十戒8
【第六戒】 命を守る
出エジプト記 20:13
殺してはならない。
殺すなというシンプルで難しい戒め
今日は第六戒「殺してはならない。」です。殺すなというわかりやすい戒めです。
これまでの戒めは、神は唯一であるとか安息日を守れとか、いかにも宗教的な響きがありました。
また父母を敬えという戒めなどは、それを守れていない自分の罪を見させられるものでした。
第六戒はどうでしょう。殺すなというのは宗教と関係なく、誰もが同意できる教えです。
そして私たちはそれを当然のこととして守っています。ここにいるほとんどの人は人を殺したことがない…ですよね。
私たちはちゃんと第六戒を守っています。
簡単な戒めです。
以上。
今日のメッセージはこれで終わり。
ではありません。
殺意をもって人を殺すことはなくても、事故など何かのミスで人を死なせてしまうこともあります。
正当防衛と言えるような場面はどうでしょう。こちらの命が狙われているとき、殺られる前に殺る。敵がわが国の領土にミサイルを落とそうとしているから、先に敵の基地を攻撃する。テロリストが隠れているから病院や学校を爆破する。
自分の子どもの命を奪った殺人犯に復讐する。そのような暴力的な方法は取れないから、死刑によって合法的に犯人を殺す。
生きていくことがつらすぎて、自分で自分を殺してしまうこともあります。
安楽死が認められている国もあります。
産み育てることができない赤ちゃんをあきらめる、人工妊娠中絶はどうでしょう。
現実の人間社会を見たときに、殺してはならないという戒めはどこからどこまでなのか、実は難しい問題なのだと気づかされます。
殺すな、命を守れ
殺すな。当たり前のようなこの戒めを、改めて考えてみましょう。
なぜ人を殺してはならないのか
なぜ人を殺してはいけないのですか?
相手にも人生があるから?
相手が自分に危害を加えるような敵や更生の見込みのない凶悪犯であったり、自ら死にたいと願っている人だったら?
この人がいない方が他の人が幸せに生きられるというような人がもしいたら?
あまり哲学的に考えない方がいいです。
神が殺すなと言うのですから、神にその理由を尋ねましょう。
神はこう言っています。
人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
創世記9:6
人は皆、神のかたちです。神の素晴らしさを反映する神の傑作品です。
神のかたちである人間の尊厳を守らなければならず、それを傷つけることは許されません。
だから殺してはならないのです。
神はだれの死も喜ばず生きることを願う
引用した創世記の御言葉は、復讐や死刑を肯定しているようにも読めます。殺人犯の命を人が奪うことは許されるのでしょうか。
これも神に尋ねましょう。
神は預言者エゼキエルを通して「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と言っています。
たとえ人を殺した者であっても、その人が死ぬことは神の御心ではありません。
むしろその罪人が立ち帰って生きることを神は願っています。
そのためにイエス様が来てくださいました。
大切な命を守る
もし殺したいほど憎たらしい人がいるとしても、その人のためにもイエス様は死なれました。神が生きることを願っている命です。
自分など誰の役にも立たずいなくなった方がマシだと思う人がいたとしても、その人も間違いなく神の傑作品です。神に失敗はありません。
第六戒は殺すなという禁止だけを命じているのではありません。
私たちは自分と他人の命を守るために正当な努力をするべきです。
自分の命を守る
私たちは自分の命を守らなければなりません。
自分の体を大切に
パウロは、私たちの体が神の神殿であると言います。私たちの内に聖霊が住んでいるからです。神の神殿を壊してはいけません。
皆さんは自分の体を守るために何をしていますか?
むしろ体によくない生活をしてしまってはいませんか。
休むことは大事です。
適度な運動も必要です。
体によいものを食べてくださいね。
私は木曜日の午後に少し体調を崩してしまったのですが、辛ラーメンを食べてチョコを食べて翌朝まで寝たら回復しました。たぶんチョコレートを食べたのが効いたんだと思います。
預言者エリヤが疲れ果てたとき、神様はエリヤをエニシダの木の下で眠らせ、パン菓子を食べさせました。
体と心を回復させるために、よく寝ておいしいものを食べてください。
自ら死を選ぶことを防ぐ
私たちは自分の命を守るべきであって、自分の命を奪うことがあってはいけません。
しかし自ら死を選んでしまった人を責めることはできません。その人が自ら死を選んだのは、何かがそこに追い込んだからです。仕事の問題、経済的な問題、健康上の問題、人間関係の問題、深い悲しみや悩みなどが人を死に追いやります。
日本では毎年2万人以上が自死しています。ここ数年増え続けています。特に若者の死因の1位が自死です。
自死はその人だけの問題ではなく、この国が取り組まなければならない問題です。
自己犠牲≠愛
自己犠牲についても考えてみたいと思います。
イエス様は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言いました。
私たちは誰かを本気で愛そうとするとするなら、自分が傷つくことを恐れてはいけません。
しかし誰かを愛するためではなく、自己犠牲そのものが目的になってしまうこともあります。
そうなると自分が消耗してしまうだけでなく、相手の自立も妨げてしまいます。
まずは自分の人生を大事にしてください。
殉教を神は喜ぶか
殉教の死を神は喜ぶでしょうか。
愛のためなら殉教もあり得るでしょう。
命をかけて海を渡った多くの宣教師たちの犠牲があって、東の果てのこの島にも福音が伝えられました。
しかし自ら死に向かうべきではありません。わが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ何の益もありません。
イエス様が私たちのために死んでくださいました。
私たちはこの大きな愛に生かされています。
自分の命を大事にしてください。
弱者、小さな命を守る
私たちは他の人の命も守るべきです。
特に命の危険にさらされている人たちを守らなければなりません。
医療、福祉、介護
病気の人などの命を守るために、医療、福祉、介護があります。
これらはキリスト教の価値観の下で発展してきました。
浜松にある聖隷福祉事業団もクリスチャンの若者たちによって始められたものです。
社会のシステム、技術の革新で守られる命がある
交通事故や自然災害によって亡くなる方々も多くいます。
交通事故は交通ルールを整備したり、車そのものの安全性能を高めたりすることで減らすこともできます。
自然災害が起きるのは仕方ありませんが、災害に強い建物や街を造ったり、防災学習や訓練をしておくことで被害を減らすことができます。
このように社会のシステムや技術の革新によって守られる命があります。
世界の貧困や飢餓の問題も解決すべき問題の1つです。
子どもを守る
小さな子どもが犠牲になる事件を聞くと心が痛みます。
4歳の娘を毒殺した疑いで両親が逮捕されました。
信じられない事件ですが、児童虐待の通報件数は毎年増え続けています。
家庭にも学校にも居場所がない子どもたちがいます。その子たちが安心して過ごせる居場所が必要です。
親戚や近所との付き合いが薄くなった今、子育て世代の親への支援も必要でしょう。
生まれたばかりの赤ちゃん3人の遺体を自宅に隠していた女性が逮捕された事件もありました。
なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。妊娠中に相談できる人はいなかったのでしょうか。
なぜ彼女は逮捕され名前も報道されているのに、赤ちゃんの父親となるべき男たちは何の責任も問われないのでしょうか。
もし自分で育てられないと思っても、お腹の中にいるのは小さな命です。他の人の手で大切に育ててもらうこともできます。
中絶も難しい問題です。
妊娠や出産がお母さんの命を危険にさらす場合や、男からの暴力によって妊娠させられた場合など、中絶が必要になる場合もあります。
しかしそれも小さな命のもとですから、やむを得ない事情がない限り、安易な選択肢になってほしくないと思います。
神が祝福として与えた家庭内で起きる悲劇
神は人を祝福し、産めよ、増えよ、地に満ちよと命じました。
人が新たな命を生みだすことを願い、夫婦を与え家庭を築かせました。
それが人の罪のために壊れてしまいました。
最初の殺人は家庭内で起こっています。
家庭内で命が奪われることは本当に悲しいことです。
病気の人、貧しい人、子どもたちなど、小さな命、弱い人たちの命を守るべきです。
人を殺す者から人を生かす者へ
他人の命を守ろうとするなら、誰かの命を狙う敵はどうしたらいいでしょう。
死刑
日本では、たくさんの人の命を奪った殺人犯は死刑になることがあります。
とんでもない罪を犯した罪人は死んで償うべきだと考えています。
しかし冤罪ということもあります。
袴田巌さんは一家4人を殺害した罪に問われ死刑判決が出ていますが、冤罪の可能性があってまだ裁判が続いています。
何もしていない人が濡れ衣を着せられ、何十年も死刑囚として生きなければならない。恐ろしいことです。
このような問題があっても死刑制度はなくなりません。
それは私たちの心に、誰かの死を望む心があるからかもしれません。
誰かを自分の敵とし、その人に石を投げたい。十字架につけろと叫びたい殺人者の心があります。
私たちも人を殺す者だった
イエス様は殺人についてこう言っています。
21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
マタイによる福音書5:21
誰かに「ばか」と言ったり腹を立てたりするだけで、殺人と同じ罪だというのです。厳しいですね。
しかしこれが私たちの心です。誰かの尊厳を傷つけ、殺したい欲求があるのです。
これが私たちの罪です。
実際、私たちのこの罪が人を殺したではありませんか。
何の罪もないイエス・キリストをあの十字架につけて殺したではありませんか。
私たちは殺人者です。
私たちこそ、死ぬべき罪人です。
死ぬべき罪人を救い生かすためにイエスは死なれた
しかしイエス様が十字架で死なれたのは、この死ぬべき罪人をこそ救うためでした。
神は誰の死も喜ばない。罪人が立ち帰って生きることを願っています。
「殺してはならない」このシンプルな戒めを守るためには、イエス・キリストによる罪の赦しが必要です。
愛する者に造り変えられる
死の力を打ち破り復活されたイエス様は、私たちに新しい命を与え、新しい人に造り変えます。
人を殺す者から、生かす者へ。
憎む者から愛する者へと造り変えます。
憎しみの心を手放してください。
敵だと思っていた人を赦し、愛することを選択してください。
ヨハネはこう言っています。
兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
ヨハネの手紙一3:15
兄弟を憎む者は人殺しです。
言い換えるなら、人を生かす者になるためには愛する者にならなければならないということです。
すべてが生きる
罪人のあなたを救ってくださった神の愛を受け取ってください。
そして神様を愛してください。
神を愛するなら、神のかたちに造られた人を愛する者になります。相手がどのような人間であろうと、神に失敗はない。存在そのものを喜ぶのです。
もちろん自分もそこに含まれます。自分自身を愛してください。
そして自分を愛するように、周りの人を愛するのです。
こうして私たちから神の愛があふれ流れていきます。命の川が流れていきます。
この川が流れるところでは、すべてが生きます。