てたり悩んだりしたことでしょう。私たちと同じように人生の悲喜こもごもを経験しました。
ヨセフは早くに亡くなったと考えられています。
そのときイエスくんは10代の青年だったかもしれません。多感な時期に愛する家族の死に直面しました。
イエス様ならヨセフが死なないように癒すことも、葬儀の場で涙するマリアを見て「もう泣かなくともよい」と言ってヨセフを生き返らせることも、「出て来なさいと」墓から出させることもできたはずです。
しかしイエス様は人間の現実をそのまま受け取られました。
そして家族を養うため、父の跡を継いで大工として働き始めるのです。
高貴な生まれの王様に庶民の苦労はわかりません。
まして神に人間の苦しみがわかるとは思えません。
しかしイエス様は、本当に人となられた神は、私たちの間で生き、私たちの苦しみの中で共に生きました。
私たちが喜ぶときイエス様も共に喜び、私たちが泣くときイエス様も共に泣きます。
神が人間の間で生きる
あえて人と一緒に生きることを選ばれた
お腹の中で赤ちゃんはお母さんとつながれ、栄養をもらいます。完全に母親に依存した状態です。
生まれた後も赤ちゃんは周りの人の助けがなければ生きられません。
イエス様は神でありながら人の助けなしには生きられない存在になりました。
イエス様の公の働きを見ても、イエス様は弟子たちを呼び集めました。
一人で何でもできるはずなのに、人の助けを求めたのです。
仕方なくそうしたのではなく、イエス様自身がそうすることを願ってのことです。
イエス様は私たちと人と一緒に生きること、人と一緒に働くことを願っています。
インマヌエルの神
おとめから生まれる男の子はインマヌエルと呼ばれます。
インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。
天使ガブリエルがマリアに現れたとき、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と挨拶しました。
神が共にいるというのは人間にとっての救いなのです。
同時に、神の願いでもあります。神様の方から、人間の間で生きたいと願っています。
人を造ったとき、神様はエデンの園に人を住まわせ、神様もエデンの園を散歩しました。
人が呼んだから来たのではなく、神様の方から人に会いに来ます。
人は罪を犯したために園を追放されますが、終わりの時、新しい天と新しい地で神様は自ら人と共に住みます。
人の間で生きることを、神様は願っています。
人となられた神があなたと共に生きる
神様は仕方なく人間になったのではなく、人間の間で生きたいと願っています。私たちの間で生きたいと願っています。
孤独の中にいる人も、決して独りではありません。家でも病院でも学校でも、インマヌエルの神は共にいます。
本当に人となられたイエス様は、今も私たち一人一人と共に生きています。