幻の平和

エゼキエル書講解18

幻の平和

エゼキエル書 13:1-16

1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。3 主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは。4 イスラエルよ、お前の預言者たちは廃虚にいる山犬のようだ。5 お前たちは、主の日の戦いに耐えるために、城壁の破れ口に上ろうとせず、イスラエルの家を守る石垣を築こうともしない。6 彼らはむなしい幻を見、欺きの占いを行い、主から遣わされてもいないのに、『主は言われる』と言って、その言葉が成就するのを待っている。7 お前たちが見ているのはむなしい幻、お前たちが口にしているのは欺きの占いではないか。わたしが語ってもいないのに、『主は言われる』と言っている。
8 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちはむなしいことを語り、欺きの幻を見ているので、わたしはお前たちに立ち向かう、と主なる神は言われる。9 わたしの手は、むなしい幻を見る預言者たちと、欺きを占う占い師たちに向けられる。彼らはわたしの民の集いに加えられず、イスラエルの家の記録にも記されず、イスラエルの土地に入ることもできない。そのとき、お前たちはわたしが主なる神であることを知るようになる。10 平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。11 漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。12 壁が崩れ落ちれば、『先に施した上塗りはどこに行ったのか』とお前たちは言われるに違いない。
13 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは憤りをもって、暴風を起こし、怒りをもって豪雨を降らせ、怒り狂って雹を石のように降らせ、すべてを破壊する。14 お前たちが漆喰を塗った壁をわたしは破壊し、地面に打ちつけて、その基礎をむき出しにする。それが崩れ落ちるとき、お前たちもその中で滅びる。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。15 わたしは、壁とそれに漆喰を塗った者たちに対し怒りを注ぎ尽くし、『壁もなくなり、それに上塗りをした者たちもいなくなった』とお前たちに言う。16 エルサレムに預言するイスラエルの預言者たちよ。平和がないのに、都のために平和の幻を見る者たちよ、と主なる神は言われる。

安全の根拠は何か

 昨日(2018年2月24日)、石巻市立大川小学校で閉校式がありました。
 昨年は近くの北小学校も閉校しました。少子化で合併や廃校になる学校があります。しかし大川小学校は事情が違います。
 2011年に東日本大震災が発生し大津波が来ました。石巻市も大きな被害が出ました。大川小学校には当時108人の児童と11人の教職員がいました。その内74人の児童と10人の教職員が死亡もしくは行方不明になっています。校舎は使い物にならなくなりました。子どもたちが住んでいた地域の多くは危険地域に指定されて、住むことができなくなりました。その後も7年間、隣の小学校の敷地にプレハブ小屋を建てて学校を続けてきました。しかしとうとう二俣小学校という学校と合併することになりました。
 108人中74人がいなくなってしまった。なぜこのような悲劇が起きたのでしょうか。

震災後の大川小学校

 大川小学校は海から4㎞離れています。すぐ近くに北上川がありますが、海には防波堤があり、川沿いには高い堤防があります。石巻市は過去の津波のデータとも照らし合わせて、大川小学校のあたりまで津波が来ることはないと想定していました。ですから大川小学校が津波の時の避難場所にも指定されていました。
 2011年3月11日、地震が発生した当時、校舎の中はガラスが割れてしまい危険な状態でした。それで児童たちはまず校庭に集められました。親が迎えに来て帰った児童もいましたが、多くの子は学校に残っていました。
 大津波警報が出ましたが、学校は安全だろう。しかし念のため移動することにしました。子どもたちも不安でじっとしていられません。
 学校の裏には山がありますが、階段もなく登るのが難しい。そこで北上川の堤防に移動することにしました。そこが、歩いて行ける範囲では一番高いところでした。
 ところが堤防に移動する途中に津波が押し寄せ、74人の児童と10人の教職員が犠牲になってしまいました。
 津波は校舎全体を飲み込み、裏山の高さ10mの地点まで達しました。
 誰も想像できなかった大津波でした。この教師たちの判断を責めることも難しいです。
 私たちは安全だろう、大丈夫だろうという自分なりの基準で留まることがあります。
 しかし実際の苦難は、私たちの想像をはるかに超えてくることがあります。その時私たちは何に信頼の根拠を置いているのかが明らかにされます。

 今日の本文は主がエゼキエルに、預言者に向かって預言しなさいと言う場面です。イスラエルの預言者たちは主が語っていないのに自分たちの心に従って預言しています。そんな預言者たちに、「主の言葉を聞け」と語ります。

主の言葉を聞け

 まず今日の本文の1節から7節で『1 主の言葉がわたしに臨んだ。2 「人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。3 主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは。4 イスラエルよ、お前の預言者たちは廃虚にいる山犬のようだ。5 お前たちは、主の日の戦いに耐えるために、城壁の破れ口に上ろうとせず、イスラエルの家を守る石垣を築こうともしない。6 彼らはむなしい幻を見、欺きの占いを行い、主から遣わされてもいないのに、『主は言われる』と言って、その言葉が成就するのを待っている。7 お前たちが見ているのはむなしい幻、お前たちが口にしているのは欺きの占いではないか。わたしが語ってもいないのに、『主は言われる』と言っている。』 とあります。

人が気に入る言葉を語る偽預言者

 イスラエルの預言者たちは主の御声を聞くのではなく自分の心のままに預言していました。自分の心のままに預言し、自分の霊の赴くままに歩んでいると言われています。彼らは何を話していたのでしょうか。

16 万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの/言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ/主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。17 わたしを侮る者たちに向かって/彼らは常に言う。「平和があなたたちに臨むと/主が語られた」と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって/「災いがあなたたちに来ることはない」と言う。

エレミヤ書23:16-17

 預言者たちは平和が臨み災いは来ないと語りました。
 しかしこれは主が語ったのではなく、彼らが勝手に作った話です。
 こういう言葉の方が喜ばれます。
 主はイスラエルの破滅を予告していますが、そんなことは誰も聞きたくありません。
 なので偽預言者たちは主の言葉ではなく、人々が気に入る言葉を語りました。

廃墟で鳴くジャッカル

ジャッカル

 主はこのような人々を山犬もしくはジャッカルにたとえます。それは死肉を食べる獣です。鳴き声だけは立派です。
 ワオーンと鳴くだけで、イスラエルを守ろうとはしません。むしろ民を死なせてしまいます。
 預言者たちがすべきことは何でしょうか。主の言葉を民衆に伝えることです。神と人との仲介者の役割をしなければなりません。
 城壁の破れ口に上るように、神と人との関係を修復しなければなりません。神から離れた人に神の言葉を告げ、神様のもとへ帰らせる。それが預言者の役割です。
ところがジャッカルのように空しい声を上げるだけで、人を死なせています。
 そして人々は何の根拠もない平和の約束が実現することを待ち続けています。

真理から耳を背けていく

 私たち自身はどのような声に耳を傾けているでしょうか。
 私たちも自分に都合の良い声に耳を傾けがちです。自分の好きな話、興味がある話、意見が合う話だけを聞いてしまうことがあります。同じ話を聞いていても、都合よく解釈してしまうこともあります。
 ニュースをインターネットで見ることもできます。そうすると自分の見たいニュースだけを見ることができます。
 SNSのタイムラインには自分の興味のある話ばかりが流れてきます。

 先日、台湾で大きな地震がありました。早速日本でも募金が呼びかけられました。様々な団体が募金を呼びかけました。
 その中のある団体について、「ここに募金してはいけない」とTwitter上で呼びかけた人がいました。
 彼がそう言った根拠は、事実ではありませんでした。
 しかしそのツイートは6万回もリツイートされました。
 募金を広く呼び掛けなければいけないときに、募金をしてはいけないと言う根拠のない話をして妨害しました。
 彼自身は悪意があったわけではなく、前に見たデマを信じて拡散してしまいました。それを見た人も根拠を確かめずに拡散してしまいました。
 自分と同じ考えの人とばかり付き合っていると考えが偏った方向に行ってしまいます。それがとんでもない間違った情報でも、真実だと思い込んでしまいます。
 銃を使った事件が起こると、銃を規制すべきと言う人たちもいるし、銃の犯罪を防ぐには銃で武装するのが一番だと言います。
 偏った意見でも、それを支持する根拠をどこかから見つけることができます。
 私たちは幅広く情報を得る必要があります。
 周りの皆が信じる話も、よく検証しなければなりません。
 常識と言われる話も、聖書の言葉も、本当だろうかと確かめてみることが大事です。

 イスラエルの多くの人々はイエス様が行う奇跡を見て従いました。
 ある時は5000人以上の人々が従いました。夕方になっても帰りません。彼らはパンを求めて従いました。
 しかしイエス様の言葉は受け入れがたく、話を聞いた多くが離れ去りました。
 パウロはテモテに警告しました。

3 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、4 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。

テモテへの手紙二4:3-4

 人々は自分に都合のいい教師を集め、都合のいい情報を集めます。そして真理から耳を背けます。
 私たちもそのような態度をすることがあります。
 私たちは主の言葉を聞かなければなりません。
 「主の言葉を聞け」
 これが私たちに命じられている言葉です。
 そして破れ口を修復するように、神様との関係を修復する和解の言葉を聞きなさい。福音を聞きなさい。そう命じられています。
 福音は、時には心に鋭く突き刺さります。
 それでも主の言葉に耳を傾け、神様との関係を建て直していきましょう。

神様との関係を修復せよ

 また今日の本文の8節から12節で『8 それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちはむなしいことを語り、欺きの幻を見ているので、わたしはお前たちに立ち向かう、と主なる神は言われる。9 わたしの手は、むなしい幻を見る預言者たちと、欺きを占う占い師たちに向けられる。彼らはわたしの民の集いに加えられず、イスラエルの家の記録にも記されず、イスラエルの土地に入ることもできない。そのとき、お前たちはわたしが主なる神であることを知るようになる。10 平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。11 漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。豪雨が襲えば、雹よ、お前たちも石のように落ちてくるし、暴風も突如として起こる。12 壁が崩れ落ちれば、『先に施した上塗りはどこに行ったのか』とお前たちは言われるに違いない。』 とあります。

漆喰を上塗りする者

漆喰を塗った壁

 主は偽預言者たちを、漆喰を上塗りする者と言っています。
 漆喰は家の壁などに塗られたものです。
 当時のユダヤの家は日干しレンガを積み重ねて作られました。そのレンガの上に漆喰を塗り、壁をきれいに見せていました。
 もし中のレンガが割れたり欠けたりしていたら、漆喰を上塗りしてもそこから壊れていきます。嵐が襲うと漆喰ははがれ落ち、壁は崩れ落ちます。
 「平和だ平和だ」と口先では言うけれど、破滅へと向かっているイスラエルはまさにそのような状況です。

神様との関係は断たれていないか

 主はむなしい幻を見る預言者が「わたしの民の集いに加えられず、イスラエルの家の記録にも記されず、イスラエルの土地に入ることもできない。」と語ります。
 民の集いに加えられないというのは、汚れた状態にあるということを意味しています。神様との関係が断たれているいる状態です。
 表面上は立派に振る舞っているけれど、神様との関係がありません。

 私たちの信仰生活はどうでしょうか。日曜日は教会に来て、聖書を読み、祈る。立派な信仰生活を送っているように見える。それでも神様との関係が断たれていることがあります。

 アメリカのある教会がスコットランドの教会に宣教献金を送っていました。支援先の教会を視察するために、牧師1人と長老2人がアメリカから派遣されました。
 多額の献金を送っていたので、スコットランドの教会がどれほど祝福されているのか期待して行きました。
 スコットランドの教会は数百年の歴史がある教会でした。石畳の階段を上ると立派な扉がありました。スコットランド人の牧師に迎えられ、牧師館に行きました。牧師館もきれいな板が張られています。長老たちは、自分たちの支援でこの教会は祝福されていると感じました。
 スコットランド人牧師は大きな木箱を持って来ました。中には葉巻が入っていました。長老たちは怪訝そうな顔をして断りました。ところが一緒に行った牧師は葉巻を受け取り、スコットランド人牧師と一緒に吸っています。
 次にスコットランド人の牧師は棚の中からグラスを取り出すと、年代物のウイスキーを注ぎました。長老たちはまた困惑して断り、大英帝国のキリスト教が死んだ理由はここにあると思いました。ところが牧師はウイスキーを飲みながらスコットランド人牧師と楽しそうに話しています。
 帰りにタクシーに乗り込むと、長老たちは牧師に詰め寄りました。「牧師先生、なんてことをしたんですか。がっかりですよ。」
 すると牧師は「君たちがあんな態度を取るものだから、せめて私だけでもクリスチャンらしく振る舞わなければならないと思ったのだよ。」と答えました。
 どちらがクリスチャンらしく振舞ったと思いますか?
 そのクリスチャンらしさとは、教会が求めるクリスチャンらしさになっていませんか?
 イエス様の模範に従うクリスチャンらしさとはどういうものでしょうか?イエス様が愛するものを愛し、イエス様が憎むものを憎む。
 表面的に何をするかではなく、どうあるかが大事です。

あなたはどういう人間か

 平昌オリンピックが行われています。昨日、スピードスケートの女子マススタートという種目で日本人選手が金メダルを取りました。銀メダルは韓国の選手。
 この韓国の選手は先に行われた女子団体追い抜きにも出場していました。3人が1列になって空気抵抗を避けながら走ります。1番最後にゴールした人のタイムがチームの記録になります。
 競技中、韓国のチームの中で1人が遅れてしまいました。他の2人は彼女を置き去りにして走りました。その結果、最下位の8位で終わりました。
 見捨てた選手は試合終了後の会見で、遅れた選手が悪いのだと責任転嫁しました。
 個人では銀メダルを取る実力がある選手でも、仲間を置き去りにするなら最下位に転落します。
 どういう人間なのか。品性が問われます。

 私たちも表面的には漆喰を塗ったようにきれいに見せているかもしれません。
 しかしその内面、霊の部分がボロボロであるならば。つまり神様との関係が壊れているなら、漆喰ははがれ落ち、何も残らなくなってしまいます。
 神様との関係を修復することが大事です。

キリストの土台の上に立つ

 最後に今日の本文の13節から16節で『13 それゆえ、主なる神はこう言われる。わたしは憤りをもって、暴風を起こし、怒りをもって豪雨を降らせ、怒り狂って雹を石のように降らせ、すべてを破壊する。14 お前たちが漆喰を塗った壁をわたしは破壊し、地面に打ちつけて、その基礎をむき出しにする。それが崩れ落ちるとき、お前たちもその中で滅びる。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。15 わたしは、壁とそれに漆喰を塗った者たちに対し怒りを注ぎ尽くし、『壁もなくなり、それに上塗りをした者たちもいなくなった』とお前たちに言う。16 エルサレムに預言するイスラエルの預言者たちよ。平和がないのに、都のために平和の幻を見る者たちよ、と主なる神は言われる。』 とあります。

基礎がむき出しになる

 主ご自身が嵐を起こし、すべてを破壊すると言っています。漆喰を塗った壁は壊され、基礎がむき出しになります。そして中にいた人々も滅ぼされてしまいます。
 表面は立派に見えていても、嵐が襲うと中身が明らかになります。
 家を砂の上に建てても岩の上に建てても、外からは同じように見えます。嵐が襲ってきた時に、その土台が明らかになります。

46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

ルカによる福音書6:46-49

 表面的には同じです。しかし一方は土台なし。もう一方は地面を深く掘り下げ、硬い岩盤の上に土台を置いています。
 掘り下げていかなければなりません。

根がよければ倒れない

セコイアデンドロン(ジャイアントセコイア)

 私たちの信仰の成長というのは、下へ下へと潜っていくものです。
 自分はどこに土台を置いているのかを掘り下げていくことで、上にも伸びることができます。
 高層マンションのような高い建物ほど、地面を掘り下げて基礎をしっかり造ります。
 世界で一番高い木は、ジャイアントセコイアという杉の仲間です。大きいものでは高さ90mにもなります。浜松駅の近くにある浜松プレスタワーと同じくらいの高さです。
 その木の根の深さはどれくらいでしょうか。実は数mしかありません。
 それだけの深さの根で高い体をどうして支えられるかというと、横に広いのです。横に根を伸ばし、他の木と互いに絡み合っているので倒れません。
 根が大事なのです。根がしっかりしていると上にも成長できます。
 クリスチャンの成長も根の成長のようなものです。表面的に何をするかではなく、土台はどうなのかが問われます。

主を信頼し歩む

 下へと向かうためには、自分で自分を大きく見せようとすることを手放さなければなりません。自分をよく見せようと握っていたものを手放すとき、私たちはへりくだり、下へと向かっていけます。
 そして自分の力で自分を支えようとすることからも解放され、互いに仕え合い、支え合っていけます。
 へりくだり、互いに愛し合うところにクリスチャンとしての成長があります。
 しかし土台がなければ共倒れになります。
 まず大事なのはどこに土台を置いているのかです。イエス・キリストという土台につながれているときにクリスチャンとしての成長を目指すことができます。
 神様との関係が大事です。
 普段の生活の中でも御言葉を聞いていますか。立派な行いももちろん大事なのだけれど、まず主の言葉を聞いて行う。
 主の愛を受け取り、主と共に歩んでいきましょう。

 私たちは自分に都合の良い話ばかりを聞いてしまいます。しかし主は命じます。「主の言葉を聞け」と。
 むなしい幻ではなく主の言葉を聞くときに、石垣は立て直され、神様との関係は回復されていきます。
 表面的な行いではなく神様との関係を大事にし、御言葉と祈りの中で主と共に歩んでいく私たちになることを願います。

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