心を見るためのテスト

歴代誌講解71

心を見るためのテスト

歴代誌下 32:24-33

24 そのころ、ヒゼキヤは病にかかり、死にそうになった。彼が主に祈ったので、主は彼にこたえ、しるしを与えられた。25 しかし、ヒゼキヤは受けた恩恵にふさわしくこたえず、思い上がり、自分とユダ、エルサレムの上に怒りを招いた。26 ヒゼキヤはエルサレムの住民と共に、思い上がりを捨ててへりくだったので、その時代に彼らが主の怒りに襲われることはなかった。27 ヒゼキヤは極めて多くの富と誉れに恵まれ、宝物庫を造って金、銀、宝石、香料、盾、その他あらゆる宝物を納め、28 補給基地の町を造って、穀物、ぶどう酒、油など農産物を蓄え、畜舎を造って、あらゆる種類の家畜を飼い、柵を造って、羊の群れを飼っていた。29 町を幾つも造り、羊や牛の群れを数多く持った。神が極めて豊かな財産をお与えになったからである。30 上の方にあるギホンの湧き水をせき止め、ダビデの町の西側に向かって流れ下るようにしたのも、このヒゼキヤであった。ヒゼキヤはそのすべての事業を成し遂げた。31 しかし、バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた。32 ヒゼキヤの他の事績および敬神の行為の数々は、『預言者、アモツの子イザヤの見た幻』と『ユダとイスラエルの列王の書』に記されている。33 ヒゼキヤは先祖と共に眠りにつき、その遺体はダビデ一族の墓のある丘に葬られた。その死にあたってすべてのユダとエルサレムの住民が彼に敬意を表した。その子マナセがヒゼキヤに代わって王となった。

愛するからこそテストを受けさせる

 テストは好きですか。
 テストに嫌な思い出がある人もいますね。
 テストによって自分が評価されます。高い評価が得られれば喜べるかもしれませんが、低く評価されるのは嫌です。テストの点数が自分の価値を表しているかのように錯覚してしまいます。

 テストは皆さんの価値を減点しおとしめるためにするものではありません。
 テストをする目的の1つは、自分の足りないところに気づかせることです。
 テストをして、できないところが示される。それは「今」できないことであって、永久にできないことではありません。
 今はまだできていない成長の可能性を示します。
 今足りていないところを補うことで、成長を促すことができます。
 どうしてもできない部分もあります。それがわかれば助けを求めればいいです。

 視力検査で視力が低いとわかったなら、メガネやコンタクトレンズなどを頼ればいいです。
 だから本人を助けるためにテストがあります。
 安心してテストを受けてほしいです。
 かと言ってありのままの自分を見てもらおうと、何の準備もせずにテストを受けるのもダメです。
 今の最善でテストに臨めるよう、準備はよくしてください。
 テストは、あなたを愛するからこそ受けさせます。

テストによって神に立ち帰る

 今日の本文は南ユダ王国13代目ヒゼキヤ王の話その6、ヒゼキヤの病気です。
 ヒゼキヤの話はこれで最後になります。

死の宣告と癒し

 アッシリアの脅威にさらされていた頃、ヒゼキヤは死の病にかかりました。
 そこにイザヤが来て主の言葉を伝えます。病で苦しむヒゼキヤに神様はどのような励ましの言葉をかけたのでしょう。
 「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい。」
 どストレートな死の宣告です。
 ヒゼキヤは壁に向かって嘆き祈り、泣きました。
 すると神はヒゼキヤの寿命を15年延ばすと約束し、アッシリアの脅威から救い出すことを約束します。
 そのしるしとして、日時計の影が10度後戻りしました。
 そしてイザヤが干しいちじくを患部に当てると、ヒゼキヤの病は癒されました。

日時計の影が後戻りする

日時計

 日時計の影が10度戻るということは、太陽が戻ったということでしょうか。
 実際には太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が自転しています。ということは地球の自転が逆回転した?
 地球はおよそ24時間で1回転します。地球から見ると太陽が東から昇って西に沈み、360度回ってまた東から昇るように見えます。
 影が10度戻ったということは、太陽が10度東に動いたように見えたと言い換えられます。
 太陽は24時間、1440分で360度回っているように見えるので、10度は40分の回転角です。
 日時計の影が10度戻ったということは、その日の長さが40分延びたということです。

 これは本当かどうかわかりませんが、NASAの科学者が天体の動きをコンピューターで解析しようとしましたが、どうしても実際とズレが出てしまいました。
 仲間のクリスチャンの科学者が、聖書の中に太陽が止まった記述があると言いだしました。それはヨシュアが祈って太陽が1日止まったときと、今日の場面です。
 この1日と40分のズレを考慮したところ、正確な軌道が出力されたそうです。
 教会都市伝説の1つですね。信じるか信じないかはあなた次第。

死ぬといったのに死なず怒りを注がない

 ヒゼキヤは死の病が癒されると高ぶり、神様の恵みをまるで自分の力であるかのように思い上がりました。
 これは神の怒りを招きました。
 そこでヒゼキヤは民と共にへりくだりました。
 すると神は怒りをこの時代に注ぐことはしませんでした。

 神が死ぬと言ったのに、それがすぐに15年延期された。高ぶるものへの怒りを延期した。
 神様がこんな簡単に態度を変えていいのでしょうか。

 神の聖定という言葉があります。
 聖なる決定。神があらかじめすべてのことを熟慮し、永遠の決意をもって決定しているという教理です。
 神の聖定は変わりません。
 神が簡単に態度を変えてしまうなら、聖定なんてないということになります。

神の計画は苦しめることでなく救うこと

 神が願っているのは人の救いです。救いの計画は変わりません。
 それ以外のこまごました部分は柔軟です。
 私たちが今日何を食べ、どんな服を着るのか。神様は必要なものを備えてくださいますが、その中でどれを選ぶかは私たちの自由です。私が今朝パンを食べたのは神の永遠の決意だったなどと思わなくていいです。

 神様はソドムとゴモラを滅ぼすと言っても、「正しい人が10人いたら滅ぼさないでください」というアブラハムの要求は聞きました。
 ニネベを滅ぼすと言っても、ヨナの預言を聞いて悔い改めたら延期します。そのとき神は「12万人以上の右も左もわきまえない人間と無数の家畜を惜しまずにいられない」と言いました。

 今日の本文でヒゼキヤは神から死の宣告を受けます。
 この死の宣告は神に立ち帰るためのテストでした。
 かつてアサ王は足の病になったとき、主を求めず医者に頼りました。しかしヒゼキヤは主を求めました。
 ウジヤ王は神の恵みを自分の力だと高ぶって神を捨て、重い皮膚病になりました。しかしヒゼキヤは高ぶりを捨てて神の前にへりくだりました。
 病で苦しめることが目的ではありません。神に立ち帰るためのテストです。

大切なものを失った状態に慣れてしまう人間

 当たり前にあると思っているものは、その大切さを忘れてしまいます。
 停電になったとき、電気の便利さを感じます。
 健康を失ったとき、健康のありがたさがわかります。
 家族と離れて暮らすとき、家族という存在の大きさを感じます。
 戦争が起こった時、平和の尊さがわかります。
 失ったときにようやく、失ったものの大きさに気づきます。

 しかし人間とはたくましいもので、ないならないで何とかなります。
 大切なものを失っても他のもので埋め合わせて何とか生きていこうとします。なくて当たり前の状態に慣れます。

 神から離れた人は、神の愛を失いました。
 人間の中には大きな空白があります。大切なものを失っています。
 その喪失を他のもので埋めることに慣れてしまっています。この世の富、人からの評価などこの世のもので埋め合わせます。
 しかしそのままではいけません。大切なものを失ってしまったなら、可能な限り元に戻すことが大事です。
 停電したら復旧作業をします。
 健康を失ったら病院で治療を受けます。
 家族と離れている人は可能な範囲で連絡を取り絆を保つ。
 平和が失われたなら再び築き上げていく。
 回復を求めるのです。
 神の愛を失った人間には、神に立ち帰ることが求められています。

テストによって救いが必要だと悟らされる

 健康診断というテストがあります。
 不健康な生活に慣れている人でも、健康診断に行くと不健康を指摘されます。
 この習慣を止めなさい。食生活を改善しなさい。運動しなさい。それはあなたの価値を低くするものでも死の宣告でもありません。適切な処置を受けて健康を回復させるために指摘します。
 自分には医者の助けが必要だと悟らせるためです。

 イエス様は言いました。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

マルコによる福音書2:17

 聖書は私たちの罪を指摘します。自分が高慢で罪深く、神から離れていたことに気づかされます。
 そしてこの罪からの救い、イエス様が必要だと悟らされます。
 神に立ち帰り、イエス様を受け入れて救いを受け取るために、神様はテストを与えます。

テストを通って祝福を得させる

 今日の本文の31節を見ると「神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすために、彼を捨て置かれた」とあります。何があったのでしょう。

バビロンからの使者におだてられる

 ヒゼキヤの病気が治りました。
 バビロンの王メロダク・バルアダンが使者を送ってきました。病気だったヒゼキヤのお見舞いと共に、日時計の影が10度戻ったという奇跡について調べさせることが目的です。占星術も盛んな地域でしたから、興味を引かれたのでしょう。
 奇跡によって病気が癒されたヒゼキヤは、うれしくなって話します。聞き手も詳しく知ろうと、ヒゼキヤをほめます。おだてられると調子に乗ってべらべらと話してしまいます。まるで自分が立派な信仰者だから癒されたかのように。
 バビロンの使者はヒゼキヤをほめるだけでなく、王宮や神殿の荘厳さもたたえたのでしょう。気分がよくなったヒゼキヤは神殿の宝物庫の中までバビロンの使者を案内します。まるで自分の所有物であるかのように。

恵みを自分のものにする高慢さが明らかにされる

 バビロンの使者が帰った後、イザヤが来ました。
 「あなたは神様の恵みを忘れ、まるで自分の功績であるかのように思い上がりましたね。」 おそらく25節にある高ぶりの意味するところだと思います。
 イザヤは続けて言います。「あなたはバビロンの人にすべてを見せました。だからこの国のすべてがバビロンに奪い取られる時が来ます。」 後に起こるバビロン捕囚の予告です。

 これが、ヒゼキヤの心を知り尽くすために神が与えたテストでした。
 ヒゼキヤの心にあったものは、神から恵みで与えられたものを自分のものにしてしまう高慢さです。
 ヒゼキヤは心を尽くして神様に従ってきました。しかし恵みに慣れてしまうと、当たり前だと思うようになります。
 当たり前だと思い始める時、神の恵みではなく自分のものだと思うようになります。

試練にあった時に心にあるものが出てくる

 イスラエルの民はエジプトを脱出し荒野に入りました。
 彼らは神様の力強い御業を体験してきました。10の災い、過越し、海を分ける。人間の力ではなく、ただ神の恵みです。
 ところが荒野に入った民はその恵みを忘れてしまいます。神の恵みによって生かされているという事実を忘れます。
 エジプトから出ることができたのは、自分たちがよい人間だったから。自分たちは選ばれた民だから、救われて当然だ。
 そう思い上がった時から不平不満が出てきます。
 エジプトには食べるものがたくさんあった。ここには何もない。神は何のために私たちをこんなところに連れ出したのか。

 神はイスラエルの民になぜ荒野という試練にあわせたのでしょう。

あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。

申命記8:16

 神がイスラエルの民に試練を与えたのは、その心にあることを試すため。そして約束の地に導いて幸福を与えるためでした。
 試練にあった時に私たちの心にあるものが出てきます。隠れていた本当の思いが表れてきます。
 表面的には神様に従っていたように見えるけれど、試練の時に神を求めず自分の力を頼る高慢さが出てくる人もいます。誰かを責める思いが湧いてくることもあります。
 食べるものも飲むものもない荒野でイスラエルの民は神に求めることはせず、モーセに文句を言いました。
 神様が約束の地を準備しているというのに、神の約束よりも奴隷状態の方がよかったという過去の幻想に縛られます。

苦難の先にある幸福

 イスラエルの民がマラという地域にたどり着いたとき、そこの水は苦くて飲めませんでした。民はモーセに「何を飲んだらよいのか」と文句を言います。
 神様はモーセに一本の木を示しました。モーセがその木を水に入れると、水は甘くなって飲めるようになりました。
 そこからまた旅を続けるとエリムというところに着きました。そこには12の泉がありました。
 イスラエルの民が十分水を飲んで休めるオアシスが、マラのすぐ先にありました。

 神様が苦しみにあわせるとしても、そこが目的地ではありません。
 その苦しみ、試練の先に、神様は素晴らしい恵みを備えてくださっています。
 しかし私たちは苦しみに留まり、不平不満をつぶやきます。
 神様が私たちに試練をあわせるのは、私たちの心を試し、その先にある約束の地に導くためです。
 永遠の祝福を与えるために、神様は一時の試練を与えます。

苦難によって鍛えられる神の子たち

 悪魔も私たちに試練を与えることがあります。
 悪魔の試練の目的は、私たちを滅ぼすことです。人間の無力さを見せしめ絶望させる。あるいは人間の偉大さを示し神を求めなくさせる。そうして神から引き離します。
 しかし神様が与える試練には私たちを幸せにする目的があります。
 それはまるで親が愛する子にチャレンジを与えるようなものです。かわいい子には旅をさせろと言いますね。

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。

ヨハネの黙示録3:19

 イエス様はこのように言いました。
 私たちがテストを受けさせられるのは、私たちを愛しておられる神様が私たちを鍛えるためです。
 心にある余計なものを手放し、金より尊いものへと錬り清めるため。
 神に立ち帰り、救いを受け取り、あらゆる祝福を受けられるようにするためです。

死が迫っても神を求める

 ヒゼキヤの話はこれで終わりになります。
 ヒゼキヤはやはり南ユダ王国最高の王として記録されています。
 ヒゼキヤの死後、遺体は王の墓のある丘に葬られました。高い所に葬られるというのは大切に扱われている証拠です。
 住民は死に際してもヒゼキヤに敬意を示しました。
 高ぶったこともありましたが悔い改め、最後まで神様に従ったヒゼキヤは、素晴らしい王様として地上の人生を終えます。

 死がやってきます。
 「あなたは死ぬことになっている」
 これはすべての人がいつか受ける死の宣告です。
 死は人間が受ける最後のテストかもしれません。
 死の時でも私たちは神様を求めることができるでしょうか。
 最後の最後まで神様を求め続ける私たちでありたいと願います。

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