御言葉を拒む者の末路

歴代誌講解53

御言葉を拒む者の末路

歴代誌下 18:18-34

18 だが、ミカヤは続けた。「主の言葉をよく聞きなさい。わたしは主が御座に座し、天の万軍がその左右に立っているのを見ました。19 主が、『イスラエルの王アハブを唆し、ラモト・ギレアドに攻め上らせて倒れさせるのは誰か』と言われると、あれこれと答える者がいましたが、20 ある霊が進み出て主の御前に立ち、『わたしが彼を唆します』と申し出ました。主が、『どのようにそうするのか』とただされると、21 その霊は、『わたしは行って、彼のすべての預言者たちの口を通して偽りを言う霊となります』と答えました。主は、『あなたは彼を唆して、必ず目的を達することができるにちがいない。行って、そのとおりにせよ』と言われました。22 今御覧のとおり、主がこのあなたの預言者たちの口に偽りを言う霊を置かれました。主はあなたに災いを告げておられるのです。」23 ケナアナの子ツィドキヤがミカヤに近づいて頬をなぐり、「主の霊はどのようにわたしを離れ去って、お前に語ったというのか」と言った。24 「あなたが身を隠そうと部屋から部屋へと移る日にそれが分かる」とミカヤは答えた。25 イスラエルの王は命じた。「ミカヤを捕らえ、町の長アモンと王子ヨアシュのもとに引いて行って、26 言え。『王はこう言われる。この男を獄につなぎ、わたしが無事に帰るまで、わずかな食べ物とわずかな飲み物しか与えるな。』」27 ミカヤは王に、「もしあなたが無事に帰って来ることができるなら、主はわたしを通して語られなかったはずです」と言い、「すべての民よ、あなたたちも聞いておくがよい」と言った。28 イスラエルの王は、ユダの王ヨシャファトと共にラモト・ギレアドに攻め上った。29 イスラエルの王はヨシャファトに、「わたしは変装して戦いに行きますが、あなたは御自分の服を着ていてください」と言い、イスラエルの王は変装し、彼らは戦いに行った。30 アラムの王は配下の戦車隊の長たちに、「兵士や将軍には目もくれず、ただイスラエルの王をねらって戦え」と命じていた。31 戦車隊の長たちはヨシャファトを見たとき、「これこそイスラエルの王にちがいない」と言い、彼を包囲して攻めかかろうとした。ヨシャファトが助けを求めて叫んだので、主は彼を助けられた。すなわち神は彼らをヨシャファトから引き離された。32 戦車隊の長たちは、彼がイスラエルの王ではないと知り、追うのをやめて引き返した。33 ところが一人の兵が何気なく弓を引き、イスラエルの王の鎧の胸当てと草摺りの間を射貫いた。王は御者に言った。「手綱を返して敵陣から脱出させてくれ。傷を負ってしまった。」 34 その日、戦いがますます激しくなったため、イスラエルの王はアラム軍を前にして夕方まで戦車の中に立っていたが、日の沈むころ息絶えた。

手紙は食べ物ではありません

 まどみちおさん作詞の童謡「やぎさんゆうびん」。
 「白ヤギさんからお手紙着いた 黒ヤギさんたら読まずに食べた 仕方がないのでお手紙書いた さっきの手紙のご用事なあに」という歌詞です。
 黒ヤギさんは白ヤギさんからの手紙を受け取ったのだけれど、その手紙の用件を読まずに食べてしまった。だから用件を聞くために白ヤギさんに手紙を出した。
 2番では白ヤギさんも同様に手紙を食べてしまいます。そして黒ヤギさんに手紙を出す。
 歌は1番に戻る。延々とこれを繰り返します。
 手紙を受け取っても、それを食料にしてしまってはメッセージを受け取れません。

 黒ヤギさんは手紙の差出人が白ヤギさんだとわかっています。しかし要件はわからなかった。
 年賀状のような季節の挨拶であれば、読まなくても用件は察しがつきます。聞くまでもありません。
 手紙の表に名前、裏に用件が書いてあるなら、先に裏を目にしたら用件がわかり、歌のループは終わります。
 手紙の差出人の名前は読めるけれど、手紙の内容まではすぐに読めない状態だったのでしょう。
 封筒に入っていたのではないでしょうか。
 わざわざ封筒に入れて届けるということは、よほど大切なことが書かれていたのかもしれません。
 結婚式や同窓会など、何かのパーティーの招待状でしょうか。

 白ヤギさんは黒ヤギさんをパーティーに招いた。
 しかし招待状を食べてしまうとパーティーには参加できません。
 おいしいものが待っていたのに、手紙でお腹がいっぱいになってしまいます。

愛のメッセージを拒む

 今日の本文は南ユダ王国4代ヨシャファト王の話第2部の後半です。
 ヨシャファトは同盟を結んだアハブに誘われ、ラモト・ギレアド奪還戦に参加させられています。
 ヨシャファトはアハブに「まず神の言葉を求めてください」と要求しました。
 アハブは自分に都合のよいことを語ってくれる預言者400人を集めます。ヨシャファトが「他に主の預言者はいませんか」と言うので、アハブはミカヤも呼びました。
 400人の預言者たちは口をそろえ「主が勝利を与えてくれる」と語りました。
 ミカヤも最初は同じように語りますが、それは主の言葉ではありませんでした。
 主が言われたのは「イスラエル人が飼い主のいない羊のようにさまよっている。無事に帰らせなさい。」ということでした。
 主は、北イスラエルには飼い主がいないと言います。アハブ王がいますが、神の言葉を聞く指導者ではありません。神の言葉を聞き、羊たちを神のもとに帰らせる羊飼いがいないのです。
 これは戦争をしようとするアハブ王に反対する言葉でもあります。
 神の願いはイスラエル人が戦争に行くことではなく、無事に帰ることなのです。
 アハブにとってこれは災いの言葉でした。

神に立ち帰り生きることを願う

 ミカヤは続けて言います。「主の言葉をよく聞きなさい。わたしは主が御座に座し、天の万軍がその左右に立っているのを見ました。」
 今アハブたちは立派な王の服を着てサマリアの城門の入口で王座に着いています。
 その上に神様が御座に座しています。神様こそがすべてを治めているということを象徴しています。

 神様の前に天の万軍が呼び集められます。それは天使などの霊的な存在です。
 主は彼らに「アハブを唆し、ラモト・ギレアドに攻め上らせて倒れさせるのは誰か」と問いかけます。これは恐い言葉です。
 歴代誌でアハブはここにしか出てこないので唐突な感じがしますが、列王記を見ればアハブは何度も神様に背いています。御言葉を拒み続けたアハブに対する最終的な災いが下されようとしているのです。

ネタばらし

 そこである霊が進み出て、「わたしは行って、彼のすべての預言者たちの口を通して偽りを言う霊となります」と答えました。
 神様はそれを許可したので、アハブの400人の預言者は口をそろえて偽りの預言をしたのだとミカヤは言います。
 ネタばらしです。

 なぜこのようなことを言うのでしょう。
 本当にアハブに倒れてほしいなら、このようなことを教える必要はありません。無事に帰らせよと言う必要もない。この霊が偽預言者に言わせた通りに唆されて倒れさせれば良いだけのことです。
 しかしわざわざミカヤを通して民を無事に帰らせよと命じ、ネタばらしをしたのは、このまま行ってはいけないと警告するため。偽預言者の罠に気づかせて立ち帰らせるためです。
 神様の本当の願いはアハブを唆して倒れさせることではなく、神の言葉に立ち帰り生きることなのです。

愛のメッセージを災いの言葉として受け取る

 帰っておいでという神の招きに対し、アハブたちはどう反応したのでしょうか。
 ツィドキヤは逆上しミカヤの頬を殴りました。
 アハブ王もミカヤを捕え、投獄させました。そして自分が無事に帰って来るまでわずかな食べ物とわずかな飲み水しか与えるなと命じます。
 ミカヤは「もしあなたが無事に帰って来ることができるなら、主はわたしを通して語られなかったはずです」と答えました。
 神様は無事に帰らせたい。しかしアハブは自らそれを拒みました。だからもうアハブが無事に帰る道は残されていません。

 神様は「そっちに行ってはダメだ。帰って来い」と語ります。
 それは愛の言葉でした。
 しかしアハブは自分に反対する災いの言葉として受け取りました。
 ツィドキヤは自分が侮辱されたと感じ暴力を振りました。

愛を示してくださった方を殺す人間

 私たちも神様の言葉を聞くときに、それが自分に対する愛のメッセージとして受け取れないことがあります。
 医者が自分の健康を思って色々指摘してくれる言葉も拒んでしまう私たちです。
 自分を罪から救い癒したいと願うお方の愛のメッセージも、災いの言葉のように拒んでしまうのです。

 神様は私たちが立ち返り喜びのパーティーに参加することを願っています。
 しかし私たちは神様が自分の邪魔をし束縛しようとしていると感じてしまいます。
 そして神様に反逆します。

 イエス様は正しいことを話しました。
 しかし祭司長たちは妬み、イエス様を十字架につけて殺します。
 人々はイエス様に鞭打ち、唾を吐き、侮辱する言葉をあびせました。
 私たちに対して愛のメッセージを語ってくださったお方を拒み、十字架につけて殺す。
 それが私たち人間です。

神の招きに応える

 アハブは結局、ヨシャファトと共にラモト・ギレアド奪還戦に向かいます。
 アハブは御言葉を拒みましたが、それでも神の言葉は正しいと感じています。だから災いを避けようと、変装しました。
 立派な王の服を着たままではすぐ敵に狙われてしまう。それで一般の兵のかっこうをしました。
 一緒に連れて行くヨシャファトにはそのまま王のかっこうでいてもらいます。おとりです。

実現するのは人間の計画ではなく神の御心

 アハブの作戦はうまくいきました。
 アラム王は「ただイスラエルの王をねらって戦え」と命じていました。兵たちは他と明らかに違う立派な服を着た人が王に違いないと思い、ヨシャファトに集中攻撃をあびせました。
 絶体絶命の状況でヨシャファトは主に祈り、助けられました。

 作戦通りに狙われずに済んだアハブ王ですが、一人の兵が何気なく弓を引き、その矢が刺さりました。
 完全な気まぐれで放たれた1本の矢が致命傷となり、アハブは死にます。

 アハブの計画がうまくいったかのように見えましたが、結局は神の告げた災いが実現してしまいました。

人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。

箴言19:21

 御言葉を拒んだアハブは災いから逃れることができませんでした。

神の願いは立ち返って生きること

 聖書には、神が滅ぼすと言っておきながら滅ぼさなかった例を見ることができます。
 ヨナはアッシリアの首都ニネベで「40日後にニネベは滅ぼされる」と預言しました。
 しかしニネベの人々が悔い改めたので神は40日後にニネベを滅ぼしませんでした。
 だから神が願っていることは災いを下すことではなく、立ち返って生きることです。
 ヨシャファトはアハブに味方し、行ってはいけない戦争に参加してしまいました。
 そこでアハブのおとりにされて命を狙われたけれど助け出されました。
 ヨシャファトが神に立ち返ったからです。

帰って来た放蕩息子のためにパーティーを開く

 イエス様は放蕩息子のたとえを話しました。
 ある人に2人の息子がいて、財産を分けてもらった。弟はそれを金に換えて遠い国に出て行き、遊び暮らした。
 金がなくなると父親のところに帰ってきます。
 すると父親は弟息子を喜んで迎え入れます。
 彼はもう息子と呼ばれる資格はないと思っていました。
 それなのに子牛を屠ってパーティーを開きます。

22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ルカによる福音書15:22-24
レンブラント「放蕩息子の帰還」

 これが神様の心です。
 神様に背き続けた人間が滅びることなど望んではいない。
 その人が帰って来ることを喜びます。
 そして神様が開くパーティーに招いてくださるのです。

アルムのおんじも招かれている

ヨハンナ・シュピリ/著、遠山明子/訳「アルプスの少女ハイジ」(光文社 2021)

 今週の土曜日から浜松市美術館でハイジ展が開かれます。
 ヨハンナ・シュピリ原作の「ハイジ」は世界的に有名な児童文学作品です。
 日本でもアニメ「アルプスの少女ハイジ」が放送されました。
 原作はキリスト教の背景をもって書かれています。
 ハイジにはアルムの山小屋に住むおじいさん(おんじ)がいます。ハイジはこのアルムのおじいさんのもとに預けられることになります。
 実はアルムのおじいさんには暗い過去があります。
 大きな農場の跡取り息子でしたが、全財産をお酒とギャンブルに費やし、家屋敷を失いました。その後傭兵になってイタリアに行きますが、脱走。ケンカで人を殴り殺したとの噂です。
 アルムの山小屋に来てからは人を避けて生活してきました。
 ハイジはおじいさんのもとに預けられた後、フランクフルトのクララのお屋敷に行きます。
 そのお屋敷でハイジはクララのおばあさまに出会い、読み書きやお祈りの仕方を教えてもらいます。
 字が読めるようになったハイジはおばあさまから1冊の本をもらいます。その本の中に、放蕩息子のたとえが載っていました。
 アルムのおじいさんのもとに帰ったハイジは、おじいさんに放蕩息子の話を読み聞かせてあげます。
 その夜、ハイジが寝姿をおじいさんは見ます。お祈りをして寝たのでしょう。手を組んで寝るハイジの顔はとても安らかでした。
 それを見たおじいさんは頭を垂れ、「オレはもう息子と呼ばれる資格はない」と涙を流します。
 おじいさんは神様に立ち帰りました。
 夜が明けて、日曜日の朝、ふもとの町から教会の鐘の音が聞こえてきます。
 その音に導かれるようにおじいさんはハイジを連れて山を下り、教会の礼拝に出席しました。
 町の人たちは驚き、喜びました。

あなたも招かれていることを忘れないで

 どんな暗い人生を歩んできたとしても、神様に立ち帰るならば再び神様の子どもとしての人生を歩み出すことができます。そして喜びのパーティーに参加することができます。
 神様は私たちを招いています。無事に帰って来ることを願っています。
 あなたの耳に心地よいその話は罠だ。そっちにいってはダメだ。
 神様は繰り返し繰り返し招いています。

 クリスチャンになってからも私たちは喜びのパーティーに招かれていることを忘れてしまうことがあります。
 今日は日曜日。教会の鐘は鳴りませんが私たちはここに呼び集められ、共に礼拝をささげています。
 ああ日曜日、神様に招かれている!
 そのような心で礼拝に集っている人がどれほどいるでしょうか。
 神様からパーティーに招かれている。その喜びを忘れないでください。

 神様は私たちに招待状を送っています。
 私のところに帰っておいで。そのままで大丈夫、あなたは私の愛する子。喜びのパーティーが開かれているよ。
 しかし私たちはその招待状を受け取り損ねます。
 ヤギさんになったらダメです。
 紙を食べてもおいしくありません。災いと感じるでしょう。
 そこに記された愛のメッセージを受け取ってほしいのです。

招きを拒んだ兄を呼びに来る父

 放蕩息子のお兄さんはずっと父親のもとにいながら、喜びのパーティーに参加することを拒みました。
 お父さんはわざわざ彼のところに来て招きます。

だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

ルカによる福音書15:32

 人々が神様のところに帰ってきたことを一緒に喜ぼう。
 この神様の招きを拒んではいけません。御言葉を拒み続ける人はアハブのようになります。
 しかし神に立ち帰るなら、ヨシャファトのように、アルムのおじいさんのように助け出されます。
 決して遅すぎることはありません。
 今からでも神様の招きに答え、喜びのパーティーに加わりましょう。

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