使徒信条7 天から再び来るイエス

使徒信条7

天から再び来るイエス

使徒言行録 1:9-11

9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

キリストの現在と未来、私たちの応答

 今日は使徒信条その7。「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん。」の部分を見ていきます。
 神の子イエス・キリストに関する部分の最後になります。
 これまで処女降誕、十字架の死、復活など過去になされたことを見てきました。
 イエス・キリストが死んで復活したなら、今は何をしているのでしょうか。
 そしてこれから何をするのでしょうか。
 それを信じる私たちはどう生きることができるでしょうか。

キリストの昇天

 前回、イエス様が死の力を打ち破り復活したということを見ました。
 そうするとイエス様は今もどこかで生きているはずです。
 どこにいるのでしょうか。
 「私がキリストだ」と言い出す人がいますが、相手にしてはいけません。彼らはただの人間なので、いつか死にますし、たくさんの問題を起こします。
 私たちが知りたいのはそのような偽キリストではなく、罪なき神の独り子であり死んで復活したイエス・キリストです。
 しかし地上のどこを探してもそのような方はいません。
 そう、この地上にはいないのです。もちろん海の中を探してもいません。
 イエス様は天に昇り、全能の父なる神の右の座にいます。

 今日の本文は使徒言行録の最初の部分です。使徒言行録はルカによる福音書とつながっています。
 ルカによる福音書ではイエス様が弟子たちのために手を上げて祝福し、そのまま天に上げられたと記されています。
 死の力さえも打ち破ったイエス様は、もはや人間の持つ弱さに支配されることがありません。
 かつて人になる前に持っておられた栄光が回復されました。
 天と地の一切の権能を持つイエス様は、重力にさえも支配されないのです。
 すーっと上の方に昇って行き、雲に覆われて見えなくなりました。
 イエス様は天に昇ったのです。

天とはどこか

 では天とはどこでしょう。
 上の方でしょうか。
 雲の上?
 月?
 宇宙のどこか?
 ここで使われているギリシア語ウラノスには空という意味がありますが、イエス様はもはや空間に支配されてもいません。

 天とは時空を超越し神様がおられる世界です。
 天では天使たちによって神の御心が行われており、そこにあらゆる霊的な祝福、希望が蓄えられています。

イエス様は今も私たちの間にいる

月までなら3㎞で行けるけど

 そうするとイエス様はずいぶん遠くへ行ってしまったな。この世とは違う別世界に行ってしまった。
 宇宙旅行には行けても天には届かないな。
 月なら車で行けるけれど(天竜区の)、イエス様は私たちとは別世界に行ってしまったのか。
 と残念がることはありません。

 ヤコブは天と地をつなぐ階段を見ました。
 天と地は遠く離れた別世界ではなく、つながっています。
 この地上でも神様が治めるところで、私たちは天を味わうことができます。
 神様が治めるところは神の国、あるいは天の国と表現されます。
 イエス様は「神の国はあなたがたの間にある」と言われました。
 だからイエス様はどこか遠くに行ってしまったのではなく、イエス様を信じ神の子とされた私たちの間に今も生きておられます。この礼拝の場にもイエス様が共にいます。

天の父なる神の右の座に就いた

 結局私たちの間にいるなら、わざわざ上の方に昇って行くという演出はいらなかったのではありませんか?
 いいえ、イエス様が天に昇り見えなくなったことで、弟子たちは詩編110編の言葉が実現したとわかりました。メシアが天の父なる神の右の座に就くという預言です。

 天の父なる神の右の座というのも、天にそういう座席があるわけではありません。父なる神様に最も近いところということです。
 そこでイエス様はすべてを治めています。

20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

エフェソの信徒への手紙1:20-21

 そして私たちのために祈ってくれています。

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

ローマの信徒への手紙8:34

 イエス様は今も生きておられ、天の父なる神の右の座ですべてを治め、私たちのために祈り続けています。

君たちはどう生きるか

 それでもイエス様が目の前で天に上げられるというのは衝撃で、弟子たちは天を見上げたまま呆然と立ち尽くしていました。
 見かねた天使たちが声をかけます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。ぼーっと生きてんじゃねえよ!」
 そうです。イエス様が天に上げられた。地上には君たちが残された。「君たちはどう生きるか」と問われています。

ルカによる福音書を見ると、弟子たちがまずしたことは礼拝と賛美でした。使徒言行録では集まって祈っています。
 私たちの人生は礼拝、賛美、祈りで始まります。
 それからこの世に遣わされていきます。エルサレムからユダヤ、サマリア、地の果てへと。
 私たちは会社で働いたり学校で勉強したり家庭で家族に仕えたりします。
 私たちの上には上司、先生、親、また国などの権威があります。
 それらの権威も神様が立てたものとして敬うことは大事です。
 しかしそれらの支配や権威の上に王の王、主の主であるイエス様がおられます。

 私たちはこの日本という国で生活していますが、私たちの本国は天にあります。この世では寄留者、旅人であり、葛藤が生じることがあります。
 それでも天でイエス様が私たちのために帰る場所を用意してくれています。だから私たちはどんなときもイエスを主として生きることができます。
 イエスを神の子と信じる信仰によって私たちは世に打ち勝ちます。

 この世との葛藤だけでなく、この世を支配する悪魔との霊的戦いもあります。
 しかしイエス様はすでに十字架において勝利しています。悪魔はただ私たちを惑わし邪魔をするだけです。
 どのような力も私たちを神の愛から引き離すことはできません。
 イエス様によって私たちは圧倒的な勝利者とされています。

 そしてイエス様が私たちのためにとりなしてくださるので、私たちはいつでも大胆に恵みの座に近づき、神様から今必要な助けを受けることができます。

 イエス様は今も天の父なる神の右の座にいます。キリストの昇天は私たちの現在の生き方を変えます。

キリストの再臨

 天使たちは「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」 と約束しました。
 イエス様は帰ってきます。
 イエス様は栄光の姿で天に上げられました。
 それと同じ有様で、イエス様は栄光の姿で帰ってきます。ダニエル書で雲に乗ってくると言われた人の子の姿です。

終わりの日

 それは終わりの日でもあります。
 今の壊れた世界は過ぎ去り、新しい天と新しい地が来ます。世界は新しくされ、救いが完成します。
 イエス様は世の終わりが来る前に偽キリストが現れたり戦争が起きたり食料がなくなったり地震が起きたりクリスチャンが迫害されたりすると言いました。また太陽や月が暗くなったり星が落ちたりするとも言いました。

 偽キリストがいて戦争が起きて食料がなくなって地震が起きて…今のこと?
 慌てないでください。こういうことは起こるに決まっているが、まだ終わりではないから耐え忍びなさいとイエス様は言います。
 その日その時は誰も知りません。
 だから世の終わりがいつ来るとか、再臨のキリストはもう来ているとか言う人たちも相手にしてはいけません。

マラナタ

 世の終わりがいつ来るかわからないということは、もしかすると1000年後かもしれないし、明日かもしれないし、今日かもしれません。
 世の終わりが早く来てほしいですか?それともまだ来てほしくないですか?

ミケランジェロ「最後の審判」

 世の終わりという言葉の響き、それに戦争や天変地異などの前兆。
 恐いですね。
 それに最後の審判があるわけです。
 ミケランジェロが書いたシスティーナ礼拝堂の天井画が有名ですね。
 ほとんど裸の人たちが天に引き上げられていく様子が描かれていますが、地上付近は暗く、悪魔のような何かも描かれています。
 恐い。
 私もひどい目にあわされるんじゃないか。
 ウソをついたから舌を抜かれたり、軽業師のそうべえさんのようにふんにょう地獄に落とされるんじゃないか…。
 イエス様、まだ帰って来ないで!

 しかし天使たちからイエス様の再臨の約束を聞いた弟子たちは、まず礼拝し賛美しました。
 恐れたのではなく、むしろ喜びました。
 そう、イエス様が帰ってくることは希望なのです。
 イエス様が帰ってくるとき、私たちはイエス様をこの目で見ます。そのとき私たちはキリストに似た者に造り変えられます。

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

ヨハネの手紙一3:2

 そして世界は新しくされます。

3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

ヨハネの黙示録21:3-4

 死も涙も嘆きも労苦もない神の国の完成、救いの完成です。
 私たちの罪はイエス様の十字架によって既に贖われているので、最後の審判でひどい目にあわされることはありません。
 むしろ私たちの信仰の生き方に応じて賞を受けることになります。
 だからマラナタ、主よ来てくださいと呼び求めることができます。

明日世界が滅ぶとしても今日できる愛を行う

 私たちはただ信仰によって救われているので、信仰の行いは救いには関係ありません。
 イエス様を信じて洗礼を受け、今の生活をそのまま続けることもできます。
 イエス様を信じることを拒み続け、死の間際にイエス様を信じても救われます。
 それでもいいです。

 しかし世の終わりは急に来ます。
 あなたの地上の人生が急に終わることもあります。
 イエス様は思いがけない時に来ると予告しています。
 悔いのないように生きてほしいです。

 イエス様は私たちの目の涙をぬぐい取ってくださいます。
 しかしイエス様のための労苦してこなかった人はどうでしょう。
 誰かを愛するために汗をかかなかった人が、人の罪のよって壊れたこの世界のために嘆かなかった人が、どうしてイエス様の再臨のときに涙することができるでしょうか。
 涙ではなく冷や汗が流れます。
 イエス様はあなたを見て、素通りするかもしれません。
 せっかくなら、涙をぬぐってもらいましょう。労をねぎらってもらいましょう。
 イエス様のために、人のために、この世界のために流した涙は、神様が革袋に貯めてくれています。
 世の終わりがいつ来るかは誰にもわかりません。
 たとえ明日世界が滅びるとしても、今日私たちにできる愛を実践していきましょう。

 イエス様が天に上げられ、再び帰ってくるまでの間、私たちはこの地上で生きます。
 「君たちはどう生きるか」 私たちはやがて来る神の国の完成に向けて生きていきます。

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