エゼキエル書講解8
偶像を砕く主
エゼキエル書 6:1-14
1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、顔をイスラエルの山々に向け、それに向かって預言して、3 言え。イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と丘、川と谷に向かって、こう言われる。わたしは剣をお前たちに臨ませ、聖なる高台を破壊する。4 祭壇は荒れ果て、香炉台は砕かれる。また、わたしは、お前たちの中の殺された者を、偶像の前に投げ捨てる。5 わたしはイスラエルの人々の死体をその偶像の前に置き、お前たちの骨を祭壇の周りにまき散らす。6 お前たちの住む所はどこにおいても、町は廃虚とされ、聖なる高台は荒らされる。祭壇も廃虚とされて荒らされ、偶像は粉々に砕かれ、香炉台は打ち壊され、こうしてお前たちの作ったものは一掃される。7 また、殺された者がお前たちの真ん中に倒れる。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。8 しかし、お前たちが諸国に散らされるとき、わたしはお前たちのために、剣を逃れた者を諸国民の間に残しておく。9 お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。10 そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。11 主なる神はこう言われる。手をたたき、足を踏み鳴らして、イスラエルの家の忌まわしいすべての悪事を嘆け。彼らは剣と、飢饉と、疫病によって倒れるからだ。12 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者は剣で倒れる。それを免れ、生き残る者も飢饉で死ぬ。こうしてわたしは彼らに対して怒りを注ぎ尽くす。13 殺された者たちが、祭壇の周りの偶像の間や、高い丘の上、山々の頂で、またすべての緑豊かな木、すべての茂った樫の木の下、あるいはかつて、あらゆる偶像に宥めの香りをささげた場所で倒れるとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。14 わたしは彼らに向かって手を伸ばし、この地を荒廃させ、荒れ野からリブラに至るまで、彼らが住むすべての地を荒れ果てたところとする。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる。」
神によって砕かれ神によって造り変えられる
韓国に安ヨハン先生という目の不自由な牧師がいます。
牧師の息子として生まれましたが、神などいないと思って生きていました。教会を離れ、世の中で自由奔放に生きました。語学が堪能でフランス語を専攻し英語もできました。歌も上手でした。大学卒業後にはアメリカに渡り、ビジネスも成功しました。結婚もし、かわいい娘が与えられました。あらゆる幸せを手にしました。神などいなくても生きていけるかのように、欲しいものは自分の力で勝ち取ってきました。
ところがだんだんと左目が見えなくなってきます。病院を転々としますが、原因すらわかりません。治療はうまく行かず、仕事も辞めなければならなくなりました。お金も使い果たしてしまいます。そしてアメリカで住んでいた家も売り払い、韓国に帰って来ました。
それでも彼には能力があります。高校のフランス語の教師として働く道が開かれました。
自分の力で生きる道を切り拓こうとしますが、やがて右目も見えなくなりました。目が見えなければ教科書を読むこともできません。
とうとう37歳の時に完全に失明してしまいます。まだ障がい者に対する偏見が強い時代です。妻の兄は盲人の義理の兄と呼ばれることを恥じ、彼の妻と娘を実家に連れ戻してしまいました。
視力を失ったことで金を失い、働くこともできなくなり、家族も失ってしまいました。もはや生きていく意味も失ってしまいました。
首をつって死のうと思いました。壁に打ち込んであった釘にネクタイをかけ、首を縛りました。しかし体重をかけると釘が抜けてしまいました。自分で死ぬ力もありませんでした。
全てを失い、どん底の状態になります。もう何も残っていない。もう誰もいない。
そこで彼に語りかける主の声を聞きます。主は旧約聖書のある個所を読めと言います。もちろん自分で読むことはできません。窓を開け、たまたま通りがかった学生に呼んでもらいます。
そこにはこう書いてありました。
一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。
ヨシュア記1:5
何もかも失ったとしても、神は見捨てない。
神などいないと思って自由奔放に生きてきましたが、それでも神は諦めなかった。
こうして彼は主のもとに帰って来ました。今では牧師となり、どんなに低い所にも臨まれる主の光をこの世に伝えています。
私たちは何を頼りに生きているでしょうか。私たちを変わらない愛で愛しておられる神を捨て、この世にあるものに浮気していないでしょうか。神などいなくても生きていけると思い込んでいないでしょうか。
主はそのような私たちを砕くことがあります。偶像を砕き、心を砕き、生活を砕きます。そして神の手の中で新しく造り変えられるのです。
イスラエルの山々の偶像を砕く
今日の本文は主がエゼキエルにイスラエルの山々に向かって預言しなさいと命じる場面です。主が聖なる高台を砕き、偶像を砕くからです。
その中でも主は残りの民を準備しておられ、捕囚として生き延びさせます。そのとき人々は心を砕かれ、自分が嫌いになります。そして神から離れて自由奔放に生きることは滅びに向かうのだということを悟り、主が主であることを知るようになるのです。
今日の本文を通して私たちの偶像を砕き、心を砕き、生活を砕き私たちを神と共に自由自在に生きる者に造り変える主に出会う私たちになることを期待します。
偶像が砕かれる
まず今日の本文の1節から7節で『1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、顔をイスラエルの山々に向け、それに向かって預言して、3 言え。イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と丘、川と谷に向かって、こう言われる。わたしは剣をお前たちに臨ませ、聖なる高台を破壊する。4 祭壇は荒れ果て、香炉台は砕かれる。また、わたしは、お前たちの中の殺された者を、偶像の前に投げ捨てる。5 わたしはイスラエルの人々の死体をその偶像の前に置き、お前たちの骨を祭壇の周りにまき散らす。6 お前たちの住む所はどこにおいても、町は廃虚とされ、聖なる高台は荒らされる。祭壇も廃虚とされて荒らされ、偶像は粉々に砕かれ、香炉台は打ち壊され、こうしてお前たちの作ったものは一掃される。7 また、殺された者がお前たちの真ん中に倒れる。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。』 とあります。
主は私たちの偶像を砕きます。
聖なる高台
主はエゼキエルに、イスラエルの山々に向かって預言するように命じました。
イスラエルの山々には何があったのでしょうか。そこには聖なる高台がありました。
イスラエルの民は高い丘の上、山々の頂、そして緑豊かな木の下や茂った樫の木の下に祭壇を築きました。
これはエルサレムの神殿に置かれた主の祭壇とは違います。偶像のための祭壇です。
主はそこに剣を臨ませ、聖なる高台を破壊し、祭壇を荒らし、香炉台を砕くと語っています。そしてイスラエルの殺された者の死体を偶像の前に投げ出し、骨を祭壇の周りにまき散らすと言います。
聖なる高台はイスラエルの民の心に深く根付いた偶像の一つでした。
ソロモンの時代に、外国から嫁いできた王妃たちが自分の国の偶像をイスラエルに持ちこんできました。まずオリーブ山に聖なる高台が築かれ、イスラエルの国中に広がっていきました。
ソロモンの死後、ヤロブアムはイスラエルの10部族を分離させ北イスラエル王国を建国します。しかし主の祭壇はユダのエルサレムにあります。エルサレムに礼拝をささげに行けば、人々はユダの方に移ってしまうかもしれない。そう恐れたヤロブアムはベテルとダンの山の上に祭壇を築き、金の子牛の像を神としました。
ヨシヤ王の時代に宗教改革が行われたとき、ヨシヤは聖なる高台も破壊しました。北イスラエルは既に滅びていましたが、サマリアにも行き、偶像を砕きました。その時、ベテルに葬られていた偶像の祭司の骨を掘り出し、灰にし、ベテルの祭壇にまき散らしました。
それにも関わらずヨシヤの死後、ユダの人々は再び聖なる高台を建て直し、偶像に礼拝をささげていたのです。
偶像は助けてくれない
偶像の神に何の力もないことをイスラエルの民も知っているはずです。
ヨシヤが偶像を砕き、聖なる高台を破壊したとき、金の子牛もバアルもアシェラもモレクもケモシュもそれを止めることはできませんでした。
アッシリアが諸国を征服した時も、どの神々も獅子のように襲いかかるアッシリアを止めることはできませんでした。北イスラエルの金の子牛には何の力もありませんでした。
とうとうアッシリア王センナケリブは18万5000の兵を率いてエルサレムを包囲します。絶体絶命の状況です。そこでヒゼキヤはイザヤのもとに行き、主に助けを求めます。その夜、主の御使いが現れ、18万5000人のアッシリア兵を打ち倒します。センナケリブはニネベに戻りますが、アッシリアの神ニスロクの神殿で礼拝をささげているときに暗殺されます。結局、偶像は助けてくれないのです。
イスラエルの民はエルサレムに礼拝に行くとき、
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
詩編121:1
と歌いました。
ここで目を上げて仰ぐ山々には何があったのでしょうか。聖なる高台です。聖なる高台に助けを求めても、何の力もありません。
助けはその山々から来るのではありません。私の助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
詩編121:2
私の助けは主から来る。天地の創造主、山々さえも造られた主が眠ることもまどろむこともなく守って下さる。
私が主であることを知る
エリヤはカルメル山でバアルの預言者450人と対決しました。祭壇に載せられたいけにえに火をつけた方が勝ちです。道具は使いません。ただ自分の神に祈って火をつけるのです。
バアルの預言者たちは熱心にバアルに呼びかけます。しかし何も起こりません。剣で自分の体を傷付けながら祈りますが、バアルは何もしてくれません。
その間エリヤは何もしませんでした。
日が沈みかけてきたころ、エリヤはいけにえの上にかめ一杯の水を12回注がせます。いけにえも祭壇も水浸しになりました。祭壇の周りに掘った溝まで水でいっぱいです。
そこでエリヤが主に祈ると、天から火が降りました。そしていけにえを焼き尽くし、祭壇の周りの水まで蒸発しきってしまいました。
そこでイスラエルの民は「主こそ神です、主こそ神です」と叫んで主に立ち返ったのです。
私たちはこの世にあるもの、目に見えるものを頼ります。神ではない他のものが神になってしまいます。それは財産かもしれません。人を頼りにしてしまうこともあります。自分自身の能力も偶像になります。
しかしそれらのものは被造物に過ぎません。限りがあります。やがて朽ち果て、土に返っていくものです。
見えるものに目を留めてはいけません。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
コリントの信徒への手紙二4:18
主は永遠に変わることがありません。
私たちがそれでも偶像に従い続けるなら、主は私たちの手で作ったものを一掃します。
そのとき主が主であることを知るようになります。
しかし全てを失ってから知るのは遅いです。
今、この世の移り変わるものを頼るのをやめ、変わらない主を知る私たちになることを願います。
姦淫の心が砕かれる
また今日の本文の8節から10節で『8 しかし、お前たちが諸国に散らされるとき、わたしはお前たちのために、剣を逃れた者を諸国民の間に残しておく。9 お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像にひかれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。10 そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。』 とあります。
主は私たちの心を砕きます。
残りの民
エルサレムはこうして滅ぼされることになります。
偶像は頼れません。ユダの人々はエジプトを頼ることになりますが、エジプトは助けてくれません。
主の手にかかって殺されるなら、誰がそこから逃げることができるでしょうか。
エゼキエルがひげを剃って見せたように、三重の苦しみ、徹底的な破滅が襲います。
しかし主はその中にも希望を残しています。風に散らされる3分の1の毛の中から一部を取って着物のすそに入れました。懐で守られていればどんなに風が吹いてきても散らされることはありません。
主はユダの人々の中に残りの民を準備しておられ、捕囚となった国々で生き延びさせてくださいます。
そこで人々は主を思い起こすようになると約束しています。
自分を嫌悪する
イスラエルの人々は主を捨てた。そして偶像を愛した。神は変わらない愛をもって守っていてくださったのに、その手を振りほどき他の神々に浮気したわけです。
テレビで有名人の浮気のニュースを聞きます。そのときどういう気持ちになるでしょうか。嫌な気持ちになります。自分とは全然関係ない他人だし、自分は何の被害を受けていないとしても、嫌です。誰もが浮気は悪いと知っているからです。
みなさんは浮気したことがありますか。正直に言ってしまうと色々と問題になりそうですね。
私は高校生の時、クラスの女子から「深川くんって浮気癖があるよね」と言われたことがあります。そんなわけがあるかと思いましたが、今までの人生を振り返ってみると思い当たる節がいくつかあります。
私の父の兄はセガで働いていました。コンピューターゲームのメーカーです。その関係で、子どもの頃はセガのゲーム機で遊んでいました。メガドライブというハードがあったのをご存知ですか。ファミコンよりメモリが大きく、きれいなグラフィックでゲームセンターにあるようなゲームを家庭で楽しめるゲーム機でした。マリオではなくソニック、テトリスではなくぷよぷよを愛して育ってきました。
しかしやはり人気のゲームは任天堂のスーパーファミコンが多いわけです。マリオ、ドラクエ、FF、桃鉄、ストリートファイター、学校の友だちはほとんどスーパーファミコンでした。
小学校3年生の時、とうとうわが家にもスーパーファミコンが来ました。
その後、セガはセガサターンを発売します。ソフトがカセットではなくディスクになり、さらに容量の大きなゲームを楽しめるようになりました。ところが同じ時期にSONYがプレイステーションを発売しました。スーパーファミコンで人気だったゲームはことごとくプレイステーションに移植されます。
そして高校生の頃、セガサターンは完全に押し入れの中で忘れ去られ、プレイステーションでばかり遊ぶようになっていました。ソニックもぷよぷよも忘れ去られていました。浮気をしていたわけです。そんな自分にちょっと嫌気がさしました。
イスラエルの民は自分たちの犯した悪を知り、自分を嫌悪するようになると言われます。
人知を超えた神を知る
しかし自分を嫌悪したところで、そのような自分を変えることができるでしょうか。どんなに自分が嫌になっても、自分の力で自分を変えることはできません。
思春期に自分を嫌悪する時期があったと思います。自分の容姿、能力、家族、国や民族的な背景を憎むことがあります。しかし生まれ持ったものは変えられません。
一度死んで新しく始められることができればいいと思うかもしれません。
10代の若者たちの中にも自分を嫌悪し、人生をリセットしようとする人が後を絶ちません。
しかしこの地上での人生は一度きりです。やり直すことはできません。
中には災いを経験して別人のように変わる人がいます。甘えん坊だった子どもが、親の病気をきっかけに急に大人っぽくなることがあります。
しかしそれは新しい人になったわけではありません。災いによって心に傷を負い、表面的に強がっているだけです。いつかその心の傷がうずき、人生を再び転落させることがあります。
体罰もそのようなものです。体罰によって行動を変えることができます。それでいまだに体罰は教育に必要だと思い込んでいる大人がいます。しかし体罰は心に傷を負わせ、表面的に従順な行動をさせるだけです。体罰を受けた人はやがて自分も体罰をするようになります。
スポーツの世界では昔から体罰が当たり前のように行われてきました。スポーツの現場で体罰の問題はなかなかなくなりません。横綱の暴力が問題になっていますが、それが当然のように行われてきた相撲界全体の問題だとも言えます。
私たちが変わるためには、私たちは一度死ななければならないのです。古い自分を嫌悪し、新しく造り変えられるのです。
しかしそれがどうして可能でしょうか。人にはできません。
神にはできます。
神ご自身が人となって私たちの間に宿られました。そしてその方が私たちのために十字架で死なれました。
そのお方イエス・キリストを信じ洗礼を受けるとき、私たちはキリストと共に十字架で死ぬのです。
19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙2:19-20
そして新しい人として再創造され、生きるのです。
神はあらゆることを通して私たちの心を変えます。
こうしてイスラエルの民は国の滅亡も捕囚さえも神の救いの計画の一部であることを知ります。
そうして滅びへ向かう古い人を嫌悪し、神の子としての新しい自分を愛するようになります。
万事を益とし私たちを新しくする神を知る私たちになることを願います。
生活が砕かれる
最後に今日の本文の11節から14節で『11 主なる神はこう言われる。手をたたき、足を踏み鳴らして、イスラエルの家の忌まわしいすべての悪事を嘆け。彼らは剣と、飢饉と、疫病によって倒れるからだ。12 遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者は剣で倒れる。それを免れ、生き残る者も飢饉で死ぬ。こうしてわたしは彼らに対して怒りを注ぎ尽くす。13 殺された者たちが、祭壇の周りの偶像の間や、高い丘の上、山々の頂で、またすべての緑豊かな木、すべての茂った樫の木の下、あるいはかつて、あらゆる偶像に宥めの香りをささげた場所で倒れるとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。14 わたしは彼らに向かって手を伸ばし、この地を荒廃させ、荒れ野からリブラに至るまで、彼らが住むすべての地を荒れ果てたところとする。そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる。」』 とあります。
主は私たちの生活を砕きます。
古い生活は通用しない
イスラエルの民は剣と飢饉と疫病で砕かれます。徹底的に滅ぼされます。
彼らが頼っていた偶像は何の助けにもなりません。それは彼らが主から離れていたからです。
神から離れれば枯れる
私たちは、主から離れて生きることが自由だと思うことがあります。
クリスチャンになって教会の一員になると、いくつかの義務を負うことになります。礼拝をささげ、奉仕をし、献金をしなければならない。
クリスチャンになる前にしていたことが制限されます。それを束縛と感じ、苦しいと感じます。
イスラエルの民は荒野で生活していたときに、エジプトでの生活を思い起こして不平不満を言いました。
本当にエジプトの生活が良かったのでしょうか。
彼らは奴隷でした。
クリスチャンになる前は本当に自由だったのでしょうか。
自由奔放に生きられたかもしれません。それは本当の自由ではありません。滅びに向かうしかない、罪の奴隷の状態です。
川の近くに植えられた木はそこから動くことができません。それは不自由でしょうか。自由奔放に動き回ることはできません。
かわいそうだと思って引き抜いたら、木は自由になりますか。
枯れるしかない。死ぬしかありません。
神から離れて生きる人は死に向かうしかありません。
主なしに生きられない
木は流れのほとりに植えられるときに豊かに実を結びます。命に満ちあふれて自由自在に実を結びます。
私たちが神から離れるとき、そこは荒野になります。
しかし主の元に留まるなら、たとえそこが荒野のような場所だったとしても、主はそこに恵みを注いでくださいます。天から命のパンを降らせ、岩から命の水を湧き出させ、私たちに命を与えてくださいます。
聖書は命の言葉です。日々御言葉を黙想することが、命のパンになります。
祈りも大事です。呼吸のようなものです。神様との対話を楽しんでください。
毎週の礼拝で力を得、それぞれの生活の場へと遣わされていきます。
そのように主につながって、主と共に生きる。
どんな時でも私たちに命を与えてくださるこの方こそ、主であることを知る私たちになることを願います。
神は私たちの偶像を砕きます。この世のものは頼れません。すべては移り変わります。
しかし神は変わりません。
神は十字架によって愛を示し、私たちを造り変えます。もう古い生き方はできません。
キリストの弟子として神の子として自由自在に生きる私たちになることを願います。