エゼキエル書講解19
捕らわれた魂を解き放つ
エゼキエル書 13:17-23
17 人の子よ、自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに顔を向け、彼女らに預言しなさい。18 あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。災いだ、人々の魂を捕らえようとして、どの手首にも呪術のひもを縫い付け、どんな大きさの頭にも合わせて呪術の頭巾を作る女たちよ。お前たちはわたしの民の魂を捕らえ、自分たちの仲間の魂を生かしておこうとする。19 お前たちは、ひと握りの大麦とひとかけらのパンのゆえに、わが民の前でわたしを汚し、欺きの言葉に聞き入るわが民を欺くことによって、死ぬべきではない者を殺し、生きるべきではない者を生かしている。
20 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは、お前たちが、人々の魂を鳥を捕らえるように捕らえるために使っている呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。21 また、わたしはお前たちの頭巾を引き裂き、わが民をお前たちの手から救い出す。二度と、彼らがお前たちの手に捕らえられることはない。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。22 お前たちは、わたしが苦しめようとはしていないのに、神に従う者の心を偽りをもって苦しめ、神に逆らう者の手を強め、彼らが悪の道から立ち帰って、命を得ることができないようにしている。23 それゆえ、もはやお前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手からわが民を救い出す。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」
恩という束縛された道徳観
(2018年3月4日の説教)4月から日本の小学校で道徳が教科になります。
これまでも道徳の時間はありましたが、成績には関係ありませんでした。これからは教科書を使って授業をし、子どもたちの成績を評価します。
先生が子どもたちの道徳観に点数をつけるのです。どのような基準で、どのような方法で成績をつければいいのでしょうか。
価値観や道徳観は人によって違います。しかしズレた価値観を持っていれば成績がつきません。一定の枠に収まった人間を作ることになるかもしれません。
では日本が求める道徳観とはどのようなものでしょうか。
「菊と刀」の著者ルース・ベネディクトは日本人の道徳観についても研究しました。
かつて日本では恩という概念が道徳観を形作っていました。恩とは、親や先生、国から与えられるものです。小さく未熟な人間に、上の立場から与えられます。親は子を育て、先生は生徒を教える。国は国民が生きる環境を与える。人は成長して行く過程で計り知れない恩を受けています。人の命もそうです。生きているというだけで、たくさんの恩を受けています。
似たような概念に恵みというものがあります。恵みは感謝して受けるだけでいいです。返す必要はありません。
恩は返すものです。しかも利子付きで返さなければなりません。だから恩を受けるというのは大変なことです。多額の借金を背負わせられるようなものです。
恩を受けた側は「有難う御座います」や「済みません」と言います。有難う御座いますとは、この恩は自分にとって大きすぎて受け取ることが難しいということです。済みませんとは、この恩を返済する力が自分にないことを謝罪する言葉です。どちらも相手の恩の大きさを強調して感謝の意味を伝えています。同時にこんなに大きな借金を背負わされて困るという心苦しさを含んでいます。
上の立場の人からこのような恩を受けることは仕方ない。しかし自分と同等かそれ以下の人間、あるいは関係ない他者から恩を受けることは腹が立ちます。急に借金を背負わせられたら嫌でしょう。助けられて侮辱されたような気持ちになってしまいます。
人は借金を背負っている間、その貸主に逆らえません。親の恩はあまりにも大きくて返しきれません。だから人は親に逆らうことができません。親の考えに逆らって就職したり結婚したり信仰を持ったりすることはできません。親の言うことに従うことが親の恩を返すこと、親孝行となります。
親孝行は愛でしょうか。親孝行は、恩という莫大な借金に束縛された結果出てくる行動です。親孝行はしなければならないものです。親の言うことにははいというしかなく、いいえという自由はありません。愛は自由な関係の中に存在します。はいと言う自由もいいえと言う自由もあって初めて愛は成立します。
親を愛すると言うなら、親の言うことにいいえと言う選択肢を持てなければなりません。恩という束縛から離れ、自立しなければ本当に親を愛することはできないのです。
残念ながら、このようなことを言っていると道徳の点数は取れないかもしれません。
民の心を捕らえる娘たちに対する預言
今日の本文は自分の心に従って預言する娘たちに対する預言です。彼女たちは呪術の道具を使ってエルサレムの住民の心を捕らえていました。
私たちの心は自由意思がありますが、罪に束縛されています。
主は捕らわれたエルサレムの住民についてわたしの民と言われます。そして捕らわれた魂の解放を約束します。
今日の本文を通して、私たちの心が捕らわれていることを知り、私たちを十字架の血潮で買い取り、自由を与えてくださったキリストの救いに出会う私たちとなることを期待します。
捕らわれた魂
まず今日の本文の17節18節で『17 人の子よ、自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに顔を向け、彼女らに預言しなさい。18 あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。災いだ、人々の魂を捕らえようとして、どの手首にも呪術のひもを縫い付け、どんな大きさの頭にも合わせて呪術の頭巾を作る女たちよ。お前たちはわたしの民の魂を捕らえ、自分たちの仲間の魂を生かしておこうとする。』 とあります。
私たちの心は捕らわれています。
呪術のひもと頭巾
今日の本文に出てくる娘たちも主の言葉に聞こうとせず自分の心のままに預言していました。
彼女たちは呪術の道具を使って人々の心を惑わしていました。
手首にひもを巻き付け、頭巾を被せました。これは人の魂を束縛するためです。
まるでひもにつながれた鳥のようです。自由に飛んでいるようでひもにつながれた範囲でしか生きることができません。頭巾を被れば視野は狭くなり、限られた世界しか見ることができません。
奴隷意思
マルティン・ルターは奴隷意思論という本を書きました。
私たちには自由意思が与えられています。しかし罪によって堕落した人間には、罪の中から選択するしかありません。魂が奴隷のように束縛された状態にあります。
私たち自身はどうでしょうか。皆がするから。社会で常識と言われているから。親がこうしろと言ったから。そのような周りの圧力に振り回されていないでしょうか。私たちは奴隷のように束縛されています。
そのような現実に対して私たちは盲目です。自分たちが束縛されていることも、滅びに向かっていることも知りません。
そのような束縛された状態に愛はありません。
応答は自由
私たちはイエスが主であることを知っています。聖霊様は私たちの心の目を開いてくださいました。イエス・キリストの言葉に聞き従うべきことを知っています。
現実の私たちは弱いです。従えないことはあります。
イエス・キリストは私たちが絶対に従順できるように支配することもできました。しかしそうしませんでした。どのように応答するかは私たちの自由です。
イエス・キリストは私たち一人一人に問いかけます。「あなたはわたしを何者だと思うのか。」
模範解答をする必要はありません。自分にとってイエスは何者なのか。
時には「あんな男は知らない」と言ってしまうこともあるでしょう。だからといってイエスはそのような人を見捨てません。そう言ってしまう人をも受け入れてくださいます。
イエス・キリストは私たちを束縛せず、自由を与えてくださいました。それは私たちを愛しているからです。
奴隷のようにではなく、自由に神を愛する私たちになることを願います。
わが民
また今日の本文の21節から25節で『19 お前たちは、ひと握りの大麦とひとかけらのパンのゆえに、わが民の前でわたしを汚し、欺きの言葉に聞き入るわが民を欺くことによって、死ぬべきではない者を殺し、生きるべきではない者を生かしている。』 とあります。
私たちは神を捨ててしまいますが、神は私たちをわが民と言ってくださいます。
パンのために売られる
娘たちは一握りの大麦とひとかけらのパンを報酬として受け取り、偽の預言をしていました。
エルサレムの住民はパンを支払うだけではなく、その魂をも売り渡してしまっていました。
空しい平和の言葉を聞くために、神を捨てていたのです。
わが民を迷わす預言者たちに対して/主はこう言われる。彼らは歯で何かをかんでいる間は/平和を告げるが/その口に何も与えない人には/戦争を宣言する。
ミカ書3:5
偽預言者にパンを渡せば平和でいられる。パンを渡さなければ戦争の恐怖に襲われる。愚かなことです。
私たちは奴隷の身分でいる方が安心です。周りの皆がするのと同じようにすれば安心。親や先生の言う通りにすれば間違いない。国が決めた規則に従えば大丈夫。恩の奴隷として生きれば、日本では道徳的な人間として扱われます。
かつて日本の中で最も高い身分にいたのは天皇です。天皇の恩は全てに勝った偉大なものです。命をかけて返していかなければなりません。そこで道徳的な日本人は何をしたのでしょうか。天皇のために周りの国を侵略し、天皇のために人を殺し、天皇のために自殺したのです。非国民と言われることを恐れ、安心を得るために恩の奴隷になった人間の結末です。
宝の民
私たちは自分の価値を忘れてはいけません。
イスラエルの民が荒野をさまよったとき、ある人々はエジプトの方がよかったと言いました。
エジプトでは魚、キュウリ、スイカ、ニラ、玉ねぎ、にんにくがあった。荒野には何もない。ああ、肉が食べたい。
エジプトで彼らはどのように生きていたのでしょうか。奴隷だったではありませんか。
主なる神様がその力強い御手をもって救い出してくださいました。そして主はシナイ山でイスラエルの民と契約を結び、彼らを宝の民と言われました。
自分の価値を忘れて、再び奴隷になってはなりません。
主は、わたしの目にあなたは高価で尊いと言ってくださいます。
今日の本文でも主なる神様は私たちのことをわが民と言ってくださいます。
私たちは神を捨て、この世の奴隷になってしまいます。それでも神は私たちを捨てず、わたしの民だと言ってくださるのです。
キリストの血潮
私たちがどれほど高価で尊い存在か、どうすればわかるでしょうか。
ものの価値は、それに対してどれくらいの代価を支払えるかによって決まります。
リサイクルショップに行くと、色々な物が売られています。そこで売られているものは、前の持ち主にとって不要となったものです。前の持ち主にとっての価値は50円で買い取ってくれればいいという程度だったかもしれません。
しかし他の人は1000円を払って買います。だとしたらその品物は、新しい持ち主にとって1000円の価値があるということになります。もし100万円を支払うなら、100万円の価値があるのです。
神は私たちのためにどのような代価を支払ってくださったのでしょうか。愛する独り子を十字架で死なせるという代価を支払ってくださいました。
このようなことができますか。独り子というのは、単純に1人だけの子どもということではありません。最も大切な存在のことです。親にとって子どもがそうでしょう。
もし子どもが病気で死にそうになったらどうしますか。自分の命を犠牲にしてでも、子どもには生きていてほしいと願いますね。
5年前の3月2日、北海道は大雪でした。
岡田幹夫さんは小学生の娘を車で迎えに行きました。
家に着く数100メートル手前で雪にはまってしまい、車が動かなくなってしまいます。警察に助けを求めましたが、大雪のため救助に行くことも難しいです。
あと少し。岡田さんは車から降りて歩いて帰ることにしました。
しかし猛吹雪に襲われ、全く前に進むことができなくなってしまいました。とうとう歩くことができなくなってしまいます。
翌日、雪の中で倒れている二人が発見されました。
岡田さんは既に亡くなっていました。
しかし娘の方は生きていました。
発見当時、岡田さんは娘の上に覆いかぶさるようにして倒れていました。自分の命を犠牲にして、娘を守ったのです。
子どもの命は親にとって、自分の命より尊いものです。それでも子どもが死ななければならないとしたら、親はどれほど心を痛めなければならないでしょうか。
独り子イエスを与えた神の愛とは、神にとって支払うことのできる最大の犠牲を払ったということです。
私たちは罪の奴隷でしたが、キリストの十字架の血潮によって買い取られ、神のものとされました。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
コリントの信徒への手紙一6:20
私たちの命はこの世の何物にも代えられない尊い価値があります。もう再びこの世の奴隷になってはなりません。
解き放つ
最後に今日の本文の20節から23節で『20 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは、お前たちが、人々の魂を鳥を捕らえるように捕らえるために使っている呪術のひもに立ち向かい、それをお前たちの腕から引きちぎり、お前たちが鳥を捕らえるように捕らえた魂を解き放つ。21 また、わたしはお前たちの頭巾を引き裂き、わが民をお前たちの手から救い出す。二度と、彼らがお前たちの手に捕らえられることはない。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。22 お前たちは、わたしが苦しめようとはしていないのに、神に従う者の心を偽りをもって苦しめ、神に逆らう者の手を強め、彼らが悪の道から立ち帰って、命を得ることができないようにしている。23 それゆえ、もはやお前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手からわが民を救い出す。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」』 とあります。
主が私たちを解き放ち、救い出します。
苦しめようとしていない
イスラエルの民は偽預言者のせいで苦しめられます。
大人しくバビロンに投降していれば助かるとエレミヤは預言しました。しかし偽預言者がエルサレムは平和だというので、住民はそこに留まっています。そして飢えと疫病に苦しめられています。
これは主の御心ではありません。主は私たちを苦しめて喜ぶような趣味はありません。
魂の解放
主は私たちの魂を解放します。呪術のひもを引きちぎり、頭巾を引き裂きます。鳥のように捕らわれていた魂は自由に飛びまわることができます。
霊の目は開かれ、主の恵みを見ることができます。もう何物も私たちを束縛することはできません。
イエス・キリストは復活しました。死の力をも打ち破った力ある神の子です。
わたしが主であることを知る
私たちはもうこの世の声に惑わされず、自由に生きることができます。
いいえと言う自由もありますが、はいと言う自由があります。従わない自由もありますが、従う自由があります。
ツバメは自由に大空を飛び回ります。夏になると巣から離れ、秋には南の島へ飛んで行ってしまいます。ツバメを束縛できる人は誰もいません。
しかしツバメは春になるとまた育った巣に帰って来ます。どこにでも行く自由があるけれど帰って来る。それはそこに自分のホームがあることを知っているからです。
私たちは自分のホームがどこにあるかを知っていれば、そこに帰ります。帰って来いと言われなくても帰ります。そこに愛があることを知っているからです。
親の恩に支配されなくても、親の愛を知れば親を愛します。
神の愛を知れば、神を愛する者に変えられていきます。
私たちをキリストの血潮で買い取られた神の愛を知るとき、私たちは自由に神に従う道を選択できます。
「わたしが主であることを知る」
イエスが主であることを認めるとき、私たちは本当に自由です。真理は私たちを自由にします。
私たちは何の奴隷になっているでしょうか。
私たちはキリストの十字架の血潮で買い取られました。この驚くべき神の愛を知るとき、私たちは本当に自由です。
自由に神を愛する私たちになることを願います。