エゼキエル書講解14
恐れているものが来る
エゼキエル書 11:1-13
1 霊はまた、わたしを引き上げ、主の神殿の東に面する東の門へ運んで行った。門の入り口に二十五人の男がおり、その中に民の指導者であるアズルの子ヤアザンヤとベナヤの子ペラトヤがいるのをわたしは見た。2 主はわたしに言われた。「人の子よ、この人々はこの都の中で悪をたくらみ、悪い計画を立てている。3 彼らは、『家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で、我々は肉だ』と言っている。4 それゆえ、彼らに向かって預言せよ。人の子よ、預言せよ。5 また、主の霊がわたしに降り、主は言われた。あなたは言わねばならない。主はこう言われる。イスラエルの家よ、お前たちはそのように言い張っている。わたしはお前たちが心に抱いていることを知っている。6 しかし、お前たちはこの都の中で殺される者を数多く出し、路上は殺された者で満たされる。7 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちがこの都の中に積み上げる殺された者こそ、その肉にほかならず、都は鍋である。しかしわたしは、お前たちをそこから引き出す。8 お前たちは剣を恐れているが、わたしはお前たちの上に剣を臨ませる、と主なる神は言われる。9 わたしは、お前たちをそこから引き出して、異国人の手に渡し、お前たちに対する裁きを行う。10 お前たちは剣に撃たれて倒れる。わたしはイスラエルの国境でお前たちを裁く。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。11 この都が、お前たちにとって鍋となることはない。お前たちがその中で肉となることもない。わたしは、イスラエルの国境でお前たちを裁く。12 そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。お前たちはわたしの掟に従って歩まず、わたしの法を行わず、かえって周囲の国々のならわしに従ってきた。」13 わたしが預言していると、ベナヤの子ペラトヤは死んだ。わたしは倒れ伏し、大声で叫んで言った。「ああ、主なる神よ。イスラエルの残りの者を滅ぼし尽くされるのですか」と。
恐れと安全神話
2017年12月11日、博多発東京行の新幹線のぞみが名古屋駅で点検をしました。すると新幹線の台車に亀裂が入っているのが見つかりました。
ものはいつか壊れるものなので、亀裂が入ってしまうことは仕方ありません。
問題は、異常に気付いていながら3時間も走行を続けていたことです。
まず小倉駅を出た後、客室乗務員などから車掌に「焦げたようなにおいがする」と連絡がありました。岡山駅で3人の車両保守担当者が乗車しました。保守担当は異常な音があるのを確認しました。このとき異臭はありませんでした。保守担当は走行に支障はないと判断して運行は続けられました。
京都駅を出た後、別の車掌が再び異臭に気付きました。そこで名古屋駅に停車した時、外側から点検をしました。その結果、台車の異常が発見されて運転を取りやめました。
そのとき台車の亀裂は10㎝に達し、あと数㎝で断裂していました。初めに異常が報告されてから3時間経過し、740㎞も走行していました。
国土交通省は新幹線で初めて重大インシデントであると指定しました。インシデントとは、事故などを引き起こす可能性がある状況のことを言います。
もし台車が壊れれば、脱線してしまう可能性があります。時速300㎞で走行する新幹線が脱線すれば、大きな事故になることは避けられません。
新幹線車両の台車に亀裂などが発見された重大インシデントについて
なぜ異常がありながら走行を続けたのでしょうか。
安全神話とダイヤを乱すことへの恐れです。
もし停止して点検すれば大きな遅れが生じます。そのような大きな責任は取りたくありません。
また新幹線は大きな事故をほとんど起こしたことのない、安全な乗り物です。点検も毎日行われています。新幹線なら問題は起きないだろう。まだ大丈夫ではないか。もう少し待ってみよう。そのような偽りの安心によって、大きな事故を引き起こしていたかもしれません。
25人の指導者たち
今日の本文はエゼキエルが捕囚になって6年目の6月5日、エルサレムの幻の続きです。
霊はエゼキエルを神殿の東の門へ行かせます。そこには25人の男たちがいました。その中には民の指導者ヤアザンヤとペラトヤもいました。彼らは『家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で、我々は肉だ』と言っていました。
これは民を安心させるために語られた言葉です。しかしこのために多くの者が殺されることになります。恐れているものが来るのです。そしてエゼキエルの目の前でペラトヤは死んでしまいます。
偽りの安心は人を惑わします。恐れから出る行動はよいものを生み出しません。それは死を招くことです。
今日の本文を通して、問題があることを認め、キリストの愛に出会い、命を得る私たちになることを期待します。
偽りの安心
まず今日の本文の1節から6節で『1 霊はまた、わたしを引き上げ、主の神殿の東に面する東の門へ運んで行った。門の入り口に二十五人の男がおり、その中に民の指導者であるアズルの子ヤアザンヤとベナヤの子ペラトヤがいるのをわたしは見た。2 主はわたしに言われた。「人の子よ、この人々はこの都の中で悪をたくらみ、悪い計画を立てている。3 彼らは、『家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で、我々は肉だ』と言っている。4 それゆえ、彼らに向かって預言せよ。人の子よ、預言せよ。5 また、主の霊がわたしに降り、主は言われた。あなたは言わねばならない。主はこう言われる。イスラエルの家よ、お前たちはそのように言い張っている。わたしはお前たちが心に抱いていることを知っている。6 しかし、お前たちはこの都の中で殺される者を数多く出し、路上は殺された者で満たされる。』 とあります。
偽りの安心は人を殺します。
鍋の中の肉
聖霊はエゼキエルを神殿の東の門のところへ連れて行きました。
そこには25人の男たちがいます。その中には民の指導者であるヤアザンヤとペラトヤがいました。
8章では聖所の東側で太陽を拝む25人が出てきますが、立っている位置から考えるとこの人たちは祭司でしょう。
今日の本文に出ている25人は彼らとは別人で、政治団体だと思われます。
彼らは『家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で、我々は肉だ』と言っていました。
鍋の中の肉とはどういう状態でしょうか。
皿の上にある肉はフォークで刺して食べることができます。しかし鍋にフタをしていれば、その中の肉にフォークを刺すことはできません。たとえ火がつけられても、鍋の中にあれば焼け焦げてしまうことはありません。つまり剣や火で攻められてもエルサレムの城壁の中にいれば安全だ。エルサレムはまだ戦える。だからゆっくり時間をかけて家を建てればいいという話です。
彼らの言っていることは本当でしょうか。
実際は何の根拠もない作り話です。
主は預言者たちを通してエルサレムの破滅を予告していました。
8 あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。10 わたしは、顔をこの都に向けて災いをくだし、幸いを与えない、と主は言われる。この都はバビロンの王の手に渡され、火で焼き払われる。」
エレミヤ書21:8-10
エルサレムに留まることは死の道であり、バビロンに降伏することが命の道です。
ですから指導者たちの言うことは主の御言葉に背くことであり、エルサレムの住民を危険にさらすことでした。
赤信号で渡ろうとしている人に向かって「大丈夫だよ、安心して行きなさい」と言うことは、彼を見殺しにするのと同じことです。
主は心の中を知っている
主はエゼキエルに、預言せよと繰り返し命じています。偽りの安心ではなく、真実を伝えなければなりません。
主は「わたしはお前たちが心に抱いていることを知っている」と言っています。
私たちの心にあることは何でしょうか。
私たちの心は愛や喜び、平安ではなく、憎しみ、怒り、恐れが満ちています。人の心は捕えがたく病んでいます。
神はそのことを知っています。隠す必要はありません。むしろ隠していてはいけません。
もしインフルエンザにかかっているのに、「大丈夫だよ」と偽って職場や学校に行ったらどうでしょうか。この人は自分の体を犠牲にして使命を果たした、殉教者のように称えられるべきでしょうか。むしろこの人のせいでさらに多くの人にインフルエンザが広まっていくかもしれません。周りに病原菌をまき散らしたテロリストのような存在です。
偽りの安心は、人を殺すこともあるのです。
殺される者が多く出る
主がエルサレムの指導者たちに伝えたのは、彼らの主張によって殺される者が多く出るということです。
「しかし、お前たちはこの都の中で殺される者を数多く出し、路上は殺された者で満たされる。」
指導者たちに従った善良な民は剣によって殺されてしまいます。
問題があるのに、何もないように隠すことは罪です。殺人と変わらない罪です。
疲れたら疲れたと言っていいのです。難しければ難しいと言っていいのです。わからないならわからないと言っていいのです。
経営が既に破たんしているのに隠して営業を続けた結果、成人式の日に逃げて多くの人を傷つけてしまうこともあります。
私たちがこんなに罪深いから、救いが必要なのです。私たちがこんなに弱いから、全能の神の力が必要なのです。私たちがこんなに惨めだから、無条件に愛してくださる神の愛が必要なのです。
むしろ愛の神は、このような私たちだから愛することを止められません。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マルコによる福音書2:17
ごまかさず自分の惨めさを認めるところから、救いが始まります。
剣が臨む
また今日の本文の7節から10節で『7 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちがこの都の中に積み上げる殺された者こそ、その肉にほかならず、都は鍋である。しかしわたしは、お前たちをそこから引き出す。8 お前たちは剣を恐れているが、わたしはお前たちの上に剣を臨ませる、と主なる神は言われる。9 わたしは、お前たちをそこから引き出して、異国人の手に渡し、お前たちに対する裁きを行う。10 お前たちは剣に撃たれて倒れる。わたしはイスラエルの国境でお前たちを裁く。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。』 とあります。
恐れているものが襲ってきます。
不安を隠す
エルサレムの指導者たちはどうして偽りの安心で真実を隠したのでしょうか。
恐かったからです。
先に捕囚にあった人たちは身分の高い人たちでした。ですからこの時点で残されていた彼らは、ヨヤキン王の時代には政治の中心から外れた異端者だったかもしれません。
しかしそのような惨めな事実は認めたくありません。今エルサレムに残っている自分たちは肉だ。先に捕囚にあった愚か者たちとは違う。自分たちこそ価値ある人間だと言い聞かせています。
そして弱音を吐いたらそこをつけこまれるのではないか。剣によって倒されるのではないか。そのような恐れがありました。
私たちは恐れの感情から様々な罪を引き起こします。
ヤロブアムはイスラエルの民がユダに流れてしまうのではないかと恐れ、金の子牛の像を作りました。エリヤはイゼベルを恐れ、逃げ出しました。ペトロは人を恐れ、イエスを3回も知らないと言ってしまいます。
聖書は繰り返し私たちに「恐れるな」と命じています。
ある学者は恐れるなという戒めを語られた回数が365回だと言います。何の数ですか。1年365日、毎日毎日恐れるなと語って下さっているような気がしてきます。
しかし恐れの感情から良いことが出てくることもあるかもしれません。
親から怒られることを恐れて宿題をする。病気を恐れて健康な生活をする。罪を恐れて主を礼拝する。恐れから良いものが出てきているような気がします。
これには2つの大きな問題があります。それは愛が動機ではないということと、恐れの原因はなくならないということです。
愛から出ていないなら、それはどこかで無理を生じさせます。
どんなによいことをしても、愛がなければ無に等しいのです。
そして恐れているものは、来ます。
ヨブはなぜ主を礼拝したのでしょうか。
恐れていたことが起こった/危惧していたことが襲いかかった。
ヨブ記3:25
と言っています。
もしかしたら子供たちが自分の知らないところで罪を犯したかもしれない。子どもたちが裁かれたとき、自分も一緒に裁かれるかもしれないと恐れていました。主を愛するから礼拝していたわけではありません。
そして、その恐れていたものは現実になりました。
恐れに付け込まれる
主はエルサレムの指導者たちに、「お前たちは剣を恐れているが、わたしはお前たちの上に剣を臨ませる」と言っています。
恐れているものが来るのです。
たとえ都が鍋だとしても、主は彼らをそこから引き出し、剣による裁きを受けさせます。
実際にバビロンはゼデキヤ王たちを捕らえ、シリアのリブラで指導者たちを剣で殺します。
このことは都の中で殺された者こそ鍋の中の肉、善良なイスラエル人であり、指導者たちは国を滅ぼした悪人であることを証明するものでした。
むしろ恐れがあるから、剣を招きます。
私が子どもの頃、実家の裏の家で大きな犬が飼われていました。かわいい犬ではありません。黒くて大きい犬です。それでも私はよくその犬に近づいて行って、頭をなでたりしていました。当時の私は欲望のままに生きていて、あまり深く考えることはしていませんでした。
ある日、近所に住んでいる友だちと遊んでいたときに、またあの犬のところに行ってみようと思いました。友だちも一緒になでたらいいなと思いました。
しかし友だちは近づこうとしません。恐いです。自分より体の大きな肉食動物なわけです。考えてみれば、当然恐いです。
何も考えていない私は、いつも通り近づいて行って頭をなでました。
それを見て友だちも恐る恐る近づいてきました。
そしてもう少しで手が届くというところまで来たとき、かなりショックなことが起こりました。幼かった私には衝撃が大きすぎて、その後の記憶がありません。
親から聞いた話では、友だちはその犬にかまれてしまったそうです。
私は何度もその犬の頭をなでていましたが、かまれたことはありません。しかし友だちは初めて近づこうとしてかまれました。何が違ったのでしょうか。
友だちには恐れがありました。肉食動物は本能的に恐れているもの、逃げるものを追いかけます。
ほえたける獅子のような悪魔も同じです。
奴らは恐れに付け込んできます。だからこそ主は恐れるなと繰り返し命じているのです。
恐れを締め出す愛
私たちはどうすれば恐れに打ち勝つことができるでしょうか。
何も考えず欲望のままに生きていれば何も恐くありません。しかしこれは愚かな生き方でしょう。
恐れに打ち勝つ力があります。
それは愛です。
『18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。』(ヨハネの手紙一4:18-19)
私たちに対して注がれている神の愛を知るとき、恐れは締め出されていきます。
主なる神は私たちを愛しています。私たちは自分が価値のないものになったり、危険な目にあったりすることを恐れます。しかし神は私たちを愛する者、高価で尊い者だと言っています。
イエス・キリストは私たちのために嘲られ鞭打たれ、十字架で死なれました。
この神の愛を知るとき、何を恐れる必要があるでしょうか。
愛は恐れに打ち勝つ力です。
命は主の手にある
最後に今日の本文の11節から13節で『11 この都が、お前たちにとって鍋となることはない。お前たちがその中で肉となることもない。わたしは、イスラエルの国境でお前たちを裁く。12 そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。お前たちはわたしの掟に従って歩まず、わたしの法を行わず、かえって周囲の国々のならわしに従ってきた。」13 わたしが預言していると、ベナヤの子ペラトヤは死んだ。わたしは倒れ伏し、大声で叫んで言った。「ああ、主なる神よ。イスラエルの残りの者を滅ぼし尽くされるのですか」と。 』 とあります。
主に従うことが私たちの命です。
周囲に流される
恐れに取りつかれていたエルサレムの指導者たちは、率先して罪を犯しました。長老たちは偶像に香を焚き、聖所の東側では、男たちが神殿に背を向けて太陽を拝んでいました。これは他の国で行われていた異教の礼拝です。なんとか救ってもらおうと、様々な神にすがる指導者たちの様子がわかります。
果たしてこうすることで命を得ることができるでしょうか。
溺れる者はワラをもつかむということわざがあります。危機的な状況があると、何でもいいから頼りたくなります。
しかしワラをつかんでも沈むだけです。
沈まないものや岸につながったものをつかまなければなりません。
命の源につながることが必要です。
ペラトヤの死
エゼキエルが彼らに向かって預言をしていると、ペラトヤが死んでしまいます。
何ということでしょうか。神の言葉、いのちのことばが語られているのに、目の前で人が死んでしまいました。
主の御言葉を聞いて従わない者はこのようになるのです。
恐らくこの出来事を通してエゼキエル自身の目も開かれたことでしょう。
福音は、緊急を要することなのです。今まさに人々は滅びへと向かっています。福音を知らずに死んでいく人たちがいます。私たちは彼らに伝えなければなりません。
ペラトヤは死んでしまいました。特別に名前が出て来るということは、エルサレムではよく知られた人だったか、エゼキエルが個人的に知っていた人なのでしょう。
エゼキエルが捕囚に連れて行かれる前、6年以上前にも福音を伝えるチャンスはあったかもしれません。その時に伝えていればと、後悔したかもしれません。
エゼキエルは倒れ伏し、「ああ、主なる神よ。イスラエルの残りの者を滅ぼし尽くされるのですか」と叫びます。
ここまでエゼキエルに与えられた預言は、破滅のメッセージでした。しかしこの後与えられる預言は、回復のメッセージです。
エゼキエルは目覚めた者となり、新たな預言活動が始まります。
主は悲しみの中で私たちの目を開かせることがあります。
牧師や宣教師の中に、大きな試練を経験する人たちがいます。洗礼を受ける前に経験する人もいます。その中で、主は全ての主であること、命の主であることを知るようになります。試練を通して、「わたしが主である」ことに目が開かれます。
目覚めた者は光のように輝き、使命を持って立ち上がります。
主に従うことが命
私たちの命はどこにあるのでしょうか。
4 すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。
9 わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、と主なる神は言われる。
エゼキエル書18:4,9
全ての命は主のものであり、正しい人は生きると主は約束しました。
主の御心に従うことが私たちの命です。
主の御心は何でしょうか。
私たちがイエス・キリストを信じること、そして互いに愛し合うことです。
私たちの周りの人々がイエス・キリストを信じて救われるように、滅びゆく彼らに福音を伝える私たちになることを願います。
偽りの安心は人を殺します。
私たちは自分の罪、弱さ、堕落した現実を認めなければなりません。
このような私たちだからこそ、神は愛することを止められません。
私たちに注がれている神の愛によって、恐れは締め出されます。
目を開き、キリストにある命を得る私たち一人一人になることを願います。