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全地を支配する神の顕現

エゼキエル書講解1

全地を支配する神の顕現

エゼキエル書 1:1-3,26-28

1 第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。2 それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。3 カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。

26 生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。27 腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。28 周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。

どんな時代どんな場所にも主はそこにいる

フランシスコ・ザビエル

 私の地元である大分県は長い宣教の歴史があります。
 400年前にフランシスコ・ザビエルが日本で最後に滞在したのが大分でした。九州北部を治めていた大友宗麟はキリシタン大名になります。そして日本の宣教の中心地として多くの教会が建てられました。
 後に豊臣秀吉や徳川家康によって迫害されます。その中でキリシタンたちは隠れて信仰を守ってきました。そのような隠れキリシタンの集落は全国にいくつかありますが、大分県の竹田という町では、取り締まるべき武士たちが司祭たちを隠した、隠しキリシタンの遺跡もあります。山の中には岩に十字架を掘った遺跡もあります。
 最後に修道院にも寄ってきました。山の上に立つ修道院で、修道士たちは朝3時半から起きて祈り働く生活を送っています。修道院の展示室ではキリシタン禁制の高札やマリア観音像も展示されていました。
 はるか遠く離れたポルトガルから命をかけて日本に来た宣教師たち、迫害されながらも信仰を守り抜いたキリシタンたち、そして人里離れた寂しいところで祈る修道士たちがいます。彼らはどのような心で信仰生活を送っているのでしょうか。何を見て、何を聞いているのでしょうか。
 どのような時代にどのような場所にいるとしても、主はそこにいてくださるのだということを感じさせられる旅行となりました。

エゼキエルの召命

 今日からエゼキエル書の講解に入ります。
 エゼキエル書というとどのようなイメージがあるでしょうか。不思議な表現が多く、難解なイメージがあるかもしれません。
 一方で枯れた骨の復活や神殿から流れ出る命の川のように、よく知られている場面も出てきます。
 一つ一つの場面を取り出してみると確かに難解なところはあります。
 しかしエゼキエル書は全体を通して見ると、とても一貫性を持っています。イザヤ書、エレミヤ書、ダニエル書は何回か分けて書かれました。エゼキエル書はエゼキエルの生涯の晩年にまとめて書かれたものだと考えられます。ですから全体を通して見たときに、一貫して繰り返される表現などがその解釈を助けてくれます。

 場面は捕囚時代のバビロンです。イスラエルの罪のためにエルサレムはバビロン捕囚にあってしまいます。
 エゼキエルが預言を始めた頃はまだエルサレムは陥落していませんでした。エゼキエルの預言はイスラエルの罪を指摘しエルサレムの滅亡を予告するところから始まります。
 しかし主が求めておられることは、生きること。
 エルサレムが滅亡した後はイスラエルの回復を予告します。

 今日の本文はエゼキエルが召命を受ける場面です。
 捕囚にあってから5年目、バビロンの荒れ果てた地にいたエゼキエルは神の顕現に出会います。
 国が滅びようとしている絶望的な時代、絶望的な状況にあっても、主はそこにおられ、私たちを用いられます。
 今日の本文を通して、主はどんな状況でも共におられ、全地を支配し、私たちを呼び出される方であることを知る私たちになることを期待します。

ケバル河畔で現れる

 まず今日の本文の1節から3節で『1 第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。2 それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。3 カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。』 とあります。
 主はどのような状況でも共におられます。

捕囚民の間で

 1節を見ると第30年とあります。何の30年なのか書かれていませんが、おそらくエゼキエルが30歳の頃という意味だと考えられます。
 エゼキエルはバビロンによって捕囚にされた人々の一人でした。
 祭司ブジの子とありますが、エゼキエル自身も祭司としての訓練を受けていたようです。実際に祭司として神殿で奉仕するのは30歳からなので、祭司の見習いといったところでしょうか。
 聖なる都エルサレムで、神に仕えるきよい生活を送っていたわけです。
 それなのに異教の国に連れ去られてしまいました。
 捕囚民がいた場所はケバル川の河畔です。
 ケバル川というのはユーフラテス川の水を引く用水路につけられた名前のようです。荒れ果てた土地を潤すために引かれた川でした。しかし元は荒れ果てた土地です。その寂しいところで捕囚民は生活していました。
 なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。神様は一体どうしてこのような不義を許すのか。エゼキエルたち捕囚民にとっては理解できない悲しみだったことでしょう。

 私たちも理不尽な悲しみを経験することがあると思います。
 突然の病、愛する人との別れ。世界を見渡してみても、テロなどによって突然生活が破壊されたり、住む場所を追われて難民になったりする人がいます。格差も広がり、日本には食べ物が捨てるほど有り余っていますが、こう話している間にも食糧がなくて死んでいく人々がいます。
 世界はなぜこのように壊れているのか、神も仏もあるものかと嘆きたくなる状況があります。

5年目に

 しかもその捕囚生活は5年目を迎えています。ヨヤキン王と身分の高い人々が捕囚にあってから第5年なのです。
 苦しい生活も数日だけなら希望を持てるかもしれません。3日くらいなら耐えられそうです。1週間ならまだいけるかもしれません。1か月はどうでしょう。3ヶ月なら研修期間だと思って頑張れるかもしれません。さらに半年、そして1年も耐えれば立派なものです。石の上にも3年という言葉がありますから、3年も忍耐出来たら素晴らしいことでしょう。それが5年なのです。ほとんどの人は希望を失っていたのではないでしょうか。

主の言葉が臨む

 そのような時に主の言葉がエゼキエルに臨みました。
 荒れ果てた地で神も仏もあるものかと嘆きながら5年目を迎え、絶望に打ちひしがれている民に主の言葉が臨みました。
 エゼキエル自身、30歳になれば念願の神殿での奉仕が始まったはずでした。ところが捕囚にあい、その夢は断たれてしまった。
 主はその30歳の時にエゼキエルに預言者としての召命を与えます。自分が思い描いた夢より、もっと偉大に用いられる計画を主は持っておられたのです。
 主なる神様はいつでもどこでも私たちと共におられます。私たちがどんな状況に置かれているとしても、主は共にいてくださるのです。

 今、苦難の中を通っている人もいるかもしれません。学校や職場、あるいは家庭の中でも寂しさを抱えて忍耐しながら生きている人がいるかもしれません。
 たとえ国が亡びることがあろうとも、神の国は決して滅びることはありません。いつでもどこでも、主が共におられます。

4つの生き物

 また今日の本文の間の部分は4つの生き物の幻が出る場面です。
 全地を支配しておられるのは誰かを教えています。

4つの顔

 エゼキエルが見ていると北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてきました。
 エゼキエルはその中に4つの生き物の姿を見ます。その生き物は人間のような姿をしていましたが、4つの翼を持ち、翼の下に手があり、足の裏は子牛の足の裏のようで、4つの顔がありました。その顔は正面が人の顔、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔がありました。
 この生き物が空中を向きを変えることなく移動していました。ですから体の正面にはいつも人の顔があります。
 どのような姿か想像できましたか。ちょっと気持ち悪いですね。
 この生き物は一体何なのでしょうか。
 4つの顔にはそれぞれ意味があると考えられます。
 獅子、ライオンは百獣の王と言われます。その堂々とした風格は野の獣の代表にふさわしいものです。
 牛はどうでしょうか。牛は人間の食料としても労働力としても大きな役割を発揮してきた家畜です。アロンやヤロブアムが牛の偶像を作ったことも、牛の姿を見てみればうなずけます。牛は家畜の代表です。
 鷲はどうでしょうか。鷲は大きな翼を広げ、空高く飛びます。羽ばたいて一生懸命飛ぶのではなく、優雅に風に乗って舞います。空の王者といった感じです。鷲は空の鳥の代表です。
 その正面に人の顔があります。まるで人が空の鳥、家畜、地の獣を支配しているかのようです。このことは創世記1章26節を思い出させます。

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

創世記1:26

 この世界を神の国として治めるように命じられた人間の使命を思い出させます。

4つの車輪

 エゼキエルはこの4つの生き物の傍らの地に車輪があることに気づきました。
 この車輪は日本語の聖書では緑柱石のように輝いていたとあります。緑柱石は緑色の石です。ヘブライ語の原典では貴カンラン石という石を表す言葉が使われており、実際にはトパーズのような黄色い輝きを放っていたと考えられます。
 その車輪には高い外枠がついていました。そして外枠の周囲一面に目がついていました。考えただけで恐ろしいですね。

霊が行かせるところへ

 この車輪は4つの生き物と共に移動しました。霊が行かせるところへどこへでも進みました。ですからこの世界のどこへでも、この生き物と車輪は行き巡ることができました。この生き物の意志で行動したのではなく、神の霊に完全に従っていました。
 この当時はネブカドネザル大王によってバビロンが急激に勢力を広げていった時代です。それまで中東を支配していたアッシリアを打ち破り、首都ニネベを陥落させました。アッシリアを助けに来たエジプト軍をカルケミシュで大敗させ、もはやこの世界にバビロンに並ぶ国はないというほどに成長していました。
 世界七不思議にも数えられるバビロンの空中庭園はバベルの塔を思い起こさせ、天にまで届きそうなバビロンの勢いを象徴していました。
 しかしこの世界を支配しているのは誰でしょうか。
 人間がこの世界を支配しているかのように見えます。確かに人間はこの地を支配する使命があります。しかしそれは人間が自分勝手に治めるということではなく、神と共に共同の統治者になるのです。
 たとえバビロンが世界を手に入れるとしても、その上に神の霊に満たされた4つの生き物がいる。
 ドタンの町がアラム軍に包囲された時、エリシャと従者はアラム軍をさらに包囲する天の軍勢を見ました。
 私たちは何を恐れるべきでしょうか。人を恐れる必要はありません。他の人と比較をしたり、他の人からの評価を気にする必要はありません。
 クリスチャンだという理由で寂しい思いをすることもあると思います。
 巨大な車輪の外枠に目がびっしりついています。いつも主が見ています。主に見守られているのです。
 エゼキエルはそのことを視覚的、聴覚的に体験しました。
 私たちはエゼキエルやエリシャのようにこの目で体験することはできないかもしれません。
 しかし耳で聴いています。主の御言葉に信頼し、全地を支配する主に従う者でありたいです。

神の顕現

 最後に今日の本文の26節から28節で『26 生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。27 腰のように見えるところから上は、琥珀金が輝いているようにわたしには見えた。それは周りに燃えひろがる火のように見えた。腰のように見えるところから下は、火のように見え、周囲に光を放っていた。28 周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた。』 とあります。
 人は神の前でひれ伏すしかありません。

王座

 エゼキエルが見上げると大空は水晶のように硬いもので覆われていました。
 大空というと現代の私たちは球体をイメージするかもしれませんが、球体というよりは台座、プラットホームという表現が正しいと思われます。
 そこには王座がありました。球体の上に王座を置いたら滑って落ちてしまいますね。
 この世界の全ての支配、権威、勢力、主権の上に高く立つ王座がそこにあります。王の王、主の主が座るべき王座がそこにありました。

人のよう

 エゼキエルはそこに人のように見える姿をしたものを見ます。
 もちろん人ではありません。それこそ主なる神様の姿でした。と言っても神は霊なので目に見える実態があるわけではありません。また神の栄光の前では罪ある人は生きていられません。
 ですからエゼキエルが本当に王座の上で人の形を見たわけではありません。エゼキエルは神の栄光から、人のようなものを感じたのです。
 なぜなら人は神の栄光を反映する存在として造られたからです。知性、感情、意思を持った人格というものは、父なる神から受け継いだものです。
 神が人に似ているのではなく、人が神に似ているのです。神こそが本当に人間らしい方であり、人格的な方です。
 イエス・キリストは完全な神であり、完全な人として来られました。ですからイエス・キリストに出会うとはただの感覚的なものではなく、本当に人格的なものです。体験的に知ることになります。
 そして私たちはイエス・キリストの内に神を見、本当に人間らしい生き方とは何かを知るのです。

ひれ伏す

 エゼキエルは4つの生き物に対しては詳細に記述していますが、主の栄光の姿については「~のように見えた」と感覚的なことしか書いていません。
 それくらいしか書くことができなかったのです。主の栄光のあまりの輝きに、ただひれ伏すしかありませんでした。
 ペトロもイエス・キリストに出会ったとき、ひれ伏しました。これは主なる神様に出会った者の素直な反応です。
 私たちは礼拝を通して、聖書や祈りを通して神に出会います。賛美の中におられる主に出会うこともあります。
 そのとき私たちは言葉を失います。何と言っていっていいかわからないのです。
 主の臨在に触れるとき、ただ涙が溢れてくるということがあります。
 山の上でイエス・キリストが栄光の姿に変わったときも、弟子たちは何と言っていいかわからなくなりました。言葉はいりません。ただひれ伏すだけです。
 この聖書の箇所があまりに神の栄光で満ちているので、ユダヤ教のラビたちはエゼキエル書1章から3章は30歳になるまで読んではならないと命じました。30歳未満には刺激が強すぎる、R指定の箇所です。

 私たちは神の前でそのようにひれ伏すしかない小さい者、無に等しい者です。
 ところが主の方からエゼキエルに語りかけました。
 主が私たちを用いてくださいます。エゼキエルは30歳になったばかりの未熟な者でした。しかも捕囚民です。主に罪を犯して異教の地に連れ去られた反逆の民の一人なのです。誰が自分に敵対する者と共に働きたいと願うでしょうか。
 主はご自身だけで全知全能のお方でありながら、無に等しい者、反逆者である私たちを用いてくださいます。
 この驚くべき恵みを受けたなら、私たちはその召命に応えざるを得なくなります。立ち上がらざるを得なくなります。
 偉大な主が今、この地で私たちを必要としています。
  私たちがどんな状況に置かれていても、主は共にいてくださいます。主は全地を治めておられます。主の前にひれ伏し、主の御声に聞き従って立ち上がる私たちになることを願います。

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